神の約束に従って待ち望む信仰
2008年12月07日
ペトロの手紙3:8〜15a,18
教会の暦では、先週の日曜日から降臨節に入りました。降臨節とは、キリストが来られるのを待ち臨む期間です。クリスマスを迎え、神さまが、その愛するひとり子イエス・キリストをこの世にお与えになったことを感謝し、私たちとイエスさまとの出会いをもう一度確かめる時だと思います。
毎週の主日の聖餐式では、旧約聖書、新約聖書の中の使徒書、そして、同じく新約聖書から福音書が読まれますが、3年間で聖書全体が一通り読まれるようになっています。先主日から「B年」の聖書日課が読まれていますが、いつも、大体、福音書からお話してきましたので、今年は、出来るだけ「使徒書」をテキストにしてお話したいと思います。
この降臨節の聖書全体のテーマは、「主の日」を待ち臨め、その日は近い、だから、「目を覚ましていなさい」ということです。このことがくり返し述べられています。終末、再臨、審きというような言葉がよく出てきます。
今、読まれました今日の使徒書、「ペトロの手紙二」でも、そのことが強調されています。
ペトロの第二の手紙というのは、誰が書いたのかほんとうの著者はわかりません。この手紙の1章1節には、「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン(シモン)・ペトロから」という言葉で書き出されていて、イエスさまの12人の弟子たちの一人、ペトロが書いたとなっていますが、実は、ペトロの名を借りた別の人が書いたものと言わています。また、3章1節には、「愛する人たち、わたしはあなたがたに2度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。」と書いて、「ペトロの手紙一」の続き、2度目の手紙のように言っていますが、中味の思想がまったく違っていて、別の時代に、別の人によって書かれたものだということが分かっています。
この手紙の内容から見て、西暦100年から120年ごろに書かれたもので、ペトロが死んだ後だということがわかっています。
ということは、イエスさまが亡くなって、70年か80年が経っています。福音書では、イエスさまの教えの中で、「主の日は近い」「そ日、その時は突然やってくる」「その時には偽預言者が現れる」と言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」(マルコ13;5-8)
イエスさまは世の終わりを預言しておらます。そして、人々はその時は今か今かと緊張して待っているのですが、なかなかその時は来ない。初代教会では、そのような緊張感の中で、世の終わりと共にやってくるほんとうの救いというものを待ち望んでいました。
そのうちに、「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」(ペトロ二3:4)と言い出す者たちが現れました。これに対する反論が、今日の使徒書ペトロ二3:8〜13に述べられています。
「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」
1978年に米国オハイオ州コロンバスのレイプ救援センター で初めて開発・実施された運動に「The Child Assault Prevention (CAP) Project」(Child Assault(攻撃、暴力)、Prevention(防止)=子どもへの暴力防止プログラム)というものです。子どもたちに暴力が加えられ、さまざまな虐待を受けている、このような子どもたちへの暴力防止プログラム運動が進められています。ヨーロッパや中南米にも活動が広まり、日本にも1985年に紹介され、東京、大阪、広島、熊本など各地で、このプログラムが展開されています。
このプログラムの一つに、子どもたちへの人権意識を高めるということがあり、さらにその標語として「すべての子どもに、安心、自信、自由を!」という言葉があります。私は、CAPのこの言葉は分かりやすくっていいなあと思いました。
人権を守ろうとか、人権を侵害するとか、「人権」という言葉をよく耳にしますが、具体的にはどういうことかということについて、人が生きていくために、誰からも「安心、自信、自由」奪われてはならない、また奪ってはならないというのです。子どもだけではなく、すべての人が、生まれながらに持っている権利だということです。
若い人も、年寄りも、誰でもみんな、安心して生きていけること、自信をもって生きること、そして、自由にのびのびと生きていきたいと願っています。その反対に、安心できない、自信が持てない、自由がないということは、大変な不幸なことだということができます。
誰でも、より大きな安心を持つために、自信を持って生きるために、もっともっと自由な生活ができるように、努力しているのですが、現在の私たちが住んでいる社会では、これらのものを手に入れるための方法は、すべてお金によって、お金さえあれば得られると考えられています。
今、世界中は、100年に一度と言われる大不況に見舞われています。一つの国の出来事ではなく、世界中で、倒産や失業が相継ぎ、多くの人が困窮しています。すべてのものがお金で手に入る、お金さえあればすべてが解決すると信じて生活している中で、このような世界的な大不況が起こると、人間一人一人の安心も自信も自由も吹っ飛んでしまいます。仕事が亡くなり、収入がなくなり、住んでいる家も追い出されてしまいます。人が人として生きていくという基本的人権が情け容赦なく踏みつぶされてしまいますし、平和でもなくなってしまいます。
私は、このような時代にこそ、ほんとうの終末的信仰というものが大切なのではないかと思います。お金があれば、安心が手に入る、お金があれば自信が持てる、お金さえあれば何でも選ぶことができ、自由に生きることが出来ると思っている私たちに、それだけではない、
目に見えないところにあるほんとうの安心、ほんとうの自信、ほんとうの自由があることを、今こそ、知らなければならないのではないでしょうか。
ペトロ第二の手紙の著者は言います。(3:10〜15)
「主の日は、盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」
ほんとうの「安心」はどこにあるでしょうか。それは、イエス・キリストにあります。イエス・キリストにすべてをゆだね、すべてを任せきった時にこそ、ほんとうの安心があります。生きていることも、死んでからのことも、すべてを支配される神さまにゆだねきる安心があれば何も恐いものはありません。
ほんとうの「自信」はどこにあるでしょうか。それは、イエス・キリストにあります。神さまが私たちの後ろについていてくださる。全知全能であって、そして愛に満たされた方が、私たちの後ろについていて下さる。私たちと共にいてくださいます。私の能力や才能は、神さまが引き出してくれます。私の正しさは、神さまが裏付けしてくれます。これほど強い味方はありません。自信にあふれて生きていくことが出来ます。
ほんとうの「自由」はどこにあるでしょうか。私たちは、イエス・キリストによって、この世のすべてのものから解放され、罪の縄目から解き放たれています。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:32) イエス・キリストは真理です。イエス・キリストこそが私たちを自由にします。
パウロは、牢獄の中からフィリピの教会の人々に手紙を書いています。「さらに、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」(フィリピ2:17-18) パウロは、この手紙を牢獄の中で書き、牢獄の中からフィリピの教会におくりました。囚われの身でありながらもっとも不自由な中から、「わたしは喜んでいます」「喜びなさい」とくり返す述べています。このような心境になることができる「自由」というものがあるのです。
降臨節は、「目を覚ましていなさい」という言葉がくり返されています。それは、「心の眼を開きなさい」という意味です。さらに言いかえれば、「イエスさまから目を離すな」という意味です。
緊張をもって降臨節を送り、主のご生誕を迎える心の準備をしましょう。
〔2008年12月7日 降臨節第2主日(B年) 桑名エピファニー教会〕