「わたしは道である」

2008年04月20日
ヨハネによる福音書14章1節〜14節  ヨハネによる福音書によりますと、イエスさまは「わたしが行く所にあなたたちはくることができない」という言葉をきっかけに、弟子たちに向かって長い告別の説教をされたことが記されています。  弟子たちの足を洗い、イスカリオテのユダの裏切りを予告し、さらに、ペテロに3度わたしを知らないというだろうと言って、ペテロの離反を予告されました。そして、「わたしは今はあなたがたと一緒にいるが、まもなく見えなくなるであろう」と予告されました。  子どもを置いて出かけようとする母親が、不安を感じている子どもに言い聞かせているような感じを受けます。  弟子たちは不安になり、心が穏やかではありません。イエスさまはそのような弟子たちに対して、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と言い、そこから長い最後の言葉を述べておられます。 「わたしの父の家、すなわち神の居られる所には、あなたがたが住む所がたくさんある。もし、それがなければ、わたしは、あなたがたのために場所を用意しに行くなどと言ったであろうか。」  「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。このようにして、わたしの居る所に、あなたがたもいることになる。」  そして、言われました。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。(知っているはずだ)」と。  すると、弟子の一人トマスが言いました。  「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」  イエスさまが、どこかへ行く、どこかへ行くと言われるので、トマスは言います。「あなたが行かれようとするのはどこか分かりません。その行き先がわかりません。ダマスコへ行く道ですか。エリコへ行く道ですか。ガリラヤへ行く道ですか。どの道で行くと一言おっしゃってくだされば行き先はだいたい分かるのです。それはどの道でしょうか」と、トマスは尋ねたのです。  イエスさまが語っておられる「行く」という意味と、トマスがいう「行く」という意味が違っています。イエスさまは、「神が、人の子すなわちイエスさまによって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって、人の子、すなわちイエスさまに栄光をお与えになる」(13:32)と言われました。人間の肉体を取った神の子イエスさまが、栄光をお受けになるということは、神が神となるということであり、父なる神のもとへ行かれるということです。  しかし、トマスのいう「行く」は、この地上での行き先を一生懸命訊いています。エリコですかガリラヤですかと。語られていることの次元が違っていて、会話に食い違いを感じます。  これに対して、イエスさまは言われました。  「わたしは道であり、真理であり、命である。」  イエスさまは、たびたび、ご自分のことをいろいろなものにたとえて、象徴して、自己紹介しておられます。  「わたしは、パンである」、「わたしはぶどうの木である」「わたしは良い羊飼いである」「わたしは門である。羊の門である」。そのほかにもいろいろ言葉で表現しておられます。そして、今日のこの福音書では、「わたしは道である」「わたしは真理である」「わたしは命である」と言われます。真理も命も、それは神のものです。それを得るためには、「わたし」という道を通っていかなければならない、ということなのです。ここで、イエスさまは、ご自分の鼻の頭を指さして、「わたしはこういう者なのだ」と自分を分かってもらおうとして懸命に自己紹介しておられる姿が浮かんできます。  今日は、とくに「わたしは道である」と言われたこの言葉について考えてみたいと思います。  日本語では「道」という言葉は、さまざまに意味を持っています。人や車が行き来する所、道路、通路という意味があります。  また、目的地にいたる途中。みちのり。距離。そして、「世の中の道」とか「人の道に背く」とかいう時には人が考えたり行ったりする事柄の道理、何が正しいかということの基準。さらに、儒教や仏教では「仏の道」などと言います。手段、方法、方面、分野など、「その道の達人」「歌の道」「武士道」など、など。  イエスさまが語られた「わたしは道である」とは、道路とか通路という意味だと思いますし、ある目的地にいたる途中のことを言っておられるのだと思います。  ひと口に言えば、「神さまのところにいたる道、神を求め、神に近づこうする時に通って行く道」、また、言いかえれば「神を知る方法」「神に出会う手段」という意味です。  わたしは、神にいたる道です。神をほんとうに知りたい人、神にほんとうに出会いたい人は、わたしを通って行きなさい。わたしを通らずには神に出会うことはできません」と言っておられるのです。なぜなら、わたしは神の子です。父は子のことを誰よりもよく知っている、そして子は誰よりも父のことを知っているからです。  私たちが、神さまを知ろうとしても、神を見ることは出来ません。神の声を聞くこともできません。神の存在を科学的に証明することもできません。では、私たちはどのようにして、神を知るのでしょうか。  私たちにできる唯一の方法は、イエスさまを信じ、イエスさまを知ることです。そして、イエスさまが指さす方、イエスさまが「父よ」と呼ばれる方、このイエスさまを通して、私たちは、神を知ることができるのです。私たちが手に持っている聖書は、目的地、すなわち神さまに至る道、道であるイエスさまのことを書いた地図です。わたしたちは、この地図を頼りににしながら、イエスさまという道を通って、神様のところにたどり着くことができるのです。  1981年、27年前になりますが、インドで、アジア・キリスト教協議会という会議と研修会がありまして、約1ヶ月、インドに滞在したことがありました。その会議は、インドのちょうど真ん中に位置するバンガローという町でありました。何日もそこに滞在していた時のですが、プログラムの中程で自由時間がありまして、ある日の午後、一人でダウンタウンに出かけて行きました。そして、いわゆるゴチャゴチャと小さな店がいっぱい並んだマーケット街に入ったのですが、迷い込んでしまって、道がわからなくなりました。夕方になり暗くなってきますし、次のプログラムの時間があるので、早く帰らなければなりません。 細い道が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、両側に同じような屋台が並び、標識も目印になるような建物も見つけられません。だんだんと焦ってきました。同じところばかりをぐるぐる回ったり、ぜんぜん違うところに出てきたりして、地図を持っていたので、初めは大丈夫だと思っていたのですが、そのうちに自分のいる位置が分からなくなってしまいました。そこで、誰かに道を尋ねようと思って、中年のちょっとインテリそうな感じの男性に、英語をしゃべれるかと訊き、私が持っている地図を示して、私は、今どこにいるのか教えてほしいと言いました。すると、その人は、地図を見ていましたが分からないと言います。そして、周りの人に尋ねました。その人もわからない。次の人も、次の人も、みんな分からないのです。ふと気がついてみると、廻りには、男の人ばっかり、50人ぐらいの人だかりになっているのです。狭い道路をふさいで、口々にああでもない、こうでもないと議論が始まっているのです。私は、怖くなって、地図をひったくって、その人の群れの真ん中から抜け出し、逃げ出しました。さらに1時間か2時間歩き回って、やっと宿泊している所に帰ってきました。  なぜ、あんなことになってしまったのだろうと、不思議に思っていたのですが、あとになってわかったのですが、その町の人たちは、一生懸命に道を教えてくれようとしたのですが、その人達は、地図というものを見たことがなかったのです。生まれて以来、その町にずっと住んではいるのですが、地図を見たのは初めてだとすると、町全体を、上の方から見渡すような感じで理解すること出来ないのは当然です。通りの名前も、地図の上で今どこにいるのかわからない、それで、ああでもないこうでもないと議論が始まったのでした。  皆さんも、道に迷った経験があると思います。京都の街では、外国人の旅行者が、地図を頼りに歩いている姿をよく見かけます。京都市内の街は碁盤の目のように時には迷っている人もいます。  京都ですと、山が見える方向が東ですから、東西南北が分かると地図を持っていると、だいたい自分の位置が分かります。  多くの場合、道がわからないということは、今、自分がどの位置にいるのか分からない。自分が今立っている所がどこか分からないということであり、その次にどの道を通っていけばいいのかわからないということになります。  地図を見たことがない、地図の見方がわからないという人には、あわてて、地図を取り出しても、その道がわかりません。  さて、私たちが生きているということは、そこにはいろいろな問題が起こってきます。知らない所で道に迷っている人のように、不安や恐怖感じる時があります。あわててしまってパニックになった時には、どこへ行こうとしているのという目的すらも見失ってしまうことがあります。あわてて地図を取り出してみるように、生きるか死ぬかの大きな問題に出会った時、あわてて聖書を取り出してみても、そこからすぐには回答は与えられません。  歩いてはいても、地図がなければ、自分が、今、居る場所さえもわからないのと同じように、聖書を通して、イエスさまを知ることなくしては、自分の抱えている問題に押しつぶされて、自分のいる位置も道もわからなくなってしまいます。  「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」  イエスさまという道を見失わないようにしたいと思います。 〔2008年4月20日 復活節第5主日(A) 京都聖ヨハネ教会〕