一同は聖霊に満たされた
2008年05月11日
使徒言行録2:1-11
教会の暦で、今日は「聖霊降臨日」と言われる日です。主イエスが
十字架につけられ復活された時、ユダヤ教では過越の祭りの日の最初の安息日から数えてちょうど50日目を五旬節の祭りとされ、「ペンテコステ」と呼ばれていました。
弟子たちは、この方こそダビデの子、救い主だと信じて、何もかも捨てて、ナザレのイエスに従いました。ほんとうにこの方こそはと思って将来の希望をかけてついてきたのに、あの方はあのゴルゴタの丘で、期待したような奇跡は何も起こらず、弱々しく叫びながら、死んでしまいました。
弟子たちは、失望と落胆のどん底に落ち込んでしまいました。さらに、自分たちもあのナザレのイエスの仲間だというので、捕らえられて同じように処刑されるのではないかと不安と恐怖に押し包まれていました。彼らは一つ所に集まって、息をひそめていました。
その時、弟子たちの上に「聖霊が降る」という不思議な出来事が起こりました。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2:1-4)
「聖霊が降る」とか「聖霊に満たされる」とは、どういうことなのでしょうか。聖霊という言葉は、聖書の中にたびたびでてくる言葉ですが、最初に「聖霊」について考えて見たいと思います。
私たちは、三位一体の神を信じます。三位一体というのは、父なる神、神の子であるイエス・キリスト、そして聖霊である神、この父、子、聖霊を信じると言って信仰告白をします。それは三つの神ではなく、一つの神です。この三つであって一つの神を三位一体の神といいます。
全能の父、天地万物の造り主であり、全てのものの支配者である神については、口ではなかなか説明できませんが、その神を信じるということは分かります。
そして、聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ、ローマの総督ポンテオ・ピラトの時代に、十字架につけられ、死んで葬られ、3日目によみがえられた神のひとり子イエス・キリストを信じるということも、イエスさまにはお会いしたことはありませんが、聖書の中からイメージを与えられて、この方を信じることができます。
しかし、この三つ目の聖霊という方については、具体的にどのようなものか、神、み子イエスと同じようなイメージを持つことは難しいとよく言われます。
「霊」という言葉は、旧約聖書が書かれたヘブライ語では、「ルアッハ」と言い、新約聖書が書かれたギリシャ語ではプニューマという言葉が使われています。いずれも、もとの意味は、風、息という言葉から来ています。
ヨハネ福音書3章8節には次のようなイエスさまが語られた言葉があります。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
風は、目に見えません。しかし、髪の毛をなびかせたり、木をなぎ倒したり、砂を巻き上げたり、向かい風では人が前に進むのをさえぎったり、追い風では人が前に進むのを後押ししたりします。そよそよと吹く風もあれば、台風やサイクロンやハリケーンと呼ばれるような何万人もの人に災害をもたらすような大風もあります。古代の人たちは、大きな力、どこから来てどこへ行くのかも知れない目に見えない力、風のような力を「霊」と同じ言葉で呼びました。
創世記の創造物語では、神は人間を土の塵で造り、その鼻に息を吹きかけると生きるものとなったとあります。最初の人アダムの創造について、神の息、ルアッハは、神が与える「生命」「霊」そのものでした。
新約聖書では、イエスさまは、霊に満たされた方、霊に導かれた方として紹介されています。イエスさまは、聖霊によっておとめマリアから生まれ、荒れ野において霊に導かれて誘惑に打ち克ち、ヨルダン川で洗礼をお受けになった時、聖霊が鳩のように降ったと記されています。病人をいやし、悪霊を追い出し、さまざまな奇蹟を行われたのも、ただ人間の能力によってなされたものではなく、聖霊によって、超自然的な能力が働き、神の支配をもたらしたということができます。聖霊は、神と子イエス・キリストから出る力、それは、まるで神の手、神の指のようにこの世に働きかけ、私たちに働き、私たちを動かします。
さて、五旬祭の日、この聖霊が、弟子たちのところに降るという出来事がありました。その光景は、そこに居る人たちに特別の体験として与えられ、語り継がれるものでした。
実際には何が起こったのかは、これ以上くわしいことはわかりません。五旬節の祭りの日に、弟子たち一同が一つになって集まっているところに起こりました。
第1の現象は、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたとあります。それは、霊という言葉の「風」とか「神の息」を感じさせる現象です。そこに居合わす人たちが耳で聞いた現象でした。
第2の現象は、そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったと記されています。次に目に見える現象が現れました。炎は火です。火とか熱を発する燃えている何かではなく炎の部分だけが描かれています。
モーセは、ミディアンの祭司のもとにある時、羊の群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言いました。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。このようにして、モーセは、エジプトの地に行ってイスラエルの民を導き出すように命ぜられた。燃える火を通して、神とモーセの出会いがあった。この場面を思い出します。
第3の現象は、弟子たちやその他の人たちに表れました。
舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。一人一人の口に言葉が与えられた。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
弟子たちが体験したこのような不思議な聖霊体験を絵に描いたり、言葉で表現すると、このような情景になったのだと思います。
聖霊を受けるということは、この出来事ではじめて起こったことではありませんでした。今日の福音書、ヨハネが伝えているところでは、 「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:19〜23)
聖霊は、その以前にも、いろいろな形で弟子たちに与えられていることがわかります。
使徒言行録が伝えるこの聖霊降臨の出来事は特別の体験として描かれています。このようにして聖霊を受けた弟子たちは、それぞれがまだ行ったことのない国々や地方の言葉で語り出したので、人々は驚き怪しんだとあります。
さらに、大事なことは、この出来事によって弟子たちが変わったということです。
最初に言いましたように、弟子たちは、主イエスが亡くなった後、絶望し、不安と恐怖の中にありました。身を隠し息をひそめてただびくびくしていた彼らが、この出来事のあと、突然立ち上がり、声を張り上げて、まわりのユダヤ人たちに語り始めたのです。その内容は、「預言者たちが預言している通りに、神のご計画によって、キリストが来た。あのナザレのイエスこそ、神が使わされたキリストである。その方をあなたがたは十字架につけて殺してしまった。神はこの方を死の苦しみから解放して復活させたのだ」と。彼らは、胸を張って、声高らかにイエス・キリストについて証しし始めたのです。かれらは、この出来事によって変わりました。生まれ変わりました。
この出来事こそが、聖霊の働き、聖霊の力が目に見える形で現された結果であり、目に見える現象だということができます。
このことから、「聖霊降臨日」、この日を教会の新しい出発の日、教会の誕生の日と言われます。
今日、私たちは、この聖霊の働き、聖霊の力について、強く心を向けたいと思います。私たちにも、聖霊が働き、聖霊が力を与えて下さっていることを、もう一度確認したいと思います。
私たちは、神さまに、尊敬の気持ちをもって「さま」をつけて、神さまと呼びます。イエス・キリストにも、同じく「さま」をつけて、イエスさまと言います。しかし、聖霊には「さま」をつけません。「聖霊さま」とは言いません。人の一人ひとりに人格があるように、神さまにも「神格」があります。神さまもイエスさまもご自分の意志をもっておられます。聖霊も神格を持っています。聖霊にも「聖霊さま」と呼ぶ方が、もっと身近に感じられますし、ふさわしいのではないでしょうか。
古代の人びとは、霊とか聖霊を、目に見えない力という意味で風や息と同じ言葉で表しました。現代に住む私たちは、風がどうして起こるのか、息はどのようにして吹きかけられるのか、科学的な知識で知っています。風は空気が動く現象です。温度の関係で、空気の高い気圧の部分から低い気圧の部分に空気が動く。その時に風というものが起こるのだということを知っています。
風が高いところから低いところに吹くように、聖霊も、神から、または主イエス・キリストから、出るものです。目に見えない神の力です。私たちの体は、目には見えないけれども、さまざまな無数の電波や磁気、磁力に取り囲まれているように、光や空気に取り囲まれているように、私たちは、神から出る聖霊に取り囲まれています。聖霊さまは、ある時には私たちを促し、私たちを前に押し出します。踏み出す勇気のない者に勇気をあたえます。聖霊さまは、私たちを神さまに向かわせ、イエス・キリストに出会わせて下さいます。神さまと私たちの間にあって執り成してくださる方です。聖霊さまは、私たちの弁護者であり、私たちを慰めて下さる方でもあります。
弟子たちが、ペンテコステの日に特別の聖霊経験をしました。それと同じこと起こらないと聖霊を受けていないというようなものではありません。聖霊は、日常の生活の中で、私たちの心や考えを変えます。勇気を与え、力づけます。慰める方であり、神を示し、促し、背中を押して下さいます。
そして、教会全体に、主を信じて一生懸命に生きている私たちの集団の上に、聖霊さまが共にいて、働きかけ、力を与えて下さいます。「聖霊の交わり」があるところ、それは人間だけの単なる社交場ではありません。聖霊によって結び合わされ、聖霊の交わりのあるところそれが教会です。
今日は、聖霊降臨日、ペンテコステです。「聖霊さま」への信仰について強く心に止めたいと思います。
〔2008年5月11日 聖霊降臨日(A年) 下鴨基督教会〕