二人または三人がキリストの名によって集まるところには
2008年09月07日
マタイ18:19-20
古い祈祷書、文語文の祈祷書の「諸祈祷」の最後に「キリソストムの祈り」というお祈りがありました。現在、私たちが使っている口語の祈祷書にも136頁に「クリソストムの祈り」があります。
文語では、このようになっていました。
「今、こころを合わせて主に祈る恵みを与えたまえる全能の神よ、御名によりて両三人あつまる時は、その願いを許さんと約したまえり。願わくは我らの益をはかりて望みと願いを遂げしめ、この世においては主の道を悟り、後の世においては限りなき命に至ることを得させたまえ。アーメン」
今でもこの文語文の祈りが耳に残っていまして、「両三人」すなわち、二人、三人の人が集まってお祈りすれば、神さまは必ず聞いてくださるということの根拠はここにあるものだと考えていました。
さらに、この祈りのもとになっているのが、本日の福音書、マタイの18章19節、20節だということがわかります。この祈りには「クリソストムの祈り」という名がついているのですが、このクリソストモスというのは、西暦4世紀(347年頃〜407年)に東方教会で活躍したコンスタンチノポリスの大主教で、名説教家、思想家として知られています。この人が祈った祈りか、作った祈りかわかりませんが、1662年の英国教会の祈祷書以来、早祷、晩祷の終わりの部分に、この祈りが置かれていました。古くから東方教会の礼拝で用いられていた祈りですが、ほんとうの作者は不明です。
イエスさまは、「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました。
この言葉について考えて見たいと思います。
そこで、ちょっと理屈をこねたくなるのですが、二人、三人が心を一つにして祈るならば、天の神さまはその祈りを聞いてくださるというのなら、一人で祈る祈りはきいてくださらないのか。また、二人、三人の人が、イエス・キリストの名によって集まらなければ、そこには、イエスさまはいてくださらないのか、と言いたくなります。
ここで、言いたいことは、個人がする祈りと、人が集まってする共同の祈りとの違いがあるいうことです。そしてどのように違うのかということです。
祈りとは、「神さまと信仰者との対話である」と言われます。
イエスさまも、たびたび一人静かに祈られました。ある時は山に登り、ある時は弟子たちから離れて寂しい所に行き、祈っておられました。
また、祈りについて教えておられます。
「祈るときには、あなたがたは偽善者のように祈るな。偽善者たちはように人に見せるために祈る。あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと祈るな。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。神さまは、私たちが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言い、「主の祈り」を教えられました。
祈りとは、信仰そのものだと言われます。祈りのないところには信仰はない。祈りは対話であって、単なる瞑想、黙想、独り言ではありません。祈りは、私たちが神さまに語りかけると共に、神さまの言葉に耳を傾け、神の言葉を聴くのでなければなりません。祈らないことは最大の罪だと言われます。
これに対して、それでは、礼拝とは何でしょうか。これも誤解してはならないと思います。個人が一人一人でする祈りを、一緒にしているだけだ、一人では聖歌も歌いにくいし、説教もないし、祈祷書も一緒に読んだ方が、お祈りしやすいぐらいに思っていると、礼拝の大切な意味を知らないで、毎週過ごしてしまっていることになります。
ここでまた聖書に目を向けてみましょう。
ヨハネによる福音書4章23節以下に、イエスさまはサマリアの女の人とこのような対話を交わしておられる中の言葉です。
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(23〜24)
第一に重要なことは、礼拝の主役、礼拝の主人公は、神さまだということです。「わたしを礼拝しなさい」という神の意志が、何よりも第一にあるということです。「父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」神さまが礼拝する者を求めておられるのです。礼拝をするかしないかということは、すなわち、私たちが、神さまの求めに応えますか、それとも拒絶しますかと迫られていることになります。
第二に、神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならないと教えられました。
それは、形式や習慣、義務、お勤め、掟として、礼拝をするのではないということです。生きた信仰と自分の中から突き上げてくるような主体性、気持ち、まごころをもって礼拝はなされるべきものだと言っておられます。ここにキリスト教の礼拝の特徴があります。
第三に、このような神さまの意思が第一にあって、そのことに対する応答として、神さまの礼拝に参加する私たち人間の行為があるのです。神さまは、私たちに大きな大きな恵みを与えてくださいました。そして、今も与えてくださっています。恵みというと、何かよいことがあったとか、無事に毎日が過ごせるとか、奇跡的に病気が治ったとか、そのような恵みではないのです。
私たちに与えられている最大の恵みは、神は、私たちの罪の贖いのために、ひとり子を与え、十字架につけ、三日目によみがえらせ、そのことによって私たちを救ってくださいました。私たちはそのために何一つ良いことはしていません。ただ、神の側から一方的に「恵み」として、もっとも大事なものをお与えになったのです。このことが恵みなのです。かたときも忘れてはならない、かけがえのないお恵みなのです。
そして、今も恵みの露を注ぎ続けてくださいます。私たちにできることは、ただ、このお恵みに感謝し、神の御名を賛美することだけです。それしかできません。礼拝とは、過去の出来事を繰り返し想い起こし、現在をふり返り、未来への希望を確信することです。そのためにみ言葉を聴き、信仰告白をし、代祷をし、献金をささげ、聖餐に与り、新しく生まれ変わって、この世の生活に元気に飛び出していきます。
神の恵みに応答する行為は、感謝と賛美にあふれて、神さまに「奉仕」することにあります。神に仕え、さらに人に仕えていく姿にこそ信仰者の生活があります。
私は、ある教会で牧師をしている時、その教会の礼拝堂が老朽化して危険な状態になったために、これを建て替えなければならなくなりました。愛着のある古い建物を取り壊すことになり、新しい礼拝堂を建てるのですが、約5年かかりました。その間、どのような礼拝堂を、どのようにして建てるか、資金はどうするか、設計や建築施工は誰に頼むか、ほぼ毎週といっていいほど、礼拝後に「礼拝堂の建築について考える会」を全員参加で開き、繰り返し、議論し、走り回りました。
「どのような礼拝堂を建てるか」という話し合いの中で、「礼拝は何のためにするのか」、「礼拝は誰のためにするのか」という問いを、集まった信徒の方々に投げかけたことがあります。
その時の答えが、自分たちのため、自分たちが気持ちよくなるためというものばかりでした。静かにお祈りしたい、荘厳な雰囲気にひたりたい、聖歌が気持ちよく響くような礼拝堂、冷暖房完備、子や孫の結婚式のため、自分のお葬式のため、等々、それは全部自分たちの欲求を満足させるためでした。
「神さまのために礼拝をし、神さまに賛美・感謝をささげるために礼拝をするのだ」というと、何とも白けた空気が流れました。
もし、立派な礼拝堂が建てられたとしても、その中で行われる礼拝が、霊と真理をもって礼拝するのでなければ、まごころをもって礼拝するのでなければ、むなしいものになってしまうと思いました。
最後に、今日の福音書の最後、20節の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」という言葉にもう一度耳を傾けたいと思います。
イエスさまがお生まれになる時、預言者イザヤの言葉が実現したのであると言われました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(マタイ1:23)
イエスさまは、インマヌエルである。それは「神は我々と共におられる」という意味なのだと宣言されています。イエスさまと出会うこと、イエスさまと共にいるということは、神と出会うことであり、神が共におられるのだと言います。
同じマタイの福音書28:19〜20、マタイの最後の言葉にこのように記されています。復活したイエスさまが弟子たちにお命じになりました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
この言葉を思い出しながら、今日の福音書の最後の言葉を見ますと、
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
イエス・キリストの名によって、二人、三人が集まるところには、そこに、その中に「イエスさまがおられる」、イエスさまは「そこにわたしはいる」と言い切っておられるのです。
ただなんとなく、教会に集まっている、仲良くしているというだけではなく、「イエス・キリストの名によって」、イエス・キリストを思うまごころ、慕う心、心からイエスさまを愛する心をもった人たちが集まるところに、その中に、その真ん中にわたしはいると宣言されます。
私たちは今、礼拝をささげています。この時、この瞬間、この場にこそ、イエスさまが共にいてくださるということを、体中で感じ、受け取りたいと思います。
主が共にいてくださることに心を集中させながら、主の血と肉に与りましょう。
〔2008年9月7日 聖霊降臨後第17主日(A-18) 桑名エピファニー教会〕