「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

2008年08月24日
マタイ16:13〜20  イエスさまは、弟子たちと共に、フィリポ・カイサリア地方に行かれた時に、突然、弟子たちに、お尋ねになりました。 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。  この問いは、単に人の人気を気にしたり、世論調査をして好感度を測ろうというようなものではないことがわかります。 「人々は、わたしのことを何者だと思っているのか」 「わたしのことを誰だと言っているのか」と、お尋ねになりました。  これに対して、弟子たちは、あちこちで耳にしていた噂、人々から聞いたきたことをそれぞれに4通り答えました。  「洗礼者ヨハネだと言う人がいます。」  「預言者エリヤだと言う人もいます。」ほかに、  「預言者のエレミヤだという人もいます。」また、  「預言者の一人だと言う人もいます。」   洗礼者(バプテスマの)ヨハネは、らくだのも毛衣を着、腰に革の帯を締め、ヨルダン川で人々に悔い改めの洗礼を授けている人でした。  預言者エリヤというのは、紀元前9世紀の北王国イスラエルに現れた預言者でした。エリヤは、世の終わりの時にはメシアに先だって現れると言われていました。  預言者エレミヤというのは、紀元前6世紀の南ユダ王国が滅ぼされようとする頃の預言者でした。  そのほかにも、過去に活躍した預言者たちの姿を想い浮かべ、その中の一人だと見ている人たちもいました。  弟子たちの周りにいる人たちの多くは、イエスさまのことを、普通の人ではないということはわかっています。何か神さまに近い、神さまから与えられた特別の力、能力を持った人、預言者の誰か、預言者の一人というふうに受け取ってはいましたが、しかし、それは、イスラエルの過去をふり返って、歴史の中に登場した人物、有名な宗教的指導者の生まれ変わり、再現と考えました。言いかえれば、過去の経験と知識の中で、誰かに当てはめて、そこから出ることのないイエスさまの姿でした。  そこで、イエスさまは、今度は弟子たちの方に向き直って尋ねました。「それでは、あなたがたに尋ねるが、あなたがたはわたしを何者だと言うのか、何者だと思っているのか」と。  これまで、イエスさまは、弟子たちに多くのことを教え、訓練してこられました。たとえ話を語り、数々の奇跡を行って見せてこられました。このイエスさまの質問は、弟子たちが、そのことをどのように理解し、受けとめているかということを試される根本的な問いのように思われます。  これに対して、ペトロが、弟子たちを代表して答えました。  「あなたはメシア、生ける神の子です。」  それは、周りの人たちが歴史上人物に当てはめて出した答えではありません。モーセでもない、ダビデでもない、どの預言者でもない、あなたこそ救い主です。あなたこそキリスト、すべてを支配し、すべてを導き、すべてを審き、「生きて働く神」の子です。神の子ですと、答えたのです。  その答えは百点満点の、十分に的を射た答えでした。イエスさまが期待しておられる「信仰の告白」の言葉でした。  「告白する」とは、「心の中に思っていることや、隠していることを打ち明けることです。「罪を告白する」「愛の告白」とか言います。とくにキリスト教では、自分の信仰を公けに言いあらわすこと」を言います。ペトロは、短い言葉ではっきりと、イエスさまに対する信仰の告白をしたのです。  これに対して、イエスさまはお答えになりました。  「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間(血肉)ではなく、わたしの天の父なのだ。」  そのことを知ることが出来るのは、単に人間の知恵や経験から出るものではない。自分で考えた理論や結論でもない。それをさせるのは「わたしの天の父なのだ」。聖霊の働きがおまえを助け、それを導き出したのだ、聖霊がおまえを促し、前に突き出す神の意志が働いているだと言われました。  そして、最高の褒め言葉と共に、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と言われました。  さて、皆さんにお尋ねしたいと思います。  私たちの問題なのですが、もし、今、私たちの前に、イエスさまがお立ちになって、イエスさまから、弟子たちに対する時と同じように尋ねられたら、私たちは何と答えるでしょうか?  「それでは、あなたがたに尋ねるが、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。わたしを誰だと思っているのか?」と。  そこで、皆さんは、にっこりほほえんで「あなたはメシア、生ける神の子です。」と、きっぱりお答えになると思います。  今朝、説教を聞きましたから、ちゃんと答えはわかっています。福音書に書いてありましたから、それぐらい覚えていますと、胸を張って答えることができます。ペトロがした模範解答と同じ答えをしたのですから、イエスさまから褒められるはずです。ところが、イエスさまは、そのような私たちに何と言われるでしょうか。  ちょっとだけ、私の昔の体験話を聴いてください。  私は、大学生の頃、アルバイト学生でした。いろいろなアルバイトをしたのですが、家庭教師というアルバイトもしました。今のように、小学生や中学生の塾というようなものがなかった時代です。ある時、一人の中学生の勉強を見てやってほしいと頼まれて、毎週、夜、その中学生の家に通いました。お父さんは、大阪のど真ん中に大きなビルを所有している人で、家族はそのビルの最上階に住み、その中学生は一室、個室が与えられていました。高校へ行かせたいと言われるのですが、テストをしてみると小学校低学年の算数が出来ません。まず、簡単な計算問題を沢山やろうということになって、昼間、その中学生と一緒に大阪駅の近くの大きな本屋へ行って、計算問題の問題集を一冊選んで買って帰りました。  基本的な計算の方法を噛んで含めるように教えて、来週来る時までに、この問題集のここからここまでやっておくようにと言って、宿題を出して帰りました。その時には、問題集の後ろにある解答集を切り取って持って帰りました。  次の週の夕方、その中学生の部屋へ行って、宿題を出しなさいというと、まったく出来ていませんでした。少し、きつく小言を言って、もう一度やり方を教えて、次までに、ここからここまでやっておくようにと言って、また宿題を出して帰りました。  さらに次の週に行きますと、出しておいた宿題が全部、完璧に出来ていました。これはおかしい、出来すぎだと思って、机の抽出を開けさせると、そこからもう一冊の同じ問題集が出てきました。後ろにちゃんと解答集がついています。答えを丸写ししていました。自分で本屋へ行って、同じ問題集を買って来て、答えを写していました。  それでは勉強にはならないと叱って、その問題集を取り上げて持って帰りました。同じように宿題を出して帰りました。  次の週は、宿題は全部出来ていましたしたが、ところどころ間違えていました。その間違えかたがどうも不自然なので、本棚の奥を探ると、また、もう一冊同じ問題集が出てきました。答えを丸写しすると全部正解過ぎるので、自分で、適当に1とか2とか足したり引いたりして間違いを作っていました。  勉強というものはそれでは身につかないのだ、わからなかったら何度でも繰り返して聞け、こつこつ自分で考えないとだめなのだと、どれほど言っても、その時は「はい、はい」と言って聞いてくれるのですが、毎週のように本屋へ行って解答書付の問題集を買って来ることを止めません。私の手元には、取り上げた同じ問題集が6冊も集まっていたもとを覚えています。毎週、毎週、バスに乗って本屋へ問題集を買いに行く努力を考えると涙が出そうになるのですが、叱られたり、小言を言われたりする嫌なことから逃れたい一心だったのだと思います。  さて、私たちもイエスさまにすがって救われようとしているのですが、果たして、私たち自身は、どのような信仰告白をしているでしょうか。イエスさまに対して、自分の言葉で、自分の心の底から突き上げてくるような信仰告白、愛の告白ができているでしょうか。  ペトロがした模範的な答えを、答えとして知っていますので、問題集の後ろの答え合わせ用の解答集の答えのように、ペトロの答えが自分の答えだと思い込み、先に答えを見てしまって、出来たと思っているのと似ているようなきがします。  さて、ペトロですが、ここでは、模範的なイエスさまへの信仰を告白したのですが、それで、すべてパスというわけにはいきませんでした。  イエスさまは、弟子たちと共に、エルサレムにのぼり、ゲッセマネの園で、夜中に捕らえられるという出来事が起こりました。裁判のために大祭司の屋敷やローマの総督の官邸を引き回されました。弟子たちはどうすることもできず、見え隠れしながら、捕らえられたイエスさまの後をついて歩きました。大祭司の屋敷の中庭で、ペトロは、その家の女中に見つかり、「あの男は、あのナザレのイエスという男と一緒にいた男だ」と言われ、恐くなって、「そんな人は知らない」と、イエスさまを否定しました。三度も否定しました。  かつて、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白した信仰の告白は、一度、言いあらわしたから一生通用する、一生有効だとは言えません。洗礼の時、堅信式を受けるとき、信仰告白をしたから、一生有効だというものではありません。今、現在、その時、私たちはイエスさまとどのような関係にあるか、私にとってどのような方か、言いあらわしていなければなりません。自分の言葉で言いあらわせる愛の告白、信仰の告白を、どのように言いあらわしているでしょうか。  イエスさまの質問に、どのように答えるか、ペトロがした模範解答に、私の解答が近づくことができますように。ペトロと同じ答えが、本当に自分の思い、イエスさまへの思いとして、心の底から溢れてくるような信仰が持てますように、祈り、願わなければなりません。  ペトロと弟子たちが、彼ら自身、信仰の告白の言葉が身につき、自分の言葉になったのは、実は、イエスさまが十字架にかかり、この世を去られた後、主のよみがえりを体験した後のことでした。  それは、どのようにして得られるか、その解答は、弟子たちはどのようにして本当の信仰告白ができるようになったか、その後のことについて、聖書の後ろの方に、ほんとうの解答集が載っていますから、どうぞ、ご自分でこっそりごらんください。 〔2008年8月24日 聖霊降臨後第15主日(A-16) 京都復活教会〕