天国のたとえ
2008年07月27日
マタイ13:31−33,44−49
先月、6月13日未明に、江口一久さんが事故で病院に運ばれたという電話が入り、間もなく亡くなったという報せが入りました。びっくりしました。ご存じの方もおられると思います。京都聖マリア教会の信徒でしたが住居の関係で、神戸聖ヨハネ教会に移っておられました。
江口さんは、京都大学文学部言語学科を出られ、1974年に国立民族学博物館第三研究部助手になられ、2005年、同教授を定年退職され、総合研究大学院大学名誉教授、国立民族学博物館名誉教授でした。
専門は、言語民族学という分野で、とくに西アフリカ、カメルーンの北部、フルベ族の言語文化、西アフリカの口承文芸の研究を続けられました。 このフルベ族の人たちは、文字を持たない民族で、多くの民話を口承で伝えられています。
江口先生は一年の半分以上を、このフルベ族の中で過ごし、41年間、マルアという村に通い続け、その土地のおばあさんから民話を聞き取り、それを英語にし、または日本語に翻訳して伝えました。 その生涯にわたって紹介されたフルベ族の民間民話は膨大な数で、私たちもこの民話を通して伝えられる独特の文化に触れることができます。
66歳で亡くなったのですが、ほんとうに惜しい方を失ったと悔やまれてなりません。
数年前から、この江口先生にお会いするたびに言われました。
「先生、牧師さんはもっと、話をすることを勉強してもらわなあかん。聖書を読むと、イエスさまは、もっとやさしく言葉で、わかりやすく人々に教えを伝えてはった。ところが、今の牧師は、みんな、それをわざわざ難しく、解りにくく話してはる。もっと語ることを勉強してください」と。
イエスさまの時代も、それ以前の旧約聖書の時代の人々も、文字を読める人は少なかった。多くは口で語り継ぎ、耳で聞いて、心にしっかりと受け止めていたのだというのです。毎日、寝る前には旧約聖書はヘブライ語で、新約聖書はギリシャ語で読んでいるという江口先生の言葉ですから説得力がありました。
実は、わたしは、昨年の春から、無理矢理背中を押されて、江口先生が主宰する民話を語る会「地球おはなし村」という会に入会して、語ることについて勉強し始めた矢先でした。ほんとうに残念でなりません。
江口先生は言われました。
クリスチャンは、聖書を毎日読んで、人生の指針を確かめます。その中の教えが、たとえば「なんじの敵を愛せよ」などと、不可能に近いことであっても、そうあったらいい、そうありたいと思っています。
しかし、聖書の教えと私たちの生活、毎日の行動の間には、大きな溝があります。聖書に記されている通りには、実際には生きていけません。そこで、聖書の教えをちょっと離れた所に置いておいて、それはそれ、これはこれと、別の生き方をしている。または、聖書の内容を聖書より高い所から講評しているというようなことがよくあります。
カメルーンのフルベ族の民話、昔話にはその中に「ずる賢いリス」がよく登場します。フルベ族の人たちは、そのリスのことを、「よいものではない」と言います。けれども、実際の生活では、危いとき、窮地に陥った時には、自分を守るために、自分自身もリスになるのです。そうして、現実の問題をすり抜けるのです。
だから彼らにとって、民話、昔話は、クリスチャンの聖書のようなものに相当していると言います。
クリスチャンは、聖書こそだいじ、聖書こそ生きるための指針、聖書こそ生きるための羅針盤、聖書至上主義であると言っても、決してそれに生きていません。けれども、フルベ族の人たちは、民話、昔話に生きているわけですから、クリスチャンよりももっと、自分たちの「バイブル」である民話、昔話を大事にしていると言える。このように語っておられました。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、イエスさまは、天国のことを教えるのに、多くの場合、「たとえ」をもって話されました。「たとえを用いないでは何も語られなかった」(マタイ13:34)とあります。
今日の福音書では、「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」「宝が隠された畑のたとえ」「良い真珠のたとえ」「網にかかった魚を選り分ける漁師のたとえ」という5つのたとえ話が語られています。
さらに加えて、先週の主日の福音書は、「良い種と毒麦のたとえ」が語られ、さらにその前の主日には、「種まきのたとえ」の聖書の個所が読まれました。
これらのたとえのテーマは、「天国」とか「天の国」なのですが、イエスさまは、この天国について語られるときに、「天国とは何か」と言って、定義したり、抽象的な言葉で説明したり、哲学的な言葉を使って論理をまくしたてて、説得して「わかったか」といわせるような話し方はなさいませんでした。
アフリカのフルベ族のおとなや子供たちに、聞いてわかるような民話、お話が語られたように、イエスさまも、イエスさまの話を聴いている群衆にわかりやすいように、「種まき」や、「麦と毒麦の話」や、「からし種」、「パン種」、「畑に隠された宝」、「良い真珠を探す話」そして「魚を選り分ける漁師の話」というような、日常の生活の中のどこにでもあるような材料を取り上げての話しておられます。
その当時の人たちにはわかるやさしい話だったのでしょうが、時代が変わり、場所が変わって、現在の日本の都会に住む私たちには、反対に解説がなければわからなくなっているものもあります。
また、イエスさまは、いっぺんに、一個所で、このような「たとえ話」をなさったわけではなく、あちこちで、ちがう場所で話されたものが、その話の断片が集められ、編集されたものだとも言われます。
イエスさまは、「天国とはこのようなものですよ」と、せっかくやさしく「たとえ」でお話しておられるのですから、ここで、その一つ一つについて、へんな解釈や説明をしないでおこうと思います。江口一久さんに、「また、牧師は、やさしい話をわざわざ難しくしよる」と言われそうですから、ご自分で読んで、ご自分で聞いて、ご自分で、「天国とはそんなものかあ」とご自分で考えて頂きたいと思います。
それでも、ただ、一つだけ申し上げたいことがあります。
聖書の中に、「天国」という言葉はよく出てきますが、この「天国」という言葉は、「神の国」、「永遠の命」と同じ意味に用いられているということです。またさらに「神の義」、「救い」ということとも同じ意味を持っています。それは、私たちが信仰生活を送る上で、「究極の目的」であり、私たちが信仰生活の中で、一生懸命求めているもの、求めなければならないものだということです。
マタイ6:31〜34に、
「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と、イエスさまは言われました。
私たちは、イエスさまを信じると言いながら、毎日、朝から晩まで、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』というようなレベルのことばかりを思い悩み、今日のことだけではなく明日のことまで思い悩んでいます。
そのようなレベルのことを求めて、お祈りをして、それが信仰だと思っています。イエスさまは、そんなことは思い悩むな、それよりも、もっとだいじなものを求めなさい、それは、何よりもまず、一番先に、神の国と神の義を求めなさいと、はっきりと言われるのです。
はたして、私たちは、何よりも優先して、何よりも真剣に「神の国=天国」を求めたことがあるでしょうか。求めているでしょうか。
天国=神の国というと、それは死んでから行くところ、死んだ人が行くところだと思っていますので、それはもっと先の問題だと考えているのではないでしょうか。
ルカによる福音書にこのような場面があります。(ルカ17:20,21)
ある時、ファリサイ派の人々がイエスさまの所に来て尋ねました。
「神の国はいつ来るのでしょうか」と。
すると、イエスさまは答えて言われました。
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言 えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
神の国とは、どこかにあって、また、いつ、どのようにして来るというようなものではないと言われるのです。
神の国とは、神さまが支配する国、神さまのみ心が、隅々まで、細かいところまで徹底して、行き渡っているそういう状態をいいます。
そして、それは、今、イエスさまによって、もたらされている、実に、今、あなたがたの中にいるではないかと言われるのです。
言いかえれば、それは、神さまと私たち人間の関係のことであり、イエスさまとの関係がどのような状態にあるかということです。
イエスさまは、天国=神の国とは、ご自分の鼻の頭を指さして、「わたしだ、わたしだ」、「わたしがここにいるではないか」、「わたしがいる所が天国であり神の国なのだ」「わたしが一緒にいるこの状態が、その場が天国なのだ」と言われます。イエスさまが言われる天国は、絵に描いたようなものではなく、具体的で、もっともわかりやすいものです。
「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわた したちの内で全うされているのです。
イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(ヨハネの手紙一 4:8-16)
そのような天国=神の国を、頭に描きながら、イエスさまが語られた、今日の「たとえ」一つ一つをもう一度読み返し、本当の天国、神の国を真剣に求めたいと思います。
〔2008年7月27日 聖霊降臨後第11主日(A年-12)説教 京都復活教会〕