父よ、時がきました。

2008年05月04日
ヨハネ福音書17章1節〜11節  ヨハネによる福音書によりますと、主イエスは、弟子たちに長い訣別の説教をした後、引き続いて17章では、天を仰いで、お祈りをされました。  「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。 『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。』」  イエスさまは、天を仰いで「父よ、時が来ました」と言われました。  最初に、イエスさまの時について考えたいと思います。  私の母は、7年前に、90歳で亡くなりました。その10年ほど前から、いわゆる認知症いうのでしょうか、老齢によるボケが始まりました。完全にぼけてしまうのではなく、ちゃんとわかってものが言える時と、昔の若い頃、結婚前の自分に戻ってしまう時とがあって、晴れたり曇ったりという感じの毎日が続いていました。  そんな時期のある日、しみじみと言ったことがありました。  「わたしも適齢期やからなあ」と。  「またまた、そんなこと言うて、今、自分がいくつやと思ってるの」と、周りのものは顔を見合わせて笑いました。 母はまじめな顔をして、適齢期だと言い張りました。  しばらくして、わかったのですが、母の言っている「適齢期」というのは、死ぬ適齢期だと言っていたのです。しみじみと自分の年齢をふり返って、ぼちぼち死が近いのだなあと「時」感じていたのでした。まわりの者は、ぼけて若い時に戻ってしまって、結婚の適齢期が近いと言っているのだと思っていました。その時は、いたって頭は明晰で、人生の終わりが近いことを、少し洒落て言っていたのでした。それを聞いて、周りは笑うだけで、真剣に、真っ直ぐに、その時の母の思いを受け取ってやれなかったことを今でも後悔しています。  小さい子どもの頃、ツベルクリンの予防接種とか、はしかの予防接種とかが、学校でありました。小学校の講堂で、上半身裸になったり、腕まくりしたりして、お医者さんの前に並ばされて、順番を待っています。何人か前の人が、今にも泣きそうな顔をして注射の痛いのを我慢しているのを見て、自分の番になるの待っています。だんだん自分の番が近くなってくるにつれ、逃げ出したいほどどきどきしてきます。自分の番、自分の「時」を待っている恐怖を、今でも思い出すことがあります。  誰にでも、そのように自分の「時」があります。小さなどきどきするような「時」もあれば、人生が変わる、生死にかかわるような重大な「時」もあります。  さて、今日の福音書では、イエスさまは「父よ、時が来ました」と祈って叫んでおられます。イエスさまのこの「時」というのは、どのような時だったのでしょうか。その時のイエスさまの思いについて考えてみたいと思います。  それは、十字架の時です。そして十字架に向かって、歩み出す時です。苦しみが始まろうとする時です。それは、天の父のもとに帰る時が来ました。子である神、キリストが栄光を現す時です。そして同時に、そのことを通して父である神の栄光が現される時でもあります。  聖書には、この「時」という言葉が重要な意味を持っています。  イエスさまは、父である神のみ心のあるところを説き、一方では、当時のユダヤ教の指導者たちの偽善、不信仰をきびしく非難しました。そのために、彼らの恨みを買い、捕らえられ、裁判にかけられ、十字架につけられて死にました。言いかえれば、ユダヤ教の指導者、すなわち祭司長、律法学者、長老たち、そして、彼らによってそそのかされた群衆によって、イエスさまは殺されてしまったのですが、しかし、それは、たまたまそのようになったとか、偶然にそのようになってしまったのではないというのです。さらに、このようにユダヤ教の指導者たちの意思のままに翻弄されて、その出来事が起こったのではないのです。  イエスさまが苦しみを受け、十字架につけられたのは、すべて神さまのご計画の中であり、神さまの意思によるものであったということが強調されています。  「父よ、いよいよその時が来ました」と、イエスさまが言われることは、イエスさまご自身も、そのことがわかっておられ、単に受身の姿勢ではなく、積極的に、いよいよその使命を果たす「時」が来たということをはっきりと言いあらわしているのです。  その以前に、カナという所で、イエスさまと弟子たちがの婚礼に招かれた時、ぶどう酒が足りなくなったという事件がありました(ヨハネ2:1〜11)。イエスさまの母マリアさんがイエスさまに「ぶどう酒がなくなりました」と言ってきました。その時、イエスさまは言われました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだきていません」(2:4)と言われました。しかし、結果的には水をぶどう酒に変える奇蹟を行われました。これは、ヨハネ福音書において最初の奇蹟でした。 また、ユダヤ人の仮庵祭という祭りの時でした。イエスさまの兄弟たちが、イエスさまに言いました。  「ガリラヤから出てユダヤに行き、あなたのしている業を多くの人々に見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいません。自分を世間にはっきり示しなさい。」と。  兄弟たちも、イエスさまを信じていなかった(わかっていなかった)のです。その時にイエスさまは言われました。  「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」  こう言って、イエスはガリラヤにとどまられました。しかし、その後、イエスさまは人目を避けて隠れるようにしてエルサレムに上っていったと記されています。(ヨハネ7:1〜10)  そのほかにも、「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである」(ヨハネ7:30、8:20)と何カ所かに「時は来ていない」と記されています。  先に言いましたように、イエスさまが苦しみを受け、十字架につけられたあの出来事は、たまたまそのようになったのではないのです。神さまが定め、神さまが決定されたまさに「決定的な時」であったのです。それは、わたしたちの側から言いますと、神さまが決められた決定的な「恵みの時」だったということができます。  そして、今、その時を前にして、イエスさまは祈られます。「父よ、時が来ました。」  私たちにも、神さまは、それぞれに「時」を与えられます。そして、私たちにとって、最も重要な「時」は、主イエスに出会い、神に出会う「時」が与えられるということです。  第2に、3節の言葉について考えてみましょう。  「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」  ヨハネ福音書には、「永遠の命」という言葉がよく出てきます。「永遠の命」とは、文字通りの解釈をしますと、「始めもなく終わりもなく果てしなく長く続く生命」ということになります。  仏教用語からきている言葉に四苦八苦という言葉があります。この最初の四苦とは、人間のもっとも基本的な4つの苦しみ、それは、生、病、老、死と言います。生きること自体が苦しみであり、病気、老いること、死ぬこと、それは、いずれも生命を短くすることです。生命がなくなること、死んで自分がなくなること、これは人間のもっとも恐ろしいことであり、苦しいことであり、避けたいと思っていることです。いつまでも生きたいと願っています。  ヨハネ福音書以外の福音書では、天国とか神の国という言葉が使われています。永遠の生命とは、限りのある生命ではない生命、それは、天国や神の国と同じ意味であるととらえられています。  では、天国、神の国、永遠の生命は、どのようにして手にいれることができるのでしょうか。  「永遠の命とは、唯一のまことの神と、神がお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と、イエスさまは明言されます。  永遠の生命とか天国、神の国というと、何か捕らえようのない、抽象的な頭の中の想像のもののような気がします。しかし、これに対するイエスさまの答えは、いたって具体的です。それは、唯一の神さまを知ることであり、イエス・キリストを知ることだと言われるのです。  私たちは、すでに、神さまのことやイエスさまのことは聞かされていますし、いろいろなことを知っています。では、私たちはもうすでに永遠の生命、天国、神の国に至っているのでしょうか。その実感あるでしょうか。  ここで、だいじなことは、「知る」という言葉です。  私たちは、いろいろなことを知っていますが、その知り方というものはさまざまです。  具体的な例で考えてみますと、私たちは、人と出会い、多くの人と人間関係をもって生きています。その時の、人を知るということについては、その知り方は千差万別です。  その人の顔や姿形を知っている。生年月日を知っている。血液型を知っている。学歴を知っている。今までの経歴や仕事について知っている。その人の家族構成も知っている。趣味も知っている。いろいろな好みも知っている。このような知り方、名刺の肩書きや履歴書の内容のようなことをくわしく知っていれば、しかし、ほんとうにその人を知っていることになるのでしょうか。それは、知識としての知り方、理性による知り方だということができます。  これに対して、顔や形は知っているけれども、履歴書の内容のようなことは何も知らない。しかし、その人の優しさに触れ、何かに打ち込んでいる情熱に魅力を感じてしまった。あの人を愛してしまった。あの人と一緒にいれば心が安まる。そのような知り方というものもあるのではないでしょうか。これは、知識的な知り方に対して、人格的な知り方、頭よりも心で、胸で知るような知り方だと思います。  それは、心から受け容れ、理解し、分かり合い、委ね合う、信頼しあう、信じ合うことができる関係だと思います。  神さまと出会い、イエスさまと出会い、そして、知るということは、そのような人格的な関係を言います。  キリスト教の信仰について、知っていると言っても、いろいろな知り方があります。教会の雰囲気、礼拝の雰囲気だけを楽しんでいる人、それがキリスト教というものだと思っている人がいます。  キリスト教の教理や歴史や音楽や、その関係の本をいっぱい読んで、知識として、キリスト教のことをいっぱい知っている人がいます。何百冊の本を読んだから、それでは、神さまを知った、イエスさまを知ったということになるのでしょうか。永遠の生命に触れることができたでしょうか。  神と人格的関係を持つ。イエスさまと人格的関係を持つ。それはどういうことでしょうか。それは、子どもが、お父さんやお母さんとの関係を持つことと同じような関係です。信頼関係です。肉親であるがゆえの争いや甘えということもありますが、根底には血がつながっている自分の体の延長のような安心と信頼と、そして愛の関係です。  2節ではこのように祈られます。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」   イエスさまを神から遣わされた神の子、また、神を啓示する方であると信じることを決断する人には永遠の生命が与えられるのです。  イエスさまが、父からゆだねられた人というのは、ひとり子イエス・キリストを信じる者のことであり(3:16)、イエスを受け入れた人、その名を信じる人々のことです。(1:12)  さて、私たちは、神をどのように知る知り方をしているでしょうか。イエスさまに対してどのような知り方をしているでしょうか。  永遠の生命を真剣に求めているでしょうか。  そして、イエスさまは、最後に、弟子たちのために、私たちのために、このように祈られます。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(11節)  ご自分の前に迫ってくる苦難、十字架を前にしながら、「父よ、時が来ました」と祈り、この時を真っ正面から迎えようとしておられる主イエスの心を、思いを、しっかりと受け止めたいと思います。 〔2008年5月4日 復活節第7主日(昇天後主日)(A年)説教 桑名エピファニー教会〕