宿屋には彼らの泊まる場所がなかった。

2008年12月21日
ルカによる福音書2:1〜20  クリスマスおめでとうございあます。主のご降誕の恵みを心から感謝し、ご一緒にお祝いいたしましょう。 クリスマスは、イースターとならんで最もだいじなキリスト教の祝祭日です。お祭りです。イエスさまの誕生を記念し、イエスさまによって与えられた神さまの恵みを感謝する日です。  私たちにも誕生日があります。子供でも大人でも、自分の誕生日には、独特の不思議な思いを持ちます。自分の歩んできた半生をふり返り、お母さんに「私を産んでくれて有難う」と感謝したり、人々との出会いについて考えたり、愛を感じたりします。誕生日を祝ってもらう人にとっては、少なくともその日だけは、スポットライトが当たる中心人物になり、人々から「おめでとう」と言ってもらえます。  クリスマスは、イエスさまのお誕生日ですが、イエスさまが主人公で、イエスさまにおめでとうをいう日だと思うのですが、今、世界中にクリスマス・ムードが広がっていますが、そこに、イエスさまはおられるでしょうか。  先日、ある人にクリスマス・カードを出したいと思って、京都のデパートへ買いに行きました。クリスマス・カードの特設売場があって、たくさんのカードが並んでいました。年々豪華に、きらびやかになっていて値段もずいぶん高いものまでピンからキリまであいました。カードから音楽が聞こえてくるもの、いい香りがただようもの、開くと立体的な絵が飛び出してくるもの、キラキラ輝く電飾つきのもの、ほんとうにいろいろな種類のものがありました。  ところが、気が付いたのですが、イエスさまの像がどこにもないのです。クリスマスツリーやサンタクロースの絵はありますが、馬小屋の絵は1枚もありません。雪景色の絵はありますが、マリアさんの絵はありません。美味しそうなケーキやリボンで飾られたプレゼントの絵はありますが、3人の博士や羊飼いの絵はありません。犬の絵やネコの絵などかわいいペットの絵や写真が並んでいますが、らくだや羊が映った写真も絵もありません。メリー・クリスマスという文字は使っていますが、主人公のイエスさまがいない、イエスさまの誕生日ですのにイエスさまの陰も形もないお祭り、これが日本のクリスマスなのだなあと、しみじみ感じました。    新約聖書に、「クリスマス物語」といわれる聖書の個所があります。4つの福音書の中のマタイとルカの福音書にだけ、イエスさまの誕生物語が記されています。マルコとヨハネは、具体的な誕生物語については何も書かれていません。  このマタイとマルコにあるイエスさまの誕生にまつわる記事をまとめて一つの物語とし、これをクリスマス物語と言っています。日曜学校、幼稚園、保育園などで、クリスマスの聖劇、クリスマス・ページェントと呼ばれ、上演されています。    旧約聖書の中で、預言者は、神は、救い主をこの世に遣わす、神のひとり子がこの世に与えられると預言し、人々は、救い主が現れるのを待ち望んでいました。その預言が成就しました。いよいよ実現したのです。その方は、神の子であって、私たちと同じ肉体をとり「人」となってこの世に来られたのだというのが、クリスマス物語の内容です。  「この方は、ナザレのイエスと呼ばれ、神の独り子、私たちの主であり、キリスト、救い主です。この方は、聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトがローマの総督であった時、苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目によみがえりました。私たちは、この方こそ神の子であるということを信じます」という、信仰告白を物語にしたものがクリスマス物語だということができます。  ユダヤのベツレヘム、馬小屋で産まれ、飼い葉桶に寝かされている幼子が、30年後に、どのような生き方をし、どのような死に方をしたか、イエスさまという方の宣教活動、苦難を受け、十字架につけられて死に、そして復活された、そのご生涯とつながって初めて私たちは、この方こそ、神の子、救い主ですと告白することができます。  さて、クリスマス物語の内容について触れたいと思います。  ダビデ家の血統を引く人でヨセフという人がいました。この人にはナザレの人でマリアという許嫁がいました。この頃、ローマの皇帝から、人口調査をするために、それぞれ故郷に帰って登録せよという命令が出されました。ヨセフはベツレヘムの出身でしたので、許嫁のマリアと共に、故郷に帰らねばなりませんでした。  この時、マリアは、お腹に赤ちゃんを身ごもっていました。マリアがナザレに居るとき、不思議な体験をしました。ある時、天使ガブリエルが現れて、「聖霊があなたに降り、あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名付けなさい」と告げられたのです。 マリアは、びっくりしましたが、「お言葉どおり、この身になりますように」と言って、その言葉を受け入れました。ヨセフもいろいろ悩みましたが、そのことを受け入れました。  ヨセフとマリアがベツレヘムに来た時には、マリアは月が満ちていました。ところが、ベツレヘムの宿屋は、どこも人口調査の登録のために故郷に帰って来た人々であふれていて、マリヤとヨセフが泊めてもらえる部屋はありません。一軒の宿屋の馬小屋に泊めてもらい、そこで、マリアは男の子を産みました。そしてその子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。その幼子はイエスと名付けられました。  イスラエルの人々は救い主が現れることを待ち望んでいました。誰もかれも首を長くして救い主の到来を待ちわびていました。  ところが、このイスラエルの人々に、いよいよ救い主が生まれる、救い主が現れたという重大ニュースは、誰に報されたのでしょうか。  我こそは律法の専門家だ、律法を守っていて正しいと思っている律法学者たちにでしょうか。祭壇にいけにえを献げ、礼拝を守っている祭司長、祭司たちだったのでしょうか。地位と権力を持つ王様にだったのでしょうか。ところが、律法学者たちや、祭司たちや、王さまにではありませんでした。反対に、宗教家、学者、政治家、彼らには、この重大ニュースは隠されていたのです。  それでは、誰に、この重大ニュースが報されたのでしょうか。  2組のグループに、このことが報されました。それは、東の方の国の占星術の学者たちのグループ(マタイ2:1-12)と、荒れ野で野宿して羊の番をしている羊飼いたちでした。  なぜ、彼らにだけ報されたのでしょうか?  東の国とは、ペルシャ、現在のイランにあたると言われています。ユダヤの国から見ると、それは異邦人の国、異教徒の国です。その国の占星術の学者たちが、夜中に星の観察をしていて、特別の星を見つけました。その星は、星占いによると、ユダヤの国に救い主が生まれる。ユダヤの王が生まれるということを示していました。彼らはこの星に導かれてはるばるユダヤの国のエルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねました。ヘロデ王は、自分の地位を脅かすような者が、そんな者が生まれたと聞いて不安を感じました。そして、ひそかにその幼子を殺そうとしました。東方から来た占星術の学者たちは星に導かれて、馬小屋を探しだし、そこに寝かされている幼子を拝み、黄金、乳香、没薬を献げて、自分の国に帰って行きました。  重大なニュースを報されたもう一つのグループは、荒れ野で野宿して羊の番をしている羊飼いたちの群れでした。夜、荒れ野で寝ずの番をして羊を見守っている羊飼いたちの所に、突然、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたのです。彼らは非常に恐れました。天使は言いました。「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 天使たちが離れて天に去った後、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合い、そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことが夢でなかったことを知り、そのことを人々に知らせました。  荒れ野で野宿して羊の番をする羊飼いというのは、羊を所有する羊飼いもいましたが、雇われ羊飼いも多くいました。彼らは貧しく、ユダヤ人の社会では、最も下層の労働者でした。ユダヤ人たちは律法を知らない、律法を守らない人々を「アム・ハアレツ」(地の民)と呼んでいました。このような貧しく、教養も地位もない羊飼いたちの所の天使が現れ、「救い主がお生まれになった」と告げたのです。これを聞いた彼らも「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言ってすぐに立ち上がり、馬小屋の飼い葉桶に寝かされている幼子を拝み、神をあがめ賛美しながら帰って行きました。  救い主が生まれるというニュースが報され、これを受けることが出来る人というのは、どんなの条件が必要だったのでしょうか。律法学者たち、祭司たち、長老たちでもなければ、王様でもなかったです。それとは逆に、ユダヤ人から罪人と呼ばれている異邦人であり、異教徒であり、そして貧しく、教養も地位もない下層の労働者だったのです。   それは、マリアは後に、「マリアの賛歌」を謳いました。  「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださいました。   主は思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、 身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、   富める者を空腹のまま追い返されます。」  地位や権力を持つ者、知恵や知識を振り回し、常識や古い習慣にとらわれている人には、それが邪魔になって、神さまのみ心、神さまが与えられようとする恵みを真っ直ぐに受け取ることが出来ません。  もう一つ、では、この東方からはるばるやってきた占星術の学者たちと羊飼いたちの二つのグループの共通点は何だったのでしょうか?  それは、両方とも、夜中に目を覚ましていた人たちでした。東の博士たちは、人々が寝静まっている間、高い所から夜通し目を見張って、星を観察していました。一晩中目を見開いて、天空を仰いでいました。  羊飼いたちも、夜、羊たちが眠っている間、オオカミや盗人から羊を守らなければなりません。やはり一晩中、目を見張って、暗闇を見つめていました。  両方とも、目を見開いて「見張り」をする人たちでした。  「主の日が来る。心の目を覚ましていなさい」と、繰り返し言われる、その言葉を象徴している姿が彼らの上にありました。  さて、クリスマスは、私たちにとって嬉しいお祭りの日です。そして、毎年、毎年、この日を迎えます。子どもの頃から、何となくお祭りというのは嬉しいものです。  新宮にも、毎年お祭りがありあます。お灯祭り、扇祭り、御舟祭りなど、有名なお祭りがあります。小さい頃から、お祭りというと何かどきどきするような嬉しい気持ちになります。  クリスマス、イースターと並んで、世界的な広がりを持つ「お祭り」ですが、嬉しくて、わくわくするような気持ちに加えて、もう一歩踏み込んで、私たちは、心の準備をして、この日を迎えたいと思います。  ほんとうのクリスマスを迎えることを、妨げているものは何でしょうか。クリスマスを心から喜びをもって祝うためには、私たちの心の状態がどのようになっていなければならないのでしょうか。クリスマス物語は、そのことを教えています。  17世紀のドイツの詩人、アンゲルス・シレシウスの詩を紹介します。 キリスト ベツレヘムに生れたもうこと   千度におよぶとも   キリスト 汝が心の内に生れたまわずば   魂は なお打ち捨てられてあり。   十字架のみ 汝をすこやかにせんに、   ゴルゴタの丘が十字架 汝が心の内に立てられずば   汝が魂は とこしえに失われてあり。  「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(ルカ2:7)  私たちの心に、イエスさまをお泊めする余地、場所はあるでしょうか。今年のクリスマスには、私たちの心がイエスさまをお泊めする馬小屋となることができますように、祈りましょう。 〔2008年12月21日 クリスマス礼拝 新宮聖公会〕