捨てた石が隅の親石となった。
2008年10月05日
マタイ21:33〜43
1 ぶどう園の主人と農夫のたとえ
今日の福音書は、先ほど読まれた旧約聖書、イザヤ書5章1節〜7節と読み比
べて見ると、さらに深い意味を読み取ることができます。
ぶどう園の所有者が、いたれりつくせりの施設を造って、土地を良く耕して、
良いぶどうを植えました。しかし、収穫の時期になってできたのは、酸っぱいぶ
どうでした。ぶどう園の所有者は、このぶどう園をどうするかと問います。イエ
スさまの話された「たとえ」とどのように違うでしょうか。
イエスさまが話されたたとえというのは、ぶどう園の所有者であるご主人から
ぶどう園を借りて収穫を得ている農夫が、収穫の時期になって、収穫したものを
支払うようにと言われ、これを拒否したという話です。
ぶどう園の所有者であるぶどう園の主人が、ぶどう園に必要なすべての施設や
設備を整えて、これを農民に貸し、旅に出かけて行きました。収穫の時が来たの
で、収穫を受け取るために、農夫たちのところへ僕たちを送りました。しかし、
農夫たちはこの僕たちを捕まえて、殺してしまいました。さらにぶどう園の主人
は、ほかの僕たちを前よりも大勢送りましたが、農夫たちは同じ目に遭わせて殺
してしまいました。
そこで最後に、この主人は『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、
自分の息子を送りました。ところが、この農夫たちは、その息子を見て言いまし
た。
『これは跡取り息子だ。ちょうどいい、殺してしまって、彼の相続財産をわれわ
れのものにしてしまおう』と言って、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出し
て殺してしまいました。
2 神に反逆するイスラエル
人は、神さまからお借りしたものを用いて、収穫を得ています。しかし、ある
時が来ると、その収穫の精算を求められる時が来ます。ところが神さまからお借
りして、神さまのために収穫をあげなければならないものを、その収穫したもの
全部を自分のものにしてしまおうとしました。自分のことしか考えない、自分た
ちの損得しか考えない人間の姿が、農夫たちを通して語られています。
このたとえは、神さまは、イスラエル民族を選び出して、彼らに特別の恵みを
与え、そしてその収穫を得ようしておられることがたとえられています。次々と
預言者たちを彼らに遣わされたというイスラエル民族の歴史を思い出させます。
神さまは、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ等、次々と預言者を北のイスラ
エルおよび南のユダの民に送りました。神さまの御心を知らせようとしました。
預言者たちは、彼らに罪の悔い改めを告げ、神のもとに帰ることを、神の命令に
従うことを求めました。
しかし、イスラエルの指導者たちは、逆にこの預言者たちを憎み、彼らに迫害
を加え、彼らを殺してしまいました。イスラエルの指導者たちは、明らかに真っ
向から神さまに逆らいました。神さまに反逆したのです。このようにぶどう園の
農夫たちの反逆は、当時のイスラエル民族の指導者たちの姿であり、彼らのどう
しようもない罪が指摘されています。
ぶどう園の主人は、農夫たちの反逆に対して、この事態を収拾するために、主
人の代理者として、父に代わって全権をもつ息子を送りました。「息子ならば自
分の代理人として敬ってくれるだろう」と考えました。ところが、農夫たちは、
その息子を見て相談しました。「これは跡取り息子だ。さあ、殺して、彼の相続
する財産を我々のものにしよう」と言って、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほう
り出して殺してしまいました。
預言者以上の使命をもって、神のひとり子イエス・キリストが遣わされました。
神さまに反逆、反抗するイスラエルの指導者たちを諭すために、神さまのみ心の
あるところを知らせるために、神さまから派遣されたのです。ところが人々は、
その神のみ子を殺してしまいました。イエス・キリストが殺されてしまったので
す。これに対する神の裁きが迫っていることがこのたとえの中に預言されていま
す。
農夫たちの反逆に対して、忍耐し続けるぶどう園の主人の姿は、神の忍耐を示
しています。次々と預言者を送り、これに対する農夫たちの残虐な仕打ちにかか
わらず、最後には最も愛するご自分の息子を派遣されたということは、人間の理
解をはるかに超えた「神の愛」「神の恵み」を感じさせます。
それまでは預言者たちを通して神のみ心がどこにあるかを示されました。預言
者たちは「神について」語り、それは神さま関係を間接的な関わりで話してきま
した。しかし、その息子は預言者とは違います。 神のひとり子が派遣されて、
神のみ心を語る、それは神さまご自身が語っておられることです。神さまが直接
的なみ心を表しておられるのです。
神さまは人と向い合って、直接問われます。「神からの恵みとして貸し与えら
れたものを、それを使ってどのような結果を出したのか。どのようにしてその結
果を神に返すのか」それとも「神から差し出された神の御手を断ち切るのか」、
どちらをとるかと問われているのです。
3 農夫たちをどうするだろうか。
イエスさまの話は続きます。このたとえを聞いている人たちというのは、エル
サレム神殿に仕える祭司長や祭司たち、民の長老たちでした。イエスさまは彼ら
に尋ねました。「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうす
るだろうか」と。
すると彼らは、「とんでもない農夫たちです。その悪人どもをひどい目に遭わ
せて殺し、そのぶどう園を取り上げて、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たち
に貸すにちがいない」と答えました。
第1に、このようなぶどう園を借りていて収穫を返さない、そして僕たちを殺
し、息子さえ殺してしまった農夫たちのことを悪人だと言いました。彼らには罰
を与えよ。滅ぼされて当然だと言いました。
そして、第2に、ぶどう園は、季節ごとにちゃんと収穫を納めるほかの農夫た
ちに貸すにちがいないと言いました。
このように答えたのは、エルサレム神殿に仕える祭司長や祭司たち、民の長
老たち、すなわちイスラエルの指導者たちでした。たとえ話の中の人のことにつ
いては、物事の善悪も大小もわかります。しかし、それが自分たちのことを言わ
れていることがわかりません。彼らは、結果的には、「十字架につけよ」と叫
んで、イエスさまに苦しみを与え、イエスさまを殺したのです。彼らこそ、ご主
人に逆らう「とんでもない悪人」そのものだったのです。
神さまは、イスラエル民族を選び、彼らを祝福し、彼らの子孫の繁栄を約束し、
彼らを通して、神の御心を全世界に表そうとされました。長い歴史の中で、その
ために彼らに教え、試練を与え、訓練してこられました。しかし、この民族、と
くにその指導者たちのしてきたことは、神への反抗、反逆の連続でした。神の忍
耐、神の恵みの奥深さには気づこうともしないそのような出来事を繰り返してき
ました。
4 ふさわしい実を結ぶ民に与える
「ちゃんと収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない 」という「ほかの
農夫たち」とは誰なのかは語られていません。
イスラエルの民は、神さまによって選ばれた民でした。イスラエルの民の方か
ら言いますと、彼らには強烈な選民意識、エリート意識は強烈にありました。
しかし、その中身は神のみ心とはほど遠いものでした。
「ほかの農夫たち」とは、イスラエル以外の人々、すなわち「異邦人」である
ことが暗示されます。イエスさまは「神の国はあなたたちから取り上げられ、そ
れにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」とはっきりと言われます。エリート
意識が強いイスラエルからすると、他民族、すなわち異邦人は、罪人であり、救
われるはずがない、滅びて当然とされる人たちでした。
さらに、イエスさまは、詩編の118編22節から引用して
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさった
ことで、わたしたちの目には不思議に見える」と語られました。
木が少ないこの地方では、その地域に採掘できる石で神殿や宮殿を造り、一般
の住宅も石で造られました。
「家を建てる者」とは、大工ではなく、石工といいます。切り出された石の中
から、石を選びます。石工は、大きさ、形、座りのいい石を選んで家を建ててい
きます。それ以外の石、選ばれなかった石は、脇に捨てられていきます。工事現
場には、そのような石がごろごろと転がっています。
何かの機会に、別の家を建てることになり、この一度捨てられ、脇に置き去り
にされたていた石が用いられることになりました。それどころか「隅の親石」と
なりました。それは、その建物のコーナーに置かれ、建物の基準となる、最も大
事な所に置かれる石です。 はじめの石工は、この石は使い物にならないと判断
しました。価値がない、値打ちがないと判断して、これを捨てました。
ところが、同じ石が、使いものにならないと脇に捨てられていたその石が、最
も大事な役割が与えられて用いられたのです。「これは主の御業」神さまがなさ
ることで、ほんとうに神さまは不思議なことをなさいます。選ぶのも神さま、捨
てるのも神さま、そうして、もう一度これを用いるのも神さまのみ心です。人間
の知恵では計ることのできない驚くべきことが起こったのだと、詩編は神さまを
たたえます。
5 隅の親石となった―新しいイスラエル
捨てられて脇に置かれていた石が、新しい役割、使命を持って選ばれ、役立て
られようとしているのです。
「古いイスラエル」に代わって「新しいイスラエル」が立てられました。
「これは主の御業」というこの御業は、イスラエルの12部族に代わって、
「別の農夫」、それは、イエスさまによって選ばれた12人の弟子たちによって
表される新しいグループ、共同体を指しています。 12人の弟子たちから教会
が始まりました。「新しいイスラエル」それは教会です。教会が新しく「隅のか
しら石」とされたのです。新しいイスラエルは、民族、血筋、血統の関わりなく、
ユダヤ人も居ましたが、ギリシャ人も、ローマ人もいました。それは、あの十字
架につけられたイエス・キリストを神の子と信じ、主と信じ、救い主であると告
白した者の群れでありました。それは、世界に広がるキリスト教会こそが、新し
いイスラエルとされたのです。
さて、現在の教会は、または、現代という時代にある教会は、新しく選ばれた
「隅のかしら石」として、使命を果たしているでしょうか。
神からお借りしているぶどう園を使って、収穫を上げ、その収穫をお返しし
ようとしているでしょうか。神に返すべき収穫を全部自分のものにして、一人占
めしていないでしょうか。
私たちにとって、返すべき収穫とは何でしょうか。
このたとえの中の農夫たちのように、神からのメッセージを、皆殺しにしてし
まい、もう一度その息子をも殺してしまおうとしていないでしょうか。
私たち自身、神に反逆する者になっていないでしょうか。反抗し、反逆し続け
るか、神の恵みによって差し出される御手にすがるか、どちらかをとるかと迫ら
れています。ほどほどとか、中間の答えはありません。
私たちの日常の生活の中で、教会生活のなかで、礼拝をささげる者として、答
えを出さなければなりません。
〔2008年10月5日 聖霊降臨後第21主日(A-22) 桑名エピファニー教会〕