岩の上に自分の家を建てる賢い人
2008年06月01日
マタイ福音書7:21〜27
今日の聖書の個所ですが、旧約聖書、使徒書、福音書と、よく読んでみますと、共通点があり言おうとしている所に深い意味があるように思います。
旧約聖書では、申命記11章18節〜21節と、26節〜28節が読まれました。
「あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」と記されています。しかし、これだけでは、意味が分かりません。
その前の申命記6章4節以下には、このように記されています。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(4-10)
「我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と。
この「神を愛しなさい」この掟こそが一番大事な教え、最も大切な教え、神を信じる者の基礎の基礎である、だからわたしが命じるこれらの言葉をいつも心に留め、子供たちには繰り返しこのことを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。さらに、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」 と、神はこのようにモーセを通してお命じになりました。このことが、今日の第一の朗読の言葉です。
次に、第二の朗読、使徒書を見たいと思います。ローマの信徒への手紙3章21節〜25節、そして28節が読まれました。その前の20節から読みますと、
「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」
これは、パウロがローマの教会の信徒に書き送った手紙ですが、パウロが言おうとしている最も大切な教え、キリスト教の信仰の中心ともいうべき教えをここで語っています。一口にいえば、私たちが救われるのは、律法の行い、杓子定規に掟を形式的に守って善い行いをしているかどうかによるのではない、人が救われるのは信仰によるのだと言っています。
「人が義とされる」の「義」とは、聖書では「罪」の反対語として使われています。義とは、無罪と同じ味で使われています。裁判で無罪の判決を受けるということは「義とされる」ということです。無罪放免となり、自由の身になることです。
パウロは言います。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によってでは、罪の自覚しか生じないのです。」(3:20) と。
「信仰によって義とされる」、「信仰によって救われる」とは、「すなわち、イエス・キリストを信じることです。このことによって、すべての信じる者に神が神の義を与えてくださるのです。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。ただ、キリスト・イエスによる贖いの業、すなわち、神の子イエスの十字架による死と、復活によって、一方的に神から与えられる恵みによって、無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。これによって救いが与えられたのです。」「だから、信仰とは、ただひたすらイエス・キリストを信じることです。」 善い行いをしたから、修行を積んだから、だから救われるのではないのだと言います。これが、今日の使徒書です。
さて、最後に、今日の福音書を見ましょう。
さて、今日の福音書、マタイによる福音書7章24節から27節ですが、この個所は、マタイによる福音書にあります主イエスの「山上の垂訓、山上の説教」と言われる長い説教の最後の言葉です。5章の3節から始まり、7章のこの言葉で終わります。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言って結ばれました。
家を建てるのに、岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人と結果はどうなるか、普通の時、お天気のいい日ばかりだといいのですが、雨が降り、風が吹き、川があふれるとどうなるか、台風や地震が起こるとどうなるか、その結果は誰にでも分かります。
私たちの人生も、どこに基礎を置くか、どんな土台を据えるかと問うて居られます。
私は、30数年前、大阪の南部、富田林という所で、新しい教会を建てるということにかかわったことがありました。
大阪教区では、1973年((昭和48年)に、教区組織成立50周年という時を迎え、「大阪教区組織成立50周年記念南海高野線沿線開拓伝道」という長い名前のプロジェクトで、金剛団地という所に教会を建てようということになりました。私はそこに遣わされて、3年間は太田さんという信徒の家で毎週の礼拝を守り、次の1年間は、団地の1室を借りて礼拝をし、必死になって募金活動をし、やっと100坪ほどの土地を買うことができました。40人ほどの信徒数で、4千万円で土地を買い、まだ借金も返さなければならないのに、その土地の上に礼拝堂を建てる資金がありません。
信徒総会を開いて、みんなで相談し、これ以上借金を重ねて無理をするのはやめようということになり、一番安いプレハブの建物を建てることにしました。
4間と9間の36坪、その2階建て、72坪の、建築工事の飯場か現場事務所のような、鉄骨プレハブ、トタン屋根の建物となりました。それでも、100ぐらいの人が入っても大丈夫なように床の補強をして、土台が大事だからというので、土台の基礎だけはコンクリートを打って、図面を何回も確認して、さらに安くしてほしいと言って建設業者に無理を言って、契約をしました。700万円ぐらいだったと思います。
いよいよ工事が始まり、つぎつぎと工事をする人が来て、土地を均して、縄を張って、型枠を作って鉄筋も入れて行きます。
私は、朝からつきっきりで、じーっと見ていたのですが、コンクリートの基礎の幅が図面より狭いような気がするのです。鉄筋やボートーの間隔もちょっとちがいます。
半分ぐらい進んだところで、辛抱できなくなって、4、5人働いている人たちに指図している親方のような人に、恐る恐る言いました。
「あのーーっ、見積りの時の図面と幅が違うような気がするんですけど。」
その人たちは建設会社から仕事を頼まれている下請けの業者です。
「俺らは、会社から言われたようにやってるだけや、言うんやったら会社のほうにいうてもらわんと」
「そんなら、会社へ電話して、係の人にすぐ来てもらいますから、ちょっと待ってください」
「かなわんなあ。わしらも次の仕事いかんならんのやで。」
工事を全部一時ストップしてもらって、近所の公衆電話から、親会社の担当の営業社員に電話をしました。取りあえずすぐに来てくださいと言いました。それでも、大阪から2時間や3時間はかかります。
家に帰って、契約の時にもらった図面を持って、現場へ引き返しました。工事の親父さんは、プリプリ怒っています。働いている若い人たちも文句を言っています。
そこで、持って来た図面を見せて、
「図面ではこうなってるんですけど」と言いました。
するとその親方は、
「この建物は、何に使いますねん」と聞きました。
「教会です。キリスト教の教会です。」
と言って、実は、開拓伝道で教会をこの地域に建てようとしているのだが、募金をあちこちにお願いして、借金して、何とかこの土地を手に入れたのだが、礼拝堂を建てるお金がない。取りあえず、プレハブの礼拝堂を建てて、次の資金ができるまで10年ぐらいは持たさんならんと言いました。
すると、その親方は、とつぜん言葉が改まって、言いました。
「わかりました。この図面通りコンクリートの型枠つくりましょう。
わしは、クリスチャンと違うけど、毎晩、寝る前に聖書読んでますねん。神さんに礼拝する所の基礎がこんなんでは、あきませんわ。聖書に砂の上に家を建てる奴は愚か者や、岩の上に家を建てよって書いてますわなあ。わしにまかしとくんなはれ。あとの責任はわしが持ちまっさ」と言って、若い人たちを呼び集め、指示を出し始めました。
「ここに教会が建つんや。聖書には、砂の上に家を建てる奴はあかん。岩の上に家を建てよって書いてある。わしは、毎晩聖書読んでるよって、よう知ってるんや。
教会は土台が肝心や。これではあかん。やり直しや。みんな、もういっぺん全部ばらせ。お前は車で家へかえって倉庫から型枠と何ミリの鉄筋すぐに持ってこい。急げよ。」叱咤激励してやり直しの仕事が始まりました。
午後になって、注文を受けた親会社の営業担当が来た時には、仕事は終わっていました。そして、その親父さんは、若い営業係にもどなっていました。下請けの業者が、勝手にしたのですから、その親父さんが損をかぶってくれたのかも知れません。
仕事が終わると「先生、頑張ってや」と言って、トラックに乗って帰っていきました。
次の日曜日、こんなことがあったと言って、教会のみんなに報告しました。教会員一同、この親父さんに励まさ、教えられました。
私は、今日の福音書のマタイによる福音書7章24節以下を読むたびにこの出来事を思い出します。
イエスさまは、私たちの人生の土台、私たちの生き方の基礎をどこに置くかということを、砂の上に家を建てる人と岩の上に家を建てる人にたとえて語られました。
現在の言葉で言いかえると、偽装とか手抜きとかいう言葉が出てきそうです。表向きは、外観は立派そうに見えても、中身は空っぽ。台風や地震があるとすぐに崩れてしまうような建物を思い浮かべます。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
これは、偽装の信仰、手抜きの信仰です。外見で、うわべだけで、口だけで、「主よ、主よ」と言って信仰深そうに見えても、中身が伴っていなければ、何かが起こった時には、がたがたっと崩れてしまいます。
では、私たちの信仰生活の基礎、信仰の土台とは何でしょうか。
それは、本日の旧約聖書、「我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」であり、
使徒書の「イエス・キリストを信じることによって、信じる者すべてに神の義が与えられるです。ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して与えられた神の恵みによって、無償で義とされているのです。神は、このキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるからです。」
どんなことがあってもゆらぐことのない信仰の土台、基礎をしっかりとすえ、その上に、聖霊の宮を建てましょう。
〔2008年6月1日 聖霊降臨後第3主日(A-4)説教 桑名エピファニー教会〕