神のものは神に返しなさい。
2008年10月19日
マタイ22:15〜22
1 ユダヤ人たちのわな
イエスさまの時代には、ユダヤ教の指導者たちには、いくつかの派閥がありました。
聖書の中でいちばんよく出てくるのは「ファリサイ派」という一派で、律法学者を中心に律法主義者の集団でした。文章に書かれた掟、文章になっていないものでも、昔の言い伝えなども律法とし、これを守ることに命をかけている信徒集団でした。
その次によく出てくるのが、「サドカイ派」といわれる一派で、神殿に仕える祭司たちの集団で、旧約聖書の最初の5つの書、これを「モーセ五書」と言いますが、これだけを律法として守り、復活を信じないという考えを持っていました。
また、「ヘロデ党」という一派がありました。ローマ皇帝にへつらうユダヤの王ヘロデ王朝を支え、ローマ皇帝やローマ軍の支配下にあることをよしとし、服従する態度を取っていました。
そして、「熱心党」と言われる一派がありました。「ゼロテ党」とも言われ、ユダヤ人がローマ帝国の支配のもとにあることをよしとせず、強い屈辱感を持ち、何かにつけてローマ総督やローマ兵に反抗的で最も過激な国粋主義者のグループでした。
このように、イエスさまの時代には、ユダヤ人たちは宗教的または政治的に対立し、いがみ合っていました。
ところが、このようにいがみ合っているそれぞれも、ある目的や自分たちの利益が共通になると、日頃のいがみ合いには目をつぶり、手を携えて協力するという日和見主義がその背景に漂っていました。
まず、ファリサイ派の人々は出かけて行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談していました。そして、自分たちが直接尋ねるのではなく、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスさまのところに行かせて尋ねさせました。
日頃、決して仲のよくないファリサイ派とヘロデ党が一緒になってイエスさまの所に来て言いました。
「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」
この言葉は、本心から出たものでないことがわかります。見え透いたお世辞というか、イエスさまを何とかして陥れようとする策略があって、丁寧な言葉を使い、敬意に満ちたいかにも尊敬しているような姿勢見せて近づいて来ます。イエスさまがどうしても答えずにはいらえないような持ちかけ方をしてきたのでした。
そして尋ねました。
「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
本来、ユダヤ人にとって税金というものはなく、神にささげるべきものでした。ところが、当時のイスラエルはローマ帝国の属領であって、ローマの支配のもとにありましたから、税金をローマ皇帝に納めなければなりませんでした。現に人頭税という税金が一人一人に課せられていました。14歳から65歳までの男性、12歳から65歳までの女性に、毎年1デナリオン(労働者1日分の給料)が課せられていたといわれます。
一方、ユダヤ人として民族内では、神殿税と呼ばれる律法があって、20歳以上の男子は神殿に登録され、「命の代償金」として銀半シュケル(2.8グラム)を神にささげるべき献納物としてささげねばならないと定められていた(出エジプト30:11〜16)。
このような二重の課税は常に生活を苦しめていましたし、異邦人、異教徒であるローマの皇帝に税金を納めるということはユダヤ人にとっては耐え難い大変な屈辱でした。
「皇帝に税金を納めてよいのでしょうか」という問いは、もし「納めてもよい」と答えると、熱心党とそれに同調している民衆は黙っていません。異教の王である皇帝は、ローマでは神のようにあがめられ、偶像崇拝をしている異教徒です。これに税を納めるなどということは、律法に反するとんでもないことだということになります。
「皇帝に税金を納めなくてもよいとか、納めてはならない」と言えば、ローマに税を納めているファリサイ派やヘロデ党は、イエスさまをローマに対する反逆者、反抗している扇動者として、ローマの役人に訴えるでしょう。
どちらに答えても必ず彼らの思う壺にはめられてしまう意地の悪い質問でした。
2 イエスの答え
イエスさまは彼らの心の奥に潜んでいる偽善を鋭く見抜きました。イエスさまは彼らの悪意に気づいて言われた。
「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」
彼らは持っていたデナリオン銀貨を差し出しました。
すると、イエスさまは、その銀貨に刻まれている像を指して、
「これは、だれの肖像とだれの銘か」と言われた。
彼らは、「皇帝のものです」と答えました。
すると、イエスは、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。
イエスさまの時代には、ユダヤでは、いろいろな国の貨幣が出回っていました。ギリシャの銀貨、ローマの銀貨や銅貨、ペルシャの銀貨などが入り乱れて使われていました。
ここで差し出されたデナリオンは、ローマの銀貨で、野外で働く労働者の1日分に匹敵する金額でした。
このデナリオン銀貨のおもてには、皇帝ティベリウスの像が刻まれていて、「崇高なる皇帝ティベリウス、神聖なるアウグストゥスの子」という銘が記されていました。さらにその裏には神の座に座るティベリウスの母の像と「大祭司」の銘がありました。
イエスさまは、渡されたデナリオン銀貨を見せながら、「これは誰の肖像か」「何と刻まれているか」訊かれますと、彼らは「皇帝のものです」と答えました。そこで、主イエスは「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。
3 皇帝が造ったものと神が造ったもの
「皇帝の肖像が刻印してあるものならば、皇帝が造ったもの。皇帝が命令して造らせたもの。当然、それは皇帝のものではないか。それだったら皇帝に返しなさい。それと同じように、神さまが造ったもの、神さまが命令して創造されたものは、神のものではないか。それなら当然神に返しなさい」という意味になります。
神さまは、天地を創造された方です。この地上のものはすべて神によって造られ、生まれさせ、存在させられているものです。すべてが神のものです。その中には、皇帝も皇帝の肖像が入ったデナリオン銀貨も全部入っています。皇帝さえもそれは神によって造られたものであり、神によって命が与えられ、また、その命が取り去られるべきものです。いわば神の刻印が押されている被造物の一つに過ぎないのです。
イエスさまは、デナリオン銀貨を皇帝に「納めなさい」とは言いませんでした。皇帝のものは皇帝に「返しなさい」と言われました。
イエスさまを陥れようとして万全の策略を練って近づき、どちらとも答えられないような質問をしましたが、その策略は見破られ、思わぬ答えが返ってきました。
「彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」と記されています。
4 真の創造者と被造物の関係
皇帝に税金を納めるべきか、神に献金を献げるべきかという問いは、単に政治と宗教は別だとか、政教分離などと言っているのではありません。
それは、神さまとローマの皇帝とを同じ次元に置いて、同じレベルで比較し、どちらが大事なのかと言っていることに問題があると指摘しておられるのです。
日本の国の歴史をふり返ってみますと、明治、大正、昭和と日本中に富国強兵、挙国一致が叫ばれ、戦時色が日増しに強くなり、すべてがお国のためとか天皇陛下のためと言った時代がありました。それ以外の価値観はすべて否定され、お国のため、天皇のために命を捨てる、個人の財産が奪われるというようなことも当然とされていました。
治安維持法とか国家総動員法とか、宗教団体法とかいう法律が次々と発布され、言論思想の自由は奪われ、多くの宗教団体が迫害をうけました。キリスト教もその例外ではなく、とくに西洋の宗教、敵国の宗教ということで、宣教師や牧師が憲兵や特高に尾行され、捕らえられ、監獄に入れられ、拷問を受けたり、獄死した人たちもいました。
そこで問われたことは、「お前たちが信じている神と天皇陛下とどちらが偉いのか」とか、「天皇とキリストとどちらを信じるのか」と問いつめられたと言われます。天皇は現人神と言われ、天皇よりも神を信じるとか、キリストを信じると言うと、非国民とか不敬罪とか言われて投獄されました。
その問いは、次元が違うとか、キリストと天皇を一緒にしないでくれと言っても、ほんとうの神を知らない、キリストを知らない、信じていない人にとっては、まったく通用しない言葉でした。
60数年前、ほんとうにそういうことがあったのです。
さて、私たちはどうでしょうか。私たちは神さまを信じています。キリスト・イエスを信じています。一生懸命信じようとしています。
しかし、毎日の生活の中で、神さまを、キリストを、私たちの次元に引きずり下ろしてしまって、自分と同じレベルで見てしまっているようなことはないでしょうか。
私たちのとって、神さまを信じるということは、命にかかわることです。私たちから信仰を奪われると生きていけない、信仰を捨てるよりも死を選びますと叫びながら殉教した人たちがたくさんいます。
ところが、私たちにとって、神さまを信じて生きるということは、どれほどの重さ、命にかかわっているでしょうか。
単に、身につけるアクセサリーのようになっていないでしょうか。十字架のついてネックレスや、十字架の模様た入った指輪や、ネクタイぐらいの程度で、簡単に取り外しができる、それがなくても痛くも痒くもない、それぐらいの程度で、信仰というものが終わっているようなことはないでしょうか。
神さまを崇め、神さまを賛美し、神さまに感謝することの大切さを、私たちの生活の目先の煩雑さ、忙しさが優先されてしまったり、そのために、忘れてしまったり、拒否してしまっていることはないでしょうか。神さま思いと、自分の欲望や野心とを同じ天秤にかけて上げたり下げたりしてしまっているようなことはないでしょうか。
すべてのものは神からいただいたもの、そしてすべてのものは神に帰する。私たち自分自身も神から出て神に返されるべきものなのです。「神のものは神に返しなさい」といわれるこの言葉の意味を、もういちどじっくりと受取り、考えてみたいと思います。
〔2008年10月19日 聖霊降臨後第23主日(A-24) 上野聖ヨハネ教会〕