仕える者になりなさい

2008年11月02日
マタイ23:1〜12 1.ファリサイ派の偽善を非難するイエス  私は、定年退職して家にいるものですから、家でテレビを観ることが多くなりました。そこで気がつくことなのですが、「ニュースショー」、「ワイドショー」番組が多いなあということです。朝からどの局もやっていますし、昼も、夜も、どこかで、どの局も同じような番組を放映しています。  現在の国際的なニュースから、国内の政治、経済の問題、世界的な株価の急落の問題、高齢者年金の問題、芸能人のスキャンダルから犯罪事件、どこかの町で起こった小さな事件にいたるまで、興味津々、面白可笑しく取り上げています。どのワイドショーも同じようなパターンで、実況中継やビデオを写し、学者さんや評論家が解説し、そして、コメンテーターと言われるタレントがわいわいと意見を述べるという形です。  日本中の人々が朝から晩までこれを見ているとすれば、ずいぶん影響されるだろうなあと思います。かつて、1960年頃、大宅壮一という評論家が、「ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されている」と言い「一億総白痴化」という言葉が一時流行語になったことがあります。  毎日、テレビを見ていて影響を受けていると、同じ情報、同じ意見を共有し、同じ価値観がぼんやりテレビを見ている人の頭に刷り込まれ、同じことを言い出します。自分でしっかりものを考えずに、それが自分の意見だと思い込んでしまいます。まさに「一億総白痴化」が起こっていると、私自身、自分もテレビを見ながらそのように感じます。  さて、福音書の中に出てくるファリサイ派、律法学者と言われる人たちですが、テレビのワイドショーに出てくる学者や評論家、そしてコメンテイターと言われる人たちと似ているような気がするのです。イエスさまの時代のファリサイ派、律法学者たちは、ユダヤ教の主流をなしている人たちで、彼らは、モーセの律法をはじめ、たくさんの掟や言い伝えを知っていて、自分たちはそれを守っているから正しいと主張し、一方では、律法、掟を守れない人を非難し、罪人であると決めつけている人たちでした。  現代にもファリサイ派、律法学者のような人がいっぱいいます。学識経験者で、常識人だと言われ、我こそは正しい、我こそは正義の味方というような顔をして他を非難します。  イエスさまは、このような律法学者、ファリサイ派の人々の態度や考え方を非難し、彼らとたびたび議論し、ある時には攻撃しました。  イエスさまは、その後、十字架につけられて殺されるわけですが、「十字架につけて殺せ」と言って、人々を扇動したのは、このファリサイ派、律法学者であり、祭司長や祭司たちでした。いわば、あまりにも厳しいイエスの非難、攻撃を受け、彼らの逆恨みを受けてしまったことになります。  私たちの頭の中にあるイエスさまは、愛の人であり、柔和な人、やさしい人、人のことを悪く言ったり、怒ったり、感情的になったりなさらない方というようなイメージがあります。皆さんもそのようなイエス像を描いておられるのではないでしょうか。しかし、聖書の中に見られるイエスさまは、この律法学者、ファリサイ派の人たちに対しては、やさしいとか、愛の人とか、柔和な人というイメージとは逆で、感情も露わに、怒り、非難し、ののしっておられるのです。  日頃、静かな、やさしい方が、ほんとうに感情も露わに怒っておられる姿は、これを見る人がびっくりするような迫力だったのではないでしょうか。  今日の福音書の個所は、その前哨戦のようなもので、これに続く13節以下では、彼らの行動の一つ一つを取り上げて、もろにののしっておらます。「律法学者たちとファリサイ派の人たち、あなたたち偽善者は不幸だ」と。  「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ」と、7回も繰り返されています。この「不幸だ」という言葉は、「わざわいだ」とも訳されています。この言葉を辞書で引いてみますと、「終末論的な救いから締め出されるという威嚇と裁きの意味を持った預言者的」な言葉であると記されています。このようなきつい言葉を使って、「お前たちは偽善者だ、わざわいだ」と言って、イエスさまは、このファリサイ派、律法学者を徹底的に攻撃しておられるのです。 2.ファリサイ派の偽善のいろいろなタイプ  イエスは、ここに、ファリサイ派や律法学者のいくつかのタイプを指摘しています。  「言うだけで実行しないファリサイ派や律法学者」  「人には重荷を負わせるがけれども、自分では指一本貸そうとしない」  「聖句が入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くする」  「上座、上席に座りたがる」  「先生とか、父とか、教師とか呼ばれたがる」等々、 見せかけの偽善者、傲慢な偽善者、自分の面子や体裁ばかりを気にする偽善者。怠慢で、計算高く、臆病で、自分を少しでも偉いと人に認めさせようと自分を誇示し、自分の評判ばかりを気にする。そのような神を畏れないファリサイ派、律法学者を、徹底的に非難しました。  「偽善者」(ヒポクリテース)とは、もともと、舞台で仮面をかぶって芝居をする役者のことを指した言葉でした。外から見たところでは、まったく宗教的な人物、信仰深い人物の役割を演じていて、内面では、ほんとうの宗教的な精神から遠いところにあって、神さまのみ心に反した生き方や考え方を持っている人のことをさします。意識的にそのように演じている場合もありますし、無意識のうちにそのような結果になっている場合もあります。  主イエスは、このようなファリサイ派や律法学者に対して、「偽善者である」と決めつけました。 3.神を畏れなくなったクリスチャン  さて、私たちは、クリスチャンとしてどうでしょうか。  誰も、自分で「偽善者」になろうとして、偽善者になっている者はいません。しかし、自分で気がつかない間にイエスさまが指摘されるようなファリサイ派、律法学者のようになってしまっていることはないでしょうか。  その一つに、神を畏れなくなってしまうということがあります。  現代という時代、社会全体が、さらに、個人的な生活を見ても、便利になり、快適になった生活の中では、多くの人たちは神など必要ないといって、神を畏れなくなりました。  目に見える物質文明、すべてが数字で表される効果主義、能率主義は、人の優しさや思いやり、ほんとうの愛を失い、人の心を押しつぶしてしまいます。目に見えないものの大切さを失ってしまいつつあります。神など必要がないと神を恐れなくなった結果は、今までにない殺伐とした、荒んだ心となり、人の命を尊ばない、自己中心の時代になっています。そして、目に見えない神を畏れない現象は、新たな偶像崇拝を生みだしてしまいます。  そのような現代社会、世界の流れにとっぷりとつかっている私たちもまた、神を畏れるほんとうの信仰を失ってしまいつつあります。  宗教的な生活、礼拝や教会生活に慣れることが、それは神との関係が、特別親しくなったように思い、慣れっこになって、神を畏れなくなってしまいます。ファリサイ派、律法学者の問題は、人にどう思われるか、人にどのように評価されるか、自分の利益や自分の欲望を満足させることが、まず第一であって、神のことを忘れているところにありました。  私たちは、見せかけのクリスチャン、面子や肩書きだけのクリスチャン、うわべだけのクリスチャンになっていないでしょうか。  人の目は、ごまかせても、神さまの目はごまかすことはできません。神は、一人一人の心の中をご存知の方です。黙っておられることをよいことに、神の御心に背き、神を無視し、神よ、神よと神の名を唱えるだけの、自分を正当化するためだけのクリスチャンになっていないでしょうか。  私たちの信仰、私たちのものを考える発想の出発点、私たちの生き方、価値観、立ち居振る舞い、そのすべてをふり返ったとき、ファリサイ派、律法学者のようになっていないでしょうか。イエスさまから偽善者だ、わざわいだと言われるような姿にはなっていないでしょうか。ほんとうに神を畏れる信仰をもって、神を仰いでいるでしょうか。 4.仕える者、へりくだる者となりなさい。  では、私たちが自分がファリサイ派、律法学者のようになっていないか、主イエスに、偽善者だ、わざわいだと言われないためには、どうすればいいのでしょうか。  主イエスは、上座に座り、上席に着こうとし、「先生」や「教師」や「父」と呼ばれたがっているファリサイ派の人たち、律法学者たちを横目で見ながら言われました。 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」  「仕える者」とは、奉仕する者、ご主人の僕となって働く者の姿を言います。たとえば、食事の席で、給仕をする人と給仕される人があります。その「給仕する人」になりなさいと言われるのです。  イエスさまの時代には、食事の席で給仕をするのは奴隷の仕事でした。当時の奴隷の姿というのは、ご主人に買われ、生かすも殺すもご主人次第、報酬も受けず、ご主人の命令されるままに言われたことをするのでした。ご主人が食事をする間、自分は食事をしないで、お世話をする、食事する人が気持ちよく食事ができるように心を配る。それが給仕する人のつとめでした。  一般的には、給仕する者より、給仕される者の方が、僕よりもご主人の方が偉いと考えらます。しかし、イエスさまが教えられる価値観は、まったく逆です。「仕える者になりなさい」「給仕する者になりなさい」と言われます。それは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」からなのです。  神を信じる者の、最も大事な姿勢は、へりくだる者となることです。  まず、第1に神さまの前に、へりくだる者であることが、神さまを信じる者となるための条件です。私たちは、神に対して「主よ」と言います。それは、奴隷制度があった時代の言葉でいう「ご主人さま」という意味です。これに対して、私たちは「僕」なのです。ご主人さまは、私たちの所有者であり支配者であり、命令者なのです。私たちはそのご主人さまの心を汲んで、そのみ心に従うのです。まずご主人さまが喜んでくださることをするのです。主である神に仕える者となることです。何よりも神を畏れる者であり、へりくだる者となることです。  第2に、神の前に謙遜である者、神を畏れる者は、人に対して始めて謙虚になることが出来ます。主イエスが「仕えなさい」と言っておられるでしょう、だからわたしに仕えなさいよ。わたしの奴隷になりなさいよというのではないのです。すべての人が仕える側なのです。「互いに仕え合いなさい」と言われるのです。  私たちが、ファリサイ派、律法学者のようにならないために、「偽善者的な信仰者」にならないために、だいじな物差しは、神と人々の前に、ほんとうに「仕える」者になり得ているか、「へりくだる者」になっているかどうかが、問われています。  今、イエスさまが、テレビをご覧になって、毎日放映されているワイドショーをご覧になると、何とおっしゃるでしょうか。 〔2008年11月2日 聖霊降臨後第25主日(A-26) 桑名エピファニー教会〕