種まきのたとえ
2008年07月13日
マタイ13;1〜23
耳が遠くなって人の声や物音など聴きにくくなった人が、補聴器をつけるようになって、同じように言われることがあります。人の声はよく聞こえるようになったけれども、同時に廻りの雑音も同じように耳に入ってくるので、うるさくなった。周りの小さな子どもの声や甲高い声や物音が耳に入ってきて頭が痛くなるというようなことを言われます。
最近は補聴器も時代と共に進んできて、小さな小さなコンピュータが組み込まれていて、ある程度制御もできるようになっているらしいのですが、それでもなかなか自分の耳だけで音を聴くのとは同じようにはいかないようです。
目でものを見るという場合でも、光が目に入って網膜に映っているものがそのまま見えているのではないのですね。神経を通って、脳に伝えられて、脳で映像ができているのだそうです。
そのように考えますと、私たちの耳や目、その他のものを感じる器官は複雑で精巧にできていて、そしてとっても便利にできていることがわかります。
やかましい騒音の中ででも、聴こうとする人の声は聞き取ることができます。その時には廻りのやかましい音は消してしまうというか、聞こえてはいるのでしょうが、聞こえていないように思うのです。聴きたい人の声も騒音も、同じように耳に入ってきているのでしょうが、どこかでそれを選り分け、必要な音だけをちゃんと聞き取る力が備えられています。
それだけではなく、自分の子どもの声、お母さんの声、愛する人の声、そういうものも、それぞれ違って聞き分ける能力が与えられていることがわかります。聴きたくない音と聴きたい音を無意識に選り分け、聞き取っているということは、実は、それは耳がしていることというより、私たちの脳の中で、その選り分けをしているということです。
「心して聴け」とか、「人の言うことにもっと集中しなさい」と言われることは、それは、心をそこに向けなさいと言われていることだと思います。反対に、聞く必要のないこと、都合の悪いことや聴きたくないこと、関心のないことはは、上の空で聞き流すというようなこともあります。これも、人間に与えられた自分を守る防御本能というものかも知れません。
このように人間に与えられているだいじな機能、能力ですが、しかし、これが、私たちにとって、だいじなことを聞き逃してしまうということになることもあります。よほど集中していなければ、聞こえてはいるけれども聴いていないというよなことが起こります。
イエスさまは、旧約聖書のイザヤ書の言葉を引用して、このように言われます。
「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、
心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。」
(マタイ13:14、15)
肉体の目では見えていても、心の目では見えていない。
肉体の耳では聞こえているが、心の耳には聞こえていない。
人々は、最もだいじなことを、理解しない、認めない、悟らない、
と言われます。
今日の福音書、イエスさまが語られた「種まきのたとえ」ですが、子どもにもわかるやさしいたとえ話です。
マタイの福音書の13章、1節から9節までに、このたとえ話が、語られ、そして、18節から24節にはその解釈がしるされています。これは、イエスさまの口を通して、マタイ福音書が書かれた時代の背景の中から当時の教会の事情ををふまえて解釈がなされているということができます。
今もそうだと思いますが、パレスチナの農夫が種を蒔く方法は、土を掘り、大きな石や雑草を取りのけると、そこに、一面に、ちょうど節分の豆を撒くように、パラパラと種を蒔きます。有名な「晩鐘」とか「落穂拾い」を描いたジャン・フランソワ・ミレーという画家の作品に、聖書の「種まきのたとえ」からとられたものといわれる「種まく人」という絵があります。ここに描かれた人物が、1933年から岩波書店のあの丸いマークになって使われています。
種をまく人が、蒔いた種の一つは、道ばたに落ちました。すると、が鳥が来て食べてしまいました。
ほかの種は、石だらけで土の少ない土地に落ちました。すると、そこは土が浅いのですぐ芽を出しましたが、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまいました。
ほかの種は、茨の間に落ちました。すると、茨、言いかえれば雑草が伸びてそれをふさいでしまいました。
ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなりました。
飛んでいった種の行方によって、ここに4通りの例が挙げられています。
第1の種は、道ばたに落ちた種は、落ちたまま終わってしまいます。
第2の種は、芽を出して終わってしまいました。
第3の種は、根が出、芽が出て育つのですが、実をつけずに終わります。
第4の種は、根が出て、芽を出し、成長して、見事に実をつけます。
同じように種は蒔かれているのですが、はっきり言って、ここでは実をみのらせられない土地と、その種が成長して立派に実をみのらせる土地と、大きく二つに分かれ、それが対比されています。
このたとえを解釈しますと、「種をまく人」は神さまです。「種」とは、神さまの「み言葉」です。イエスさまの教え、聖書の教えとも言えます。そして、種が蒔かれる「土地」は、私たちのことであり、私たちの一人一人の「心」の状態です。
種が蒔かれてその種が育つ土地と育たない土地があるように、み言葉が聞かされても、そのみ言葉が育って成長し、実を結ばせるような心と、実を結ばせられない心があることを、このたとえは教えています。
み言葉は、絶えず私たちに聞かされているのですが、同じようにまかれたみ言葉が、これを受ける心の状態によって、まったく成長しなかったり、実を結ばなかったりします。そして、これを受ける心の状態によっては、百倍もの実を実らせると言っています。
み言葉を受ける人、み言葉を聞く人の心が、どのような状態なのかということによって、み言葉が定着するか、さらに成長し、実を結ぶ、信仰の実を結ぶかどうかということが問われています。
農夫が収穫の喜びを胸の中に期待して種をまくように、神さまが期待しておられるような実を私たちの心に結ぶことが求められています。
それでは、種が実を結ぶように成長することを妨げるものは何でしょうか。それには、外部から来る妨害と私たちの内部から来る妨害があります。
外からくる妨害とは、私たちの周りからすなわち、時代や社会状況や環境から押し寄せる出来事であったり、考え方であったり、圧力であったりします。迫害するものであったり、さまざまな思想や外から働きかけてくる誘惑であったり、さまざまな快楽であったりします。私たちの廻りの社会が物質的に豊かになり、便利になり、地位や財産や権力が人間のすべてを支配するかのような考え方は、私たちの心にまかれた種の成長を妨げてしまいます。
また一方では、み言葉という種の成長を妨げる要素が私たちの心の内にもあります。それは私たち一人一人の中から起こってくる、思いであったり、欲望であったり、誘惑であったりします。自己中心的な考え方、傲慢や不遜、不満が、私たちの心にまかれた種の成長を妨げてしまいます。さらに大きな「妨げるもの」は、私たちの心に起こってくる「慣れ」です。「わかった、わかった、前にも聞いたことがある」と思ってしまうことが、何よりもみ言葉の成長を妨害してしまいます。
それでは、蒔かれた種が実を結ぶような良い土地とは、私たちの心の状態をどのようなすればよい土地にすることができるのでしょうか。
それは、その土地を耕すことです。その土地を深く深く掘り起こすことです。干からびて、ひび割れて、石のようにかちかちになった土地に、どんなに種がまかれても、根は出ません。芽も生えてきません。深く、深く、土を掘り起こして、土をひっくり返し、土を砕いて柔らかくすることです。心に鍬を入れるということは、それは「悔い改める」ということです。
神さまとの関係の中で、心から反省し、改善を誓うことです。神さまに心を集中させることです。
そこに神さまは「恵みの雨」を注いでくださいます。よく耕され、水分と肥料が与えられた土地に落ちたみ言葉の種は成長し、30倍にも、60倍にも、100倍にも実を実らせます。
最初に、補聴器のことを申しましたが、人間の耳や目は、すばらしくよくできているのですが、その機能が逆に働いて、大事なことを聞き逃すことがあります。聞いていながら聞こえていない。目に映っていながら見えていないということがあります。
もう一度、イエスさまの言葉を聴きましょう。
「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、
心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。」
(マタイ13:14、15)
そして、「耳のある者は聞きなさい」と、言われます。 (マタイ13:9)
〔2008年7月13日 聖霊降臨後第9主日(A-10)説教 下鴨基督教会〕