『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』
2008年06月08日
マタイ9:9−13
今日は、マタイの福音書9章13節の「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」という言葉について学びたいと思います。
イエスさまは、この言葉をファリサイ派の人々に話されました。
ある時、イエスは、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われました。
たぶんそこは関所のようになっていて、荷物を持って道を通る人々から通行税を取り立てている収税所という所でした。マタイは、そこで働いている徴税人でした。徴税人とは、取税人とも言いますが、税金取立請負業というような仕事でした。
彼らは、一定の地域から請け負った以上の金額を取り立てたものは自分たちの利益になりましたから、中には利をむさぼり、情け容赦なく税金を取り立てる徴税人もいて、ユダヤ人たちはこの徴税人を憎んでいました。王や皇帝の手先になって同胞を苦しめる者ということで、その職ある者を、売春婦や異邦人と同じように見て、罪人というレッテルを貼っていました。
罪人とは、交わりを持たない。彼らは律法を守らない輩だと断定して蔑み、斥けていました。最も強く差別をしていたのがファリサイ派の人たちであり、律法学者たちでした。マタイは、その職業のために差別され、ユダヤ社会の誰からも人間的な交わりを持ってもらえない、罪人と言われる人たちの一人でした。
イエスさまは収税所に座っているマタイを見かけて、何の予告も、あいさつもなく、「わたしに従いなさい」と言われました。
マタイは、それを聞いて、すぐに立ち上がりイエスさまに従いました。あのガリラヤ湖のほとりで魚を捕る漁師をしていたペトロとアンデレが、またヤコブとヨハネが、彼らの舟も網も、家族もそこに置いて、すぐに立ち上がってイエスさまに従ったように、同じようにマタイもイエスさまに従いました。徴税人マタイは、12人の弟子たちの一人に加えられました。
イエスさまは、ある家で、食事をしていました。そこには弟子たちもいます。もちろんマタイもいます。その同じ席に、他の徴税人もいれば罪人と言われる人たちも一緒にいて食事をしていました。この当時の常識としては考えられないことでした。
これをファリサイ派の人たちが見て、窓からのぞいたのか、わざわざ中まで入って来たのかわかりませんが、この光景を見て、弟子たちに言いました。
「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか。」
ユダヤ人でありながら徴税人や罪人たちと同じ席につくとは何事だ。それだけではなく食事を共にするとは、何ということか」と。
それは、そのことだけで律法に背いている、汚れた者と食事を共にするとその人も汚れるという非難でした。
これを聞いたイエスさまは言われました。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
丈夫な人、健康な人に医者は要らない。本当に医者を必要とするのは病人なのだと言われます。自分は正しい、自分は強いと思っている人は、「わたしを」必要としない。わたしを必要とするのは、神の前に自分を罪人であると認め、自分の弱さ、醜さを認めている人たちだ。ここにいる人たちには「わたしを」必要なのだ。わたしはそのためにこの世に来たのだと暗に言っておられます。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28) とも言われます。
一方、ファリサイ派の人々、律法学者たちは、自分の重荷を担おうとしません。重荷のあることさえ認めません。神の前で自分は正しいのだと言い張ります。そして、人には重荷を負わせ、これでもかこれでもかと持ちきれないほど思い重荷を積み上げます。
ファリサイ派の人々は、自分の正しさを誇るために、自分たちは律法を守っている、神の掟を何一つ欠けたところなく全部守っていると主張します。安息日をきちんと守っています。きちんと決められた日に神殿に行き、羊や牛などのいけにえを決められた規定にそって毎回ちゃんとささげています。献金もささげています。市場から帰ると決められたように手と足を洗い、体を清め、寝台の足も洗っています。罪人とは近づきもしません。だから私たちは正しいのです。私たちこそ救われるべき者です。彼らは滅びて当然です。ファリサイ派の人たちはいつもそのように思っていました。
彼らに対して、イエスさまは言われます。
「神が『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』と言われたのはどういう意味か、行って学びなさい。」
「行って学びなさい」というのは、あなた方は、律法の専門家だと日頃から威張っているではないか。律法に書かれていることをもう一度ちゃんと学んできなさい」ということです。
それは、旧約聖書のホセア書の言葉です。
「わたしが喜ぶのは
愛であっていけにえではなく
神を知ることであって
焼き尽くす献げ物ではない。」 (ホセア6:6)
イエスさまが使っておられる言葉、「憐れみであって」の「憐れみ」は、ギリシャ語で、エレオスという言葉です。これは、同情する、助ける、憐れむ、慈しむ、慈悲深い、好意、親切などと訳されています。ホセア書の「愛であって」と同じ意味を持っています。
神の前に傲慢で、自分勝手なことばかりしていて、形だけは「神よ、神よ」と言って、いけにえの動物を何千頭、何百頭と、神殿にささげても、ほんとうに神を愛する心、神のみ心を知ること、そして、人を愛する「心」というものがなければ、神は決して喜ばれない。イエスさまは、ファリサイ派の信仰がいかに形式的で偽善的であることをきびしく指摘しておられます。
私たち人間関係の中でも同じことを感じます。
どれほど正しいことを言っても、どれほど言葉を尽くしても、その言葉の向こうに「愛がなければ」人の心を打ちません。その言葉は相手に届きません。
ある時、イエスさまが、朝早く、神殿の境内に入られると、ユダヤ人の民衆が皆、イエスさまのところに集まって来たので、そこに座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせました。そしてイエスさまに言いました。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」たしかにレビ記(20:10)にも申命記(22:24)にも、そのように書いています。
彼らは、イエスさまを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのでした。
イエスさまは、かがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われました。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスさまと、真ん中にいた女だけがそこに残りました。
イエスは、身を起こして言われました。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言いました。イエスさまは言われました。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう 罪を犯してはならない。」(ヨハネ8:1-11)
ファリサイ派や律法学者たち、そして野次馬のユダヤ人たちは、律法に違反した人を見つけると、自分たちこそ正義の味方、自分たちは正しいという立場に立って、人を裁きます。石を投げて、死刑の執行人を買って出ます。
しかし、イエスさまは、「あなたたちは、ほんとうに、それほど正しいのか。生まれてから今まで、一度も罪を犯したことがないと言える人はいるのか」と問われました。「そう言い切れる人がいたら、その人から順に石を投げなさい」と言われて、両手に石を持って、今、すぐにでも石を投げようとした人たちは、ぐっと胸を突かれました。
そして、石を投げられる人は一人もいませんでした。みんな石を捨ててどこかへ行ってしまいました。
イエスさまは、そこにうなだれている女の人に言いました。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
この女の人は、その後、どのような人生を送ったのか、どんな生き方をしたのか、聖書には何も書いていません。
しかし、この言葉によって、この女性の生き方は変わったのではないでしょうか。生まれ変わったのではないかと思います。
石を投げられると、人は倒れ、傷つき、立ち上がることはできません。人は死んでしまいます。殺されてしまいます。
しかし、愛は人を生かします。立ち上がらせ、勇気を与えます。希望を与えます。神が私たちに求められる生き方、私たちの人間関係、人が人に対する振る舞いは、憐れみであり、慈しみであり、愛です。
ローマの信徒への手紙12:2に、パウロは言います。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
〔2008年6月15日 聖霊降臨後第4主日(A-5) 下鴨キリスト教会 〕