ヨハネ荒木太一執事按手式説教

2008年06月10日
エレミヤ1:4〜10  私たちは、ヨハネ荒木太一君が、聖職とされる、「執事職」に叙任されるための礼拝に参加しています。  私は、昨年3月末に牧師の任務を定年退職しました。ユニフォームを脱いで、静かに立ち去ろうとする元選手が、今、まさに新しいユニフォームに身を包んで、グラウンド飛びだそうとする選手に、エールを送ろうとしています。  そう言えば格好いいのですが、一線を退いた元選手がスポーツ解説者とか、スポーツ評論家のようになって、だらだらしゃべっているようなことにならないか心配しています。  今日のこの日まで、荒木聖職候補生が、神さまに出会い、神さまによって導かれ、歩んで来られた道程(みちのり)に思いを馳せる時、私たち人間の思いをはるかに超えた目に見えない大きな力が働いていることを感じます。心から感謝するとともに、これから始まる聖職者としての働きの上に、神さまがいつも一緒にいてくださいますように、心から願い祈りたいと思います。  今、最初に読まれました旧約聖書、エレミヤ書1章4節以下に、このように記されています。  神の言葉がエレミヤに臨んだ。  「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」エレミヤは言った。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」しかし、神はエレミヤに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と主は言われた。そして、「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。」と言って、神は手を伸ばしてエレミヤの口に触れた。  エレミヤに、このことが起こったのは、イエス・キリストがこの世に現れる626年前のことでした。  エレミヤは、エルサレムから4キロほど離れた所にあるアナトテという所で、祭司ヒルキアの子として生まれました。神がエレミヤに臨んだこの出来事が起こったのは、エレミヤが何歳の時だったかわかりません。若者であったことだけはわかります。  このようにして、エレミヤは預言者とされました。聖書に記されている「預言者」というのは、神の言葉を語る人、神が語る言葉を人々に宣べ伝える人のことを言います。神の言葉は誰にでも聞こえるものではありません。特別に選び出され、特別の能力を神さまから与えられた人たちだけにその任務が与えらていました。  神さまは、青年エレミヤに言いました。  「お前をこの世に生まれさせたのはわたしだ。お前をこの世に存在させているのはわたしだ。だからお前がお母さんのお腹から生まれる前から、わたしはお前を聖別し、人々に神の言葉を語る者として決めていたのだ。」  「聖別する」というのは、聖書の中では「分離する、切り離す、ほかのものと分ける」という意味の言葉が使われています。とくに世俗に用いるものから切り離されて、神さまとの関係において神聖なものとされるという意味です。神さまは、突然、エレミヤに「お前が生まれる前から、わたしのために、大切な役割を果たさせることをお前に決めていたのだ。お前を、人々前に立ってわたしの言葉をとりつぐ予言者とする」と言われたのです。  エレミヤは、驚き、恐れて、言いました。「ああ、わが主なる神よ、あなたが、突然そう言われても、わたしは何を語っていいのかわかりません。どのように神さまの言葉を語ったらいいのかわかりません。わたしは、ただ平凡な若者にすぎませんから。」  しかし、神さまは、エレミヤに言いました。 「これからは、ただの若者にすぎないと言ってはならない。わたしがこれからお前を、どこへ遣わそうとも、誰のところへ遣わそうとも、行って、その場、その場で、わたしが命じることをまっすぐにすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしは、つねにあなたと共にいる。わたしは、お前を必ず救い出す」と。そして、 「見よ、わたしはお前の口にわたしの言葉を授ける。」と言って、神は手を伸ばしてエレミヤの口に触れました。  エレミヤは、この時から預言者としての道を歩き始めました。  「ええーーーっ、わたしがそんなーーっ」と言っている間に、神さまに押し出され、突き出されて、預言者とされてしまいました。そして、神さまと、神さまの心を受け入れようとしない頑な人々との間に立って、エレミヤは苦難と迫害の道を歩き始めることになりました。  さて、荒木聖職候補生は、青年エレミヤが、2千数百年前に聴いた言葉と同じ言葉を、今、聴こうとしています。  これから行われる執事按手式の式文の中のクライマックスともいうべき所は、「執事聖別」というところです。  主教から聖職候補生が頭に手が置かれる前に、主教は、 「今、わたしは、主の教会にゆだねられた務めを分かち合うために、み名によって聖別するこの僕をお召しくださったことを感謝します」と祈られます。  そして、そして頭に手を置き、 「主の教会における執事の務めと働きのために、主の僕に聖霊を注いでください アーメン」と祈られます。  この瞬間に、聖霊のみ力によって「聖別」されるのです。神さまによって分けられ、分別されて、神の側につく者、神から遣わされる者となります。神が、エレミヤに「わたしがあなたを聖別する」と言われたことと同じことがここで起こります。  そして、さらに、主教は、聖書を渡しながら、 「これはキリストの福音を宣べ、み言葉に従って神と人とに仕えるために、神があなたに与えられた権威のしるしです」と言われます。  これは、神が、エレミヤに「わたしが命じることをすべて語れ」と言われたことと同じです。そして神のみ言葉である聖書が渡されます。  教会の役割を果たす上で、信徒と聖職は違う、違わなければならないというところがあると思うのですが、この瞬間から、目に見えて、信徒の時とは違うのだという、教会の中にある小さな変化を二つお話します。いずれもどうでもいいというような小さなことですが、大切なことを教えています。  一つは、教会でお葬式をしますと、信徒の時と、聖職になってからでは違いがあります。そういう教会のしきたりらしいのです。  礼拝堂に、6人ぐらいの人に担がれてお棺が運ばれて来て、祭壇の前に安置されるのですが、その時に亡くなった人が信徒の場合は、足を祭壇の方に向けて、頭を手前にして置きます。これに対して聖職者の場合は、頭を祭壇の方にして、足を会衆席の方に向けて安置します。そのような形で、お葬式が進められます。  なぜそんなことをするかと言いますと、キリスト教では、死んでよみがえるという信仰に立ってお葬式が行われますから、よみがえった時に、信徒の方々は、真っ直ぐに十字架に向かうようにするのだそうです。これに対して、聖職者は、よみがえっても、会衆席の方に向かって立ちます。若い頃にそれを聞いて「えーーっ、死んでまでみ言葉を宣べるのだ」と思ったことがあります。  どこの世界でもそういうしきたりにうるさいことを言う人がいるもので、私が聖職になりたての頃、先輩の聖職が亡くなり、お葬式の時、祭壇の前まで厳かにお棺を運んで来られて、誰かが「頭はこっちだ」「足はこっちだ」と言いだし、今度は「お棺の頭はどっちだ」「足はどっちだ」といって、会衆席の前で、右へ回ったり左へ回ったり、3回ぐらいぐるぐる回っていたことがあります。  ほんとうに、どうでもいいことことなのですが、そのようなしきたりのもとというは、聖職者というのは、どんな時でも、死んでからでも、神さまを背中にして、言いかえれば、十字架を背負って、会衆に向い合って立つものなのだということを教えているのではないかと思います。それにしても、どっちを向いていいのかぐるぐる回るのだけはやめてもらいたいと思います。  もう一つの小さい変化ですが、今日、荒木聖職候補生が執事に按手されますと、明日の日曜日の礼拝から、聖餐式の中で、「福音書を読み」、「説教」をすることができるようになります。  文語の祈祷書では、主教は頭に手を置いて執事按手をした後、新約聖書を渡しながら「神の公会において福音を読み、また主教の許しあらば説教する権威を授く」と言われました。私が執事になる時にはそのように言われました。  荒木聖職候補生は、これまでも日曜日の礼拝と変わりなく、ここに立ってお話をするのですが、今までは「教話」とか「勧話」とか言って、「説教」ではないと、区別をしていたと思います。たぶん、その内容は福音を語るという意味で変わらないものだと思いますが、しかし、今日、主教から「聖書を受けなさい。これはキリストの福音を宣べ、み言葉に従って神と人とに仕えるために、神があなたに与えられた権威のしるしです」と言って、聖書を渡されて、はじめて聖餐式の中で福音書を読み、説教をすることが許されるのです。  これは、礼拝の中で読まれる「福音書」というのは、教会が世界に向けて、地域社会に向けて発せられる「神の福音です」ということです。教会の礼拝の中で行われる「説教」というのは、教会が世界に発する、地域社会に向けて宣べ伝える「教会の正式のメッセージ」だということを表しています。  荒木執事が語る説教は、個人の口から出る言葉ではありますが、それは神の言葉を受け継いでいるのであり、教会の2千年の歴史と伝統の上に立っている、教会のメッセージであるという重みと正統性を表しています。  新執事は、エレミヤが受けた恐れと緊張をもって、このことをしっかりと受け取って頂きたいと思います。  もう「わたしはただの若者に過ぎません」とは言えません。どこで何を語るか、どのように語るかは、それは、必ず神さまが与えてくださいます。まっすぐに、すべてを語りなさい。そして、どんな時にもどんな所でも、神がつねに共にいてあなたを助けてくだるという確信をもって、執事の務めを全うして頂きたいと思います。  前後しますがこの後、ニケヤ信経の後で、「推薦」という所があります。その中で、主教が会衆に向かって言われます。 「キリストにある兄弟姉妹よ、この人は神の教会の執事して召されています。皆さんはこの人が執事に按手されることに同意しますか」と尋ねられます。そして会衆は声を揃えて「同意します」と答えます。  さらに主教は尋ねます。「皆さんはこの人を執事として支持しますか」と。これに対して、会衆は「支持します」と答えます。  皆さんにお願いします。とくに新宮聖公会の信徒の皆さん、保育園の皆さんにお願いしたいと思います。「同意します」「支持します」という言葉を大きな声で、神さまに届くように、はっきりと応答えて頂きたいと思います。  祈祷書の答えには、「同意しません」とか「支持しません」という答えはありません。「まあ、まあ」とか「そのうちに」とかいう言葉もありません。次の答えから一つ選べとはなっていないのです。    主教から按手を受けて、この時から、荒木聖職候補生は、聖職として、執事として、神さまの御用にあたります。説教をする権威が神さまから与えられます。しかし、この「権威」は、威張り散らす権威ではありません。信徒の方々の「信頼」があってはじめて成り立ちます。教会を支配する「合い言葉」は「愛」です。私たちが愛しあうところに神の愛があります。神の愛を知らないは人を愛することはできません。私たちの思いと言葉と行いの一つ一つに「愛」の裏付けがなければ、教会は教会ではなくなってしまいます。ほんとうの愛には厳しい一面があります。同時に「ゆるし合う」ことも愛の一面です。信徒のかたがたの愛に満たされた「同意します」と「支持します」があって、はじめて新執事は、その務めを果たすことができます。  お祈りしましょう。  つねによきものを与え、私たちを導いてくださる全能の神さま。  大いなる恵みをもってこの兄弟を受け、主の公会の執事の職に  用いてくださいますことを感謝いたします。どうか、この兄弟が  つねに慎(つつし)み、謙(へりくだ)り、怠(おこた)りなくその職を行い、快く公会のおきて  に従い、良心に責められることなく、御子イエス・キリストに  あってますます強くされ、正しくその務めを行うことができる  ようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいた  します。アーメン 〔2007年6月14日 ヨハネ荒木太一執事按手式説教 新宮聖公会〕