わたしのもとに来なさい。
2008年07月06日
マタイ11:28〜30
「凡て労する者、重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません。」
教会の看板や、礼拝堂の掛け軸に、この聖書の言葉が掲げられているのをよく見ます。墓地にいくと、クリスチャンのお墓や教会の共同墓地の墓石や墓碑に、この聖句が彫られているのもよく見かけます。
さまざまな苦労、重荷を背負って生きている人たちが、この言葉を見て、足を止め、教会の門を叩く、イエス・キリストの招きとして受け取り教会に入ってみようという気持ちになることを願っているのだと思います。
また、お墓の墓碑に刻んであるあるのは、長年いろいろな苦労を背負い、重荷を背負って生き抜いてきた故人が、今、その重荷から開放されて、イエスさまが与えてくださるやすらぎを得ているという意味で用いられているのであろうと思います。
私たちにもこの言葉は、わかりやすく、慰めに充ちたイエスさまの招きの言葉ですから、この方の所へ行けば休ませてくださるという安心が与えられ、ほっとします。
しかし、今日は、ちょっと立ち止まって、この言葉についてもう少し深く考えてみたいと思います。
まず、この言葉は、今日の福音書マタイ11:28-30に書かれているのですが、これをよく読みますと、いくつかの疑問がわいてきます。
第1に、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも」というのは、誰でも人間が生きていく上で持つあらゆる苦労、苦悩、重荷と感じるもののすべてをいうのでしょうか。経済的な生活苦、貧困の問題、親子、嫁姑、家庭や職場の人間関係の難しさ、病気や障害、死を前にした恐怖、さまざまな寂しさや悲しみ、良心の呵責に耐えかねているというような一般的な苦労、苦しみを負っている人のすべての労苦、苦悩をいうのでしょうか。
そうすると、それは「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」といって、イエスさまは、これを全部取り除いてくださるというのでしょうか。
第2に、イエスさまは、どのようにしてこのような重荷を取り除いてくださるのだろうか。イエス・キリストの所へ来れば、具体的にどのようにして休ませてくださるのでしょうか。
この聖書の言葉の中で考えられるのは、イエスはご自分のことを指さして、「わたしは柔和で謙遜な者であるから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われました。
軛というのは、牛や馬が、荷車を引いたり、畑で土を耕す時に、その牛や馬の肩に掛ける道具をいいます。太い木に、牛や馬の首をはさむようにして2本の木を取り付け、この太い木に荷車や畑を耕す鋤を綱で結わえて取り付けます。荷車や鋤の重さがこの軛を通して牛や馬の肩に食い込むことになります。
疲れた者、重荷を負う者にかかる重さがその人の肩に食い込むその重さをこの軛が表しています。牛や馬の肩に掛かっている重い荷物や鋤が繋がっている軛のように、私たち人間の肩には、今、苦しみあえいでいる苦労、苦悩に繋がっている軛が掛かっています。イエスさまは、「わたしのところへ来なさい。そうすれば、重い軛を取り外してあげよう。そして代わりにわたしの軛を掛けてあげよう。わたしの軛は負いやすく、荷物は軽いのだから」と言われます。
さて、ここで気がつくのは、イエスさまが言っておられる「疲れた者、重荷を負う者」というのは、さっき言ったような日常生活の中で誰でも抱いているような人生の重荷、お金の問題や病気の問題やさまざまな人間関係や社会問題など、一般的な苦しみや苦悩のことではないのではないかということです。サラ金で苦しんでいる人に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言っておられるのではない。介護や看病に疲れた人に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言っているのでもないように思います。
当時、イエスさまの話を聞いているユダヤ人たちの最大の問題、それは、律法によって苦しめられていたということを知ってください。 ユダヤ民族は、神さまによって選ばれた民であり、自分たちは神さまによって、救われることが約束されている民族だと信じ、それを誇りに思ってきました。その約束のしるしとして神さまから律法・掟が与えられました。これを守ることが救われる唯一の道であると教えられ、これを守っていれば救われるのだと教えられてきました。当時のユダヤ教の指導者たち、とくにファリサイ派、律法学者たちは、自分たちもこれを厳しく守り、人にも律法を守ることを強要した。
ところが、時代が経つにつれ、その守り方は、だんだんと形式的になり、形ばかり、見せかけばかりで偽善的になっていきました。
ある時、イエスさまは、群衆と弟子たちにお話しになったことがあります。
「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。」(マタイ23:1-11)
イエスさまは、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」(マタイ23:12-14)と言って厳しく非難されました。
当時のユダヤ人たちは、律法学者やファリサイ派の人々が負わせる重荷、背負いきれない重荷にどれほど苦しめられていたでしょうか。背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない彼らの態度や姿勢に苦しめられていました。すぐに「罪を犯している」「神を冒涜している」と人を糾弾します。
これに対して、イエスさまがこの世に来られた大きな使命は、彼らが教える教え、すなわち形式的な律法主義、偽善的な教育や指導を打ち破り、人々をそこから解放することにありました。律法の重荷を軽くし、律法の重荷から解き放ち、自由にすることにありました。
それでは、イエスさまは具体的にどのようにしてそれを実行されたのでしょうか。聖書の中から一つの例を挙げてみましょう。
朝早く、神殿の境内に入られると、民衆が皆、イエスさまのところにやって来ました。そこで、イエスさまは座って教え始められました。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、人々の真ん中に立たせました。そして、イエスさまに言いました。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスさまを試して、訴える口実を得るためにこう言ったのでした。
イエスさまはかがみ込み、指で地面に何か書き始められました。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われました。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスさまと、この女だけがそこに残されました。イエスさまは、身を起こして言われました。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯して はならない。」(ヨハネ8:1-11)
この女は、その後どうなったか、主イエスに従ったのか、どこかへ行ってしまったかは分かりません。しかし、この女は主イエスによって救われたのです。殺されて当然だと思われていた人が、自由にされたのです。
律法学者たちやファリサイ派の人々は、姦通の現場で捕らえた女を連れて来ました。「姦淫してはならない」と律法にはっきりと記されています。レビ記20:10に「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」と記されています。申命記には「その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない」(22:24)とあります。
この女は、律法を破った現行犯で、その罪のために、その場で殺されようとしています。その背景にはどんな事情があったかはわかりません。しかし律法に違反したことには違いありません。この女は罪に問われ、その重荷のために押し潰されそうになっています。
今、まさに石を投げようとする人たちに向かって、「可哀想だから投げるな」とは言われませんでした。律法は守らなければなりません。
イエスさまは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。この女に向かって矢を向けていた人々は、あなたがたは生まれてこのかた、一度も罪を犯したことはないのですか。そういう人がいたら、その人から順に石を投げなさいと言い、この言葉によって、反対に矢は石を投げようとした人たちに向けられたのです。ファリサイ派や律法学者、野次馬で石を投げようとしていた人たちは、胸をぐっと突かれました。
そして、イエスさまは、この女に、
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯して はならない」と言われました。
この女は、死に値いする重い重い罪の軛から解放されて、主イエスの軛「これからはもう罪を犯さないように」という負いやすい軛に付け替えられたのです。言いかえれば、律法の軛から愛の軛に変えられたということができます。
律法は、人を殺します。しかし、愛は人を生かします。愛は人を立ち上がらせます。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからでる。」
最後に、今日の使徒書にも目をとめたいと思います。
ローマの信徒への手紙7:21-8:6、パウロは次のように言います。
「善を行おうと思う私たち人間には、いつも悪が付きまとうという、反対の力が働く法則があることに気づきす。(作用、反作用の法則)
「内なる人」すなわち、心では、頭(知識、知恵)では、神の律法を守ろうとして、神の律法が与えられていることを喜んではいるのですが、わたしの五体、すなわち肉体(欲望、野心、虚栄心)にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、わたしを、肉体の内にある罪の法則の「とりこ」にしているのが分ります。
わたしたちは、なんと惨めな人間なのでょう。そのために極刑(死罪)に定められているこの「体」から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。25:わたしたちは、主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えようとしていますが、肉ではやはり罪の法則に仕えてるのです。
しかし、今は、あの十字架と復活の出来事の後は、キリスト・イエスに結ばている者は、罪に定められることはありせん。キリスト・イエスによって命をもたらす「霊の法則」が、「罪と死との法則」からあなたを解放したからです。私たちの肉の弱さのために、律法がなしえなかったことを、すなわち、律法を通して、人が神のみ心を十分に理解することができなかったことを、神は、神の方からしてくださったのです。
つまり、神は、罪を取り除くために、神のひとり子、愛する御子を、罪深いわたしちと同じ肉体を取らせ、私たちと同じ姿でこの世に送り、そのイエス・キリストの肉体を十字架にかけ、肉体の苦しみと死をもって、私たちの罪を、罪として処断されたのです。それによって、もはや肉体の支配する私たちではなく、霊に従って歩む私たちにされたのであり、私たちの内に、律法を通して神がみ心を表されたその神の要求が満たされるためでした。「肉」に従って歩む者は、肉に属することしか考えられませんが、「霊」に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
肉が支配する思いや行い、人間の欲望が支配する思いや行いの行き着く所は死ですが、霊が支配する思い、神が支配する思いは、命であり、そこには、ほんとうの平和、ほんとうの平安があります。」
パウロは、律法の法則にとどまるか、愛の法則に立つか。
重荷を負う軛にとどまるか、イエス・キリストの軛を負うか、神の前に立つ私たちに問いかけています。
〔2008年7月6日 聖霊降臨後第8主日(A-9) 桑名エピファニー教会〕