7の70倍までも赦しなさい。

2008年09月14日
マタイ18:21〜35 「仏の顔も三度」という日本のことわざがあります。どんなに穏和にやさしい人でも、腹がたつようなことを3度もされれば怒り出すという意味です。  ある時、ペトロがイエスさまにたずねました。  「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」  日本のことわざでは「3度」ですが、それよりも多い「7回まで赦せばいいですか」と言いました。ユダヤでは、7という数字は完全数といって、すべてが完成するということの意味を持った数字でした。  ユダヤの言い習わしでは、「7度までは赦せ」と言われていたのかもしれません。  これに対して、イエスは言われました。 「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と。  これは、単に7の70倍で、490回 赦しなさいということではありません。これは、無限に、限りなく、完全に人を赦しなさいという意味になります。  イエスさまは、私たちに、「このように祈りなさい」と言って、「主の祈り」を教えられました。毎日、私たちは、この主の祈り唱えています。その中に、「わたしたちに対して罪のある者を赦していますから、私たちの罪も赦してください」と祈ります。私たちが、自分の犯した罪を神さまから赦していただくためには、「わたしたちに対して罪のある者を赦していますから」ということが前提になっています。そのような祈りなさいと教えられているのです。何気なく、当たり前のように祈っていますが、よく考えてみますと、実は大変なことを祈っていることに気付きます。「わたしはここのところは祈れません」と言って、主の祈りのここの所では、口を閉ざしてしまう信徒の人がいました。  「人を赦す」ということは、難しいことです。何か人を傷つけるようなことを言ったり、したりして、ごめん、ごめんと言ってあやまって赦してもらえるようなことは、ここでは問題にはならないと思います。  「このことだけは、絶対に赦せない、誰が何と言っても赦せない。いくらあやまってもらっても赦せない」というようなことがあります。  嘘をつかれたり、だまされたり、陥れられたり、侮辱されたり、信頼している人から裏切られたりすることがあります。その信頼が大きければ大きいほど、裏切られたという思いは大きく、赦すことができません。  そのように「絶対に赦せない」と思うようなことを、赦しなさいと、イエスさまは言われるのです。それも、一人の人に対して、1回だけではない、3回だけでもない、7回だけでもない。無限に、赦して、赦して、赦し続けよと言われるのです。  正直に言って、私たちは、そんなに言われても「赦せません」としか言いようがない時があります。頭では赦そうと思っても、わかっていても、気持ちが収まらないという時があります。「赦す」ということは、それは、ほんとうに難しいことです。  イエスさまは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:12,13)と言われました。「あなたの隣人を愛せよ」というのは、イエスの教えの中心です。そして、この愛するということと、赦すということは同じ意味を持っています。私たちが人を赦せないということは、ほんとうに人を愛せないということは同じなのではないでしょうか。  どんなに命じられても、教えられても、時と場合によっては、絶対に赦せないことをあると居直る私たちに、イエスは、さらに、一つの「たとえ話」を語られました。  ある王さまが、家来たちに貸した金の精算をしようとしました。決済し始めたところ、1万タラントンも借金しているひとりの家来が、王さまの前に連れて来られました。  1タラントンというのは当時のギリシャの通貨で、6000ドラクメ、この1ドラクメというのは、ローマの通貨1デナリオンと同じで、労働者の1日の賃金だったと言われます。そうしますと、1万タラントンは、6,000万デナリオン。これは一人の人の労働で計算しますと、1日も休みなしで164,384年間働かねば稼げない金額になります。  それを返しなさいと言われてすぐに返せるような金額ではありません。この家来は、返せませんと言ったので、王さまは、その家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。自分自身も妻も子どももみんな奴隷になって、土地も家も、家財道具も全部売って、そうしてでもこれを返済せよと王さまは言ったのです。 これを聞いて、家来は王さまの前にひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」「お助けください」としきりに願いました。この様子を見た王は、その家来を憐れに思って、その姿に同情して、彼を赦してやることにしました。その借金を帳消しにしてやりました。  ところが、この家来が、自分も家族も財産も失わなくてよかったと喜んで、ほっとして王さまの家から外に出て、道を歩いていると、自分に100デナリオンの借金をしている友だちに出会いました。すると、この家来は、その友だちを捕まえて首を絞め、「さあ、借金を返せ」「さあ、借金を返せ」と迫りました。この仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼みました。しかし、この家来の男は承知せず、その友だちを引っぱって行って、借金を返すまではと、牢に入れてしまいました。  このいきさつを見ていた仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、王さまの前に出て、あなたの家来がこんなことをしていますよと事件の顛末を残らず報告しました。これを聴いた王さまはその家来を呼びつけて言いました。  「不届きな奴だ。自分の借金を赦してくれ、「助けてくれ」と泣いて頼んだから、おまえの借金1万タラントン、6,000万デナリオン、16万4,384年も働いてやっと返せるような借金を全部帳消しにしてやったのではないか。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も友だちを憐れんでやるべきではなかったか。」  そして、王さまは、怒って、借金をすっかり返済するまではゆるすことができないと、この家来を牢役人に引き渡しました。  イエスさまは、このようなたとえをペテロに話して、 「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と言われました。  これは、わかりやすい「たとえ」です。王さまというのは、神さまのことです。この家来は、赦そうと思っても、赦せと言われても、赦せないと言っている私たちのことです。  1万タラントン、6,000万デナリオン、16万4,384年も働いてやっと返せるような借金とは、私たちが神さまに負っている借金、負債のことです。神さまと私たちの関係で、私たちが神の前に負っている罪、積もり積もった罪を、神さまへの負債として負っています。  生まれてこの方、私たちは、神の命令に背き、神のみ心に背き、神の怒りに触れるような生き方をしてきています。その罪は、その負債は、積もり積もって、莫大な量になります。最後に、裁きの時が来ます。決算の時が来ます。その罪の量は1万タラントン、6,000万ドラクメ、6,000万デナリオン、164,384年間働いても返せないような大変な借金になっています。私たちは、とうていそんな負債は返せません。神さまに、泣いて、取りすがって、ひれ伏して、赦してください、助けてくださいとお願いします。私たちに、何か良いところがあって、何かと引き替えに、この借金を棒引きにしてもらっているのではありません。 神さまが憐れに思って、神の憐れみのよって、その罪を、神の前に積み上げた借金を、全部帳消しにしていただいているのです。  神は、そのひとり子をこの世に与え、私たちの罪の代償として、本来ならば、私たち自身、私が、あの十字架につけられて苦しみ、命を取られるべきところを、神の御子、あの方が、私の、私たちの身代わりになって、命を与え、私たちを助けてくださったのです。私たち一人一人の1万タラントン、6,000万ドラクメ、6,000万デナリオン、164,384年間労働しなければ返せない罪を棒引きにしてくださるために、神さまは、最も愛する神のひとり子を、その命を代償として与えて下さっているのです。  私たちが、人を赦せない、絶対に赦せないといっている姿は、一方で、1万タラントン、6,000万デナリオン、164,384年間働いてやっと返せるような借金、莫大な罪を赦していただいていながら、道ばたで友だちに出会い、100デナリオン、100日間、3ヶ月余り働いて返せるぐらいの借金を思い出し、「さあ返せ、さあ返せ」と迫り、首を絞め、牢屋に入れてしまう、そういう姿と同じだというのです。  人の罪を責めている時には、絶対に赦せないと言っている時には、神さまとの関係、とてつもなく大きな負債、罪を赦していただいているそのことを忘れてしまっているのです。それでも、あなたは赦せないといいますかと、イエスは、私たちに尋ねられます。  ほんとうに人を愛する、ほんとうに人を赦す、ほんとうに心から人を受け入れるということは、とっても難しいことです。キリスト教の教えは、ただ、愛せよ、赦せ、と命じているだけではありません。  単に、道徳主義、人類愛、教訓を暗記して実行せよと言われているのでもないのです。  まず、神さまが、私たちを愛して下さっています。一方的な恵みとして、神さまの愛するひとり子の命を与えるという、かけがえのない命という犠牲を恵みとして与え、それほど、私たちを愛してくださっています。神さまは、これほどあなたを愛しているのだから、だからあなたも人を愛しなさいと言われるのです。  神さまが私たちを赦して下さっています。だからあなたも人を赦しなさいと言われるのです。神さまが、私たちを、こんな私たちをも受け入れてくださっています。だから、どんな人も受け入れなさいと言われるのです。  わたしたちは、赦せないと思う人を赦す側にあります。そして、同時に、とうてい赦してもらえない大変な罪を、人から赦してもらっている赦される側でもあるのです。もし、最後の審判というものがあって、神の前に帳尻を合わせる、どんな生き方をしたかと問われる時があったとすると、神さまの前でその時、私たちは何と答えるでしょうか。「あなたは、どれだけ人を赦すことができていますか」「あなたはどれほど人を愛するをできていますか」と、今、問われています。 〔2008年9月14日 聖霊降臨後第18主日(A-19) 下鴨キリスト教会〕