花婿の宴席につく資格
2008年11月09日
マタイによる福音書25章1節〜13節
私たちが聖書を読む時、大切なことは、聖書が書かれた時代の背景すなわち人々の考え方や生活、習慣などを知ること、また聖書のそれぞれの個所がどのような前後関係の中で書かれているかを知る必要があります。
今、読みました今日の福音書には、イエスさまが語られた「10人のおとめ」のたとえというたとえ話が記されています。
当時の結婚式の様子をうかがうことができるのですが、ユダヤ社会の結婚のしきたりを通して、イエスさまは、終末の時を迎えるということについて大切なことを教えています。
多くの場合、たとえは「天国はこのようなものである」というかたちで語られています。これは、言いかえれば「神さまと私たちとの関係は、このようなものですよ」いう意味だと思います。
イエスさまの時代の結婚式は、夜に行われいました。まず、夕方になると、冠をかぶり、盛装で着飾った花婿が大勢の友人に取り巻かれて、たくさんの贈り物を持って、楽器を鳴らしながら花嫁の家に花嫁を迎えに行きます。そして、美しく着飾った花嫁が友だちに付き添われて花婿の実家に向かいます。
その行列は花婿とその友だちを先頭に、花嫁とその友だちが続きます。手に灯りを持ち、音楽あり、踊りありと賑やかにこの行列は進んで行きます。花婿の家では、この行列が到着するのを待ちうけるのですが、夜遅くなることもしばしばありました。
花婿の実家ではその道を照らすために灯りを持った乙女たちを途中まで迎えに行かせました。灯りをいっぱいともして花婿と花嫁の行列を迎え入れ、それから本格的な宴会が始まるのでした。イエスさまのこの「10人のおとめ」のたとえは、このような婚礼の場面の中から語られています。
10人のおとめが手に手に灯りを持って、花婿の行列が到着するのを迎えに行きました。10人の内、5人のおとめは、手に持った灯りの他に予備の油を入れた壺を持っていました。しかし、他の5人は予備の油を持っていませんでした。花婿たちの行列が遅くなってしまいましたので、迎えに出たおとめたちは途中で休んでいる間に、いつのまにか眠ってしまいました。
眠り込んでしまった時に、「花婿が着いたぞーっ、迎えに出なさい」という声が聞こえ、乙女たちはあわてて起きあがり、灯りを整えました。いずれも灯りも油が切れて消えそうになっていましたが、予備の油を持っている5人の乙女たちはすぐに補給することができました。
しかし、予備の油を持っていないおとめたちの灯りは消えてしまいそうになりました。そこで「油を分けてください。わたしのともし火は消えそうです」と頼みました。しかし、予備の油を持っていたおとめたちは「あなたに分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」と答えました。
予備の油を持たないおとめたちは、あわてて油を買いに行きました。
しかし、間に合いません。その間に花婿の行列が到着し、予備の油を用意していた5人のおとめたちは、灯りを灯して花婿たちの行列を迎え、無事に役目を果たすことができました。この5人のおとめたちは花婿たちと一緒に婚宴の部屋に入り、戸が閉められた。
その後で、予備の油を持っていなかったおとめたちは、帰って来て、花婿の家に行き、「御主人様、御主人様、開けてください」と言いましたが、ご主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えました。このようなたとえの話をした後、主イエスは「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言われました。
この「たとえ」が言おうとする問題点は、何なのでしょうか。
このたとえでは、「愚かなおとめ」と「賢いおとめ」と言って、はじめからはっきりと色分けされています。しかし、賢いおとめも愚かなおとめも同じようにみんな眠ってしまっています。おとめたちが眠ってしまったところに問題があるわけでもありません。
「花婿の来るのが遅れたので」とあり、遅れたのはたしかですが、ところがなぜ遅れたのかという遅れた理由については何も問題にされていません。遅れた理由よりも、花婿たちの行列が突然やってきた、この「突然やってきた」というところに重大な問題があるようです。
予備の油を持たない愚かな乙女たちが、「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」と頼みましたが、予備の油を持っていた賢いおとめたちは「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」と答えました。
何て冷たい、やさしくない、意地悪な答えでしょう。しかし、そのことが問題になっているようでもありません。その証拠に意地悪をした賢いおとめたちは皆、宴会の席に入っています。意地悪されたほうの愚かなおとめたちは、扉もあけてもらえないばかりでなく、ご主人から「わたしはお前たちを知らない」と無視されてしまいました。
このたとえが書かれた当時の、教会の背景について、少し考えてみたいと思います。聖書が書かれた時代の教会、初代教会の信徒が持っていた信仰の特徴の一つとして、「終末信仰」とか「終末思想」というものが非常に強く根付いていました。それは、世の終わりが近いという考え方でした。すでに後期のユダヤ教にその発端が見られるのですが、キリスト教の教会の中にも非常に強い緊張感をもって受け取られていました。神がこの世をお造りになった。初めがあるのだから世の終わりがあると信じ、それは、いつ、どのようにして現れるのかということが重大な問題でした。
そして、この終末の時には、キリストが再び現れるという再臨の信仰がありました。その「時」の到来は、いつなのかはわかりませんが、非常に緊迫した近い日を予定されていましたから、その日が来るのを待っていました。自然現象の中に転変地変が起こったり、戦争が起こったりするたびに、それは終末の時が来たのだと、右往左往する人たちもいました。しかし、そのような時はまだやって来ません。キリストが再び現れると信じても、なかなかその時が来ません。終末の時の到来が遅れているということに、いらだっている初代教会の信徒が意識された「たとえ」であるということが出来ます。
再び来られると信じられるキリストが、このたとえの中で花婿にたとえられ、花婿の到来が遅れていることにそのことが示されています。そして、今か今かとこの時を待つ人に2つのタイプあることが述べられています。それは予備の油の「準備」をしている人と、準備をしていない人の2つのタイプです。
初代教会の時代から現在にいたるまで、約2千年の年月が経っています。長い歴史の中に終末を思わせる出来事はいくつもありましたが、現在もなおこの世は続いていますし、終末の到来は、遅延したまま、今もまだ待ち続けている状態です。2千年という長い年月の経過のうちに、現代人の信仰は、初代教会の人々に信仰に比べて、終末信仰の緊張は薄れてしまっていることは確かです。しかし、その時は、明日かも知れませんし、1年後かも知れませんし、さらに何千年後かも知れません。
この世の終わりの時は、聖書がいうように、神のみがご存知であって、いつ、どのようにして来るのかということはわかりません。
しかし、一つ確かな終末があります。それは、私たち一人一人に、必ず終わりがあるということです。このようにして、考えたり、感じたりしている私たちには、必ず終わりというものがあるということです。私たち人間には死というものがあり、誰一人例外として死なない人はいません。人間の寿命というものは、現代の医学の発達などによって、ある程度延ばすことはできますが、それでも、その時はいつか来ます。そして、その時が、いつ、どのようにして来るのか誰にもわかりません。
決しておどかすつもりでも、脅迫するつもりでもありません。
一般的には、「自分の死」のことなど考えたくないと思っています。しかし、私たちに終わりがあるということは絶対に確かです。
そのために、あなたには「備え」はありますかと、問われています。
花婿の到来は同じように告げられます。しかし、その時に油がつきて、花婿を迎えられない人と、余裕をもってその時を迎えられる人の違いがここに示されています。
私たちが「その時」を迎えるためには、一人一人がそのことに立ち向かわねばなりません。隣りの人に油を分けてもらおうと思っても、断られるように、誰もその時になっては助けることが出来ません。
終わりの時にあわててお願いしても、過去のいきさつを述べてみても、泣き叫んでみても間に合いません。その時にあわてて油を買いに行っている間に、戸は閉められ、外に放り出されてしまいます。「わたしはあなたを知らない」と言われてしまいます。
では、どうすればいいのでしょうか。
「たとえ」が教えることは、前もって油の準備をしておきなさいということです。その時の来ることをつねに覚えて、心に用意をしておきなさい。すぐに立ち上がって花婿を迎えられるように備えなさいということです。それが、救い主である花婿のお祝いのテーブルにつく資格を得るということです。
イエスさまが私たちがと共にいる。イエスさまの食卓に与る。イエスさまのふところに抱かれる。それは、ちょうど赤ちゃんがお母さんのふところに抱かれて安心しきって眠っているように、イエスさまのふところに抱かれる安心を実感する資格を得たいのです。これこそが天国です。
私は、今、自分自身の終末について考えるということは、自分の終わりという壁に行き着いて、回れ右をして、そこから、今の自分、現在の在り方、生き方を考えてみることだと思います。そこには老いも若きもありません。神さまから与えられた人生を、ただ昨日の延長で今日があり、今日の延長で明日があるという時間の経過だけで終わってしまうのではなく、向こう側から、自分の終わりというところから、こちらを見る思いで自分を見てみること、神さまとの関係を見直すことが必要だと思います。
主イエスは最後に言われました。
「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
〔2008年11月9日 聖霊降臨後第26主日(A-27) 下鴨基督教会〕