いつも喜んでいなさい。

2008年12月14日
テサロニケの信徒への手紙一 5:16〜28  パウロは、西暦53年から55年頃、テサロニケの教会の人々に手紙を書きました。その中で、次のように言っています。  「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」(5:1-3)  当時の初代教会は、主の日が来るというその日を待ち臨む希望と、その時にはどんなことが起こるのだろうかという不安が入り交じって、異常な緊張感に包まれていました。  そこで、パウロは、このような時だからこそ、クリスチャンはどのように生きなければならないのかということを、手紙に書いて送ったのです。コリントの教会の信徒に宛てた手紙(5:6-9)では、  「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」と書き、生きていても、たとえ死ぬことがあっても、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と言います。  今日の使徒書、テサロニケの信徒への手紙一5章16節から18節に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と言い、それは具体的にどういうことかというと、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と、その答えを述べています。  今日は、その中で、とくに「いつも喜んでいなさい」という言葉について学びたいと思います。  パウロは、繰り返し、繰り返し「喜びなさい」と言います。フィリピの信徒への手紙では、  「あなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(2:17-18)と言い、  「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(4:4)と言います。  とくにこのフィリピの手紙というのは、「獄中書簡」と言われ、牢獄の中から書き送った手紙です。薄暗い地下の牢獄、じめじめとしたそして悪臭が漂う最も過酷な、最悪の環境の中で、囚われの身であって、その中から、「わたしは喜びます。あなたがたも喜びなさい」と言っているのです。  「喜ぶ」とはどういうことでしょうか。  喜ぶというのは、私たちの感情、すなわち喜怒哀楽の一つで、何か喜ぶような出来事やニュースがあって、喜ぶのであって、「喜びなさい」と言われて、「はい、喜びます」というようなものではないことはよくわかります。  「喜び」とか「幸福である」「ハッピーである」という気持ちは、極めて主観的なものです。百人いれば百通り、千人いれば千通りの違った価値観がありますし、感じ方があります。あくまでもその本人の主観的な価値観によって、本人が満ち足りていると感じている心理状態が「喜び」であり、「幸福」と感じるということだと思います。  人が外側から見て、幸福そうに見えても、本人の内面はそうでないことがあります。一定の決まった形や状態があるわけではありませんし、喜びや幸福感というものを数字で表すこともできません。また、人が外から見て、「喜ぶはずがない」「幸福ではない」と思っても、そう思うのはあくまで外から見ている人の主観であって、その状況を当人が幸福だと感じていれば、それはまさしく「喜びだ」「幸福である」ということができます。  人の欲望は、ある段階に達すればさらに高い段階を基準をおいて、それを達成したいと願うために、いつも焦燥感(あせり)と不安に駆られて「絶対的幸福というものは存在しない」ということもできます。ですから、どのような状況にあっても、自分自身の「心のありかた」が問題なのだということになり、意識的に選び取ることよって、自分で見出すものだということもできます。  オーストリアの精神科医で心理学者のヴィクトール・エミール・フランクル(1905年〜1997年)という有名な先生がおられます。ウィーン大学医学部精神科教授、ウィーン市立病院神経科部長を勤めておられました。第二次世界大戦中、ユダヤ人であるためにナチスによって強制収容所に送られました。この収容所で極限的な体験を経て生き残った方で、その体験を『夜と霧』という本に著し、世界的に有名になりました。  このヴィクトール・フランクルは、喜びを感じるとか、幸福感に満たされるということは、「何かの価値が実現された時」に起こってくる感覚だといいます。そして「人間が実現できる価値」のというものを、3つに分類しています。それは、創造価値、体験価値、態度価値だといいます。  「創造価値」とは、人間が行動したり何かを作ったりすることで実現される価値のことです。仕事をしたり、芸術作品を創作したりすることがこれに当たります。善や美を作り出す喜びを感じます。  「体験価値」とは、人間が何かを体験することで実現される価値をいいます。絵画や音楽など芸術を鑑賞したり、山に登ったり、美しい花を見たりして自然の美しさを体験する、美味しいものを食べる、あるいは人を愛したり愛されたりすることでこの価値は実現されます。  そして、最後の「態度価値」とは、人間が自分の運命(立場、境遇、状況)を受け止める態度によって実現される価値のことであると言います。病気や貧困やその他さまざまな苦痛によって、あれもしたいこれもしたいと思う活動の自由(すなわち創造価値)を奪われ、楽しみ(すなわち体験価値)が奪われたとしても、その運命を受け止められるか、受け止められないか、その態度を決める自由が人間に残されています。フランクルは、アウシュビッツの収容所で、人が極限の状況に置かれた時、そのような中にあっても、人間らしい誇りをもって、尊厳のある態度を取り続けた人がいたことを体験しました。フランクルは人間が最後まで実現しうる価値として態度価値というものがあることを重視しました。  創造価値の実現、または体験価値の実現というのは、一般的に言われる幸福な状態です。最後の態度価値は、一般的には幸福と言えないような悲惨な状態のなかでも実現できる価値であり、「いわゆる幸福そうに見える幸福」だけが人間にとっての価値ではないことを意味しています。  ポーランドの小説家ヘンリク・シェンキェヴィチ の「クオ・ヴァディス」(1951年)という作品があります。  この小説の中に、ローマ皇帝ネロがキリスト教徒を迫害する場面が出てきます。ネロは、第5代のローマ皇帝となり、絶大な権力を手にするのですが、猜疑心が強く、実の母も妻も、元老院の議員や最も親しい友人も殺してしまうという暴君でありました。贅沢三昧の生活をし、陰謀と圧政によって、人々を苦しめます。とくに、自分の趣味でローマの都市計画を思い立ち、西暦64年、ローマの街全体に火をつけさせて焼いてしまいます。そして、ローマ市民の非難をかわすために、火をつけたのは、キリスト教徒だというデマを流させます。  このために、大勢のクリスチャンが捕らえられ、牢屋に入れられ、虐殺されました。毎日、クリスチャンを競技場に引き出し、火あぶりにして殺したり、剣をもって戦わせたり、ライオンに噛み殺させたり残虐のかぎりをつくします。  これを当時のローマ市民に見物させ、皇帝の人気を得ようとしました。ところが、そこで死んでいくクリスチャンたちは、神を賛美し、キリストのみ名をたたえ、顔を天に向けてほほえみながら死んでいきました。次から次へと、一塊になって引っぱり出されるクリスチャンは、喜びに満たされて、神を賛美する歌を歌いながら息を引き取っていきます。  ローマ市民は、観客であある群衆は、はじめは囃し立て、足を踏みならして喜んでいたのですが、次第に、声をひそめ、そして、皇帝に向かって、彼らの命乞いをし、皇帝に対する非難の声に変わっていきました。  私は、若い頃、岩波文庫でこの小説を読み、1951に映画化された映画を観たのですが、その映画の最後のところで、皇帝ネロが、悪夢にうなされ、何をしても心が晴れないで、苦しみ、もだえ、眠れません。眠れないままに、キリスト教徒がもっと苦しみ、神を恨み、キリストと言われたあの男を憎んで死んでいるその顔を見れば、少しは、自分の気分も晴れるだろうと、夜中に、松明を持って、競技場に出かけていきました。そこに、累々と投げ出されている殺されたクリスチャンの顔をのぞき見ると、男も女も、年寄りも若者も、みんなほほえみを浮かべながら死んでいるのです。  自室に帰った皇帝ネロは、自分の髪の毛を掻きむしりながら、ますます苦しみます。そして、最後には、誰からも見捨てられ、裏切られて、失意の中で、奴隷の一人に手伝ってもらって自殺してしまいます。    この話は、小説であり、映画の場面ですが、西暦68年のローマの大火は歴史的事実ですし、その後に起こった、悲惨なそして大勢のキリスト教徒が殺された大迫害も歴史に残る事件として知られています。  キリスト教の2000年の歴史の中には、世界中でこのような迫害がくり返され、証しされ、受け継がれて今日に至っています。そして、キリストの名によって、捕らえられ、殺され、いわゆる殉教の死を遂げた有名な人、無名の人の数は数えきれません。  その信仰のゆえに、苦しみを受け、その運命をすすんで受け止めて、なおかつ、神を賛美し、感謝し、喜びに満たされて生涯を終えた人たちが大勢います。  現在のこの時代に、とくに日本というこの国に生きている私たちは、初代教会の迫害時代に受けた殉教者のような、また、日本のキリシタン時代の迫害のような、劇的な悲壮な出来事はないかもしてませんが、しかし、比較的平和な生活の中で平凡な生き方、死に方をするにしても、それぞれに背負わなければならない「運命」というものはあると思います。病気と向かい合う、さまざまな人間関係と向かい合う、経済問題、貧困、現代社会の嵐や荒波をもろに受けなければならないこともあります。そして、何よりも、大きな問題は、一人一人、自分の死に向かい合わなければなりません。  フランクルの言葉をもう一度思い出しますと、創造価値と、体験価値の実現だけがほんとうの幸せ、喜びではありません。最後の運命を受け止めることができる「態度価値」の実現こそが、ほんとうの「喜び」「幸せ」なのだと思います。神に目を向ける、イエス・キリストから目をそらさない、そこに本当の平和、平安がある、安心がある、そこに何にも勝る、他のなにものにも比べられない価値がある、その価値の実現こそが、私たちの、信仰者の「喜び」だということができます。 「わたしたちはいつも心強いのですが、しかし、肉体を住みかとしているかぎり、神さまから離れたり、イエスさまから目をそらしてしまうこともあります。そのことはよくわかっているのです。しかし、わたしたちは、目に見えるものに頼るのではなく、信仰によって歩んでいるのです。だから、わたしたちは、心強いのです。そして、いずれわたしたちは肉体を離れて、主のもとに住むものであるという希望を持っています。だから、肉体を住みかとしている時にも、肉体を離れる時にも、ひたすら神さまに喜ばれる者でありたいのです。」  そのためにどうすればいいのでしょうか。 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」  私たちは、間もなく、クリスマスを迎えます。心の準備をしましょう。ひたすら神さまに喜ばれる者でありたい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 〔2008年12月14日 降臨節第3主日(B) 下鴨基督教会〕