大阪聖ヨハネ教会創立120周年の記念礼拝
2008年05月25日
大阪聖ヨハネ教会創立120周年、おめでとうございます。
私たちは、今日、聖ヨハネ教会の120年目のお誕生日を祝うために、ここに集まりました。
私たちにも一人ひとりに誕生日があります。誕生日というのは特別の日であり、「おめでとう」と言ってもらうと嬉しくなります。とくに、5年とか10年とか、区切りの年には、特別の思いを持ちます。 20歳になった、30歳になった、40歳の大台に乗った、還暦や喜寿を迎えたと、そのような節目には特別の感慨にふけります。
さて、聖ヨハネ教会の誕生日に際して、120年昔の教会誕生の頃の歴史を少しだけふり返ってみたいと思います。
日本の国は、長年鎖国政策をとってきましたが、1853年(嘉永6年)、今から155年前に、ペリーが率いるアメリカの軍艦4隻が初めて浦賀にやって来て開国を迫りました。その5年後に「日米修好通商条約」が発効され、長崎、箱館、神奈川が貿易港として開港されました。 1859年(安政6年)5月、アメリカ聖公会の宣教師のジョン・リギンスは、中国の上海から来て、初めて長崎に上陸しました。
そして、その約2ヶ月後の6月、同じく上海を出港した宣教師チャニング・ムーア・ウイリアムスが長崎に到着しました。リギンス師は、病気のために6ヶ月後に帰国しましたので、このウイリアムス師が、日本にプロテスタントのキリスト教を伝えた最初の宣教師になりました。その年から数えて150年、来年は日本聖公会も宣教150年を記念する大事な節目の年を迎えます。
宣教師ウイリアムス師が初めて日本に第一歩を踏みだして、30年目に、大阪聖ヨハネ教会が生まれましたです。
日本人女性への働きかけとして、宣教師ティング師の夫人や医師ラニング氏の夫人らが、日本人医師らと共にバイブル・クラスを始めました。信徒とキリスト教に好意的な人たちが集まって、1887年(明治20年)の春には「婦人学習会」という会が結成されました。大阪府知事の夫人や大阪師団長の夫人など、その当時の上流階級と言われる婦人たちが集まり、出席者は百名を越えたとあります。
その翌年、1888年(明治21年)5月27日、大阪市東区道修町1丁目の婦人学習会の教室において、信徒の有志24名が集まって、教会設立の決議がなされました。聖ヨハネ教会の出発は、婦人学習會に関係する人たちが集まって教会を組織したもので、信徒の人々の自発的な集まりから始まったものでした。この年に米国聖公会婦人宣教師ミス・リーラ・ブールが日本に着き、日本語の勉強を始めました。 この教会創立時の司祭は、アメリカ聖公会宣教師のチング師で、実際に教会の責任を持っていたのは大塚惟明(これあき)伝道師でした。この人は、後に南海電鉄株式会社の社長になりました。ミス・ブールは、婦人会を指導し、その後、孤児院を開設しました。
この1888年(明治21年)から数えて、120年になります。その後、教会は住所を転々としていますし、建物も戦前は立派な礼拝堂が献堂されましたが戦災に遭っています。戦前、戦中、戦後。明治、大正、昭和、平成と、さまざまな時代、さまざまな出来事を乗り切って今日に至っています。つくづく120年の歴史の重さを感じます。
私は、1951年(昭和26年)ごろから1961年(昭和36年)まで、約10年間、この教会でお世話になりました。
礼拝堂と牧師館しかない教会でしたが、当時の礼拝の風景が思い浮かびます。前の席に、玉林先生がおられました。その横に中川さんがおられました。藪内正信さんがいつも礼拝の途中で入ってこられました。福島さんが、牧口五明さんが、山村先生夫妻が、石原喜四郎先生が、柳原主教の奥さんが、景山さんおばあさんが、川上さんが、丸岡先生などが。毎週、みんな居られるべき場所に、いつも居られるべき人が居られました。そんな中で、私は、青年として、学生として、ここで育ちました。誰よりも有近先生や奥さんにはお世話になったことを昨日の出来事のように思い出しています。
そして、私はこの教会でイエスさまに出会い、神さまを信じる者となりました。この教会での出会い、多くの先生方や先輩の信徒の方々、また教会での友人、兄弟姉妹に出会うことによって神さまを知ることができ、今日の私があると、心から感謝しています。
懐かしく思いながら、久しぶりに教会の近くまで歩いて来ますと、かつて焼け野原であった辺りには高層建築が立ち並び、教会の建物は、ビルとビルの間に埋もれたようになっていて驚きました。私は50年ほど昔を昨日のことのように思い出しているのですが、この50年の間に、世の中も時代も変わったことをしみじみと感じます。
とくにこの50年間は、他の時代とは比べようもない急激な変わりかたをしています。
しかし、どんなに時代が変わっても、変わらないものがあります。世の中がどんなに変わっても、変わってはならないものがあります。それは神のみ言葉です。
�汽撻肇�1:23-25に
「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、
すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって
新たに生まれたのです。こう言われているからです。
『人は皆、草のようで、
その華やかさはすべて、草の花のようだ。
草は枯れ、花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。』
これこそあなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」
さて、教会とは何でしょうか。
教会には、目に見える部分と、目に見えない部分があります。
教会の建物や牧師や信徒の集まり、礼拝をしている姿、信徒の交わり、婦人会や男子会やいろいろな行事を行うことなど、それはすべて教会の目に見える部分であり、目に見える教会です。
しかし、目に見える部分だけがすべてではありません。目に見える教会の向こうに、目に見えない教会という大切な深い意味があります。それを忘れてはなりません。
聖パウロは、「教会とは、キリストの体です。あなたがたはキリストの体です。一人一人はその部分です。そしてキリストは教会の頭です。」と言っています。(エフェソ1:22-23、�汽灰螢鵐�12:27)
キリスト教を知りたい、キリストに出会いたいという人がいれば、どうぞ教会に来てください。どうぞ教会を見てくださいと言います。 教会はキリストの体です。私たちはキリストの体の部分です。私たち教会の頭はキリストです。
イエスさまは「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」と言われました。(マルコ16:15,16)
また、復活したイエスさまは、弟子たちの所に現れて、「聖霊を受けなさい」と言って彼らに息を吹きかけ、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われました。
教会は、目に見えるキリストです。この世に遣わされたキリストの体です。
「世界中に福音を宣べ伝えよ。」「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。」というのが、主イエス・キリストの命令です。これこそ弟子たちに与えられた、そして教会に与えられたキリストの至上命令であり、
これが教会の使命であり、これがこの世に教会が存在する理由です。
120年前の誕生したばかりの聖ヨハネ教会は、その使命を達成するために伝道の熱意に燃えていました。最近、感じるのですが、時代が変わり、どの教派もどの教会も、今はあまり「伝道、伝道」と言わなくなっているような気がします。場合によっては伝道や宣教がだいじだと言うと、そんなことはわかりきったことだと言わんばかりに白けた雰囲気になったりさえします。
しかし、これは大変なことです。時代が変わったからキリストの至上命令が変わったわけではありません。教会の存在理由、教会の使命が変わったわけでもありません。神のみ言葉は変わることはありません。
キリストに出会うためにどうぞ教会へ来てお出で下さいと、胸を張って言えるためには、そこに、その教会に、神の愛と恵み、神さまへの賛美と感謝が満ちていなければ、ほんとうの魅力はありません。人が互いに愛し合うところに神の愛があります。愛のない教会では、人々はイエスさまに出会うことはできません。
教会の顔は、礼拝です。礼拝は、目に見えるキリストの顔です。
第1に、まず、礼拝堂に神を賛美し感謝を捧げる人が満ちていなければなりません。信徒の方々には名札はついていませんが、あなたが座るべき指定席が決まっています。礼拝堂にいつも居るべき場所にあなたが居なければ、教会の顔、キリストの顔は淋しくなります。
第2に、礼拝は、神さまのためあるのです。神さまのために捧げるのです。私たちが自分自身を喜ばせるために、自己満足のためにあるのではありません。心から神を賛美し、心から感謝を捧げる時、神さまのほうから、想像をはるかに越えた新たな恵みと喜びを注いでくださるのです。祈りも聖歌を歌うことも、神さまに向かって、神さまに届くように、神さまを喜ばせるために唱え歌うのです。
第3に、礼拝に奉仕する人は、神さまに仕えているのです。聖書を読む人も、サーバーをする人も、オルガンを弾く人も、献金を捧げる人も、神さまに仕えている姿であることを忘れてはなりません。
最後に、教会はこの地域に遣わされた宣教の最前線です。窓を開け、扉を開けて、この地域に響き渡るように、住民全員に聞こえるように、声高らかにみ言葉が読み上げられ、賛美の歌を響かせたいと思います。
今日は、教会の120年の誕生日を祝う日です。
最初に、私は、「創立120周年おめでとうございます」と言いました。教会はキリストの体です。教会の頭はイエス・キリストです。教会の主は、イエスさまです。ほんとうは、私たちは、神さまに、イエスさまに、心から「教会の120年目のお誕生日おめでとうございます」と言わなければなりません。
120年のこの教会の歩みを守り、導いてくださった主を賛美し、感謝をささげましょう。そして、さらに神さまの働きのために、私たちがキリストの手となり足となって用いられ、この地域にあってますます主のみ栄えをあらわすことができますように、上よりのみ力が与えられますように祈りましょう。
神さまの御祝福が豊に与えられますよう心からお祈りいたします。
父と子と聖霊のみ名によって。アーメン