クリスマスは神さまとの出会いの時
2008年12月25日
ルカ2:1〜20
クリスマス、おめでとうございます。
主のご降誕を祝い、私たちに与えられた主のお恵みを心から感謝いたします。
1963年(昭和38年)ごろから流行した歌に、「こんいちは赤ちゃん」という歌がありました。永六輔の作詞で、中村八大が作曲したもので、梓みちよが歌っていました。
「こんにちは 赤ちゃん
あなたの笑顔
こんにちは 赤ちゃん
あなたの 泣き声
その小さな目 つぶらな瞳
はじめまして わたしがママよ」
約2000年昔、ユダヤのベツレヘムの一軒の宿屋の馬小屋で、飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんの顔をのぞき込みながら、多分、マリアさんとその許嫁のヨセフさんは不思議な思いで、この赤ちゃんの顔を見つめていました。「おぎゃー」と声を上げて、この世に生まれて来た赤ちゃんとお母さん出会いの瞬間です。その場面を言葉で表すと、「こんにちは、赤ちゃん、わたしがママよ」と自己紹介していることになります。この赤ちゃんは、イエスと名前をつけられました。
梓みちよの歌では、暖かい、明るい部屋で、赤ちゃんと対面しているお母さん様子が想像されますが、イエスさまが生まれたのは馬小屋でした。絵本や聖画に出てくる馬小屋は、明るく、美しく描かれていますが、実際の馬小屋は、動物の臭い、糞や尿の臭い、干し草の臭いなどが入り混じって、悪臭が立ちこめていて、真っ暗な闇の中に、馬や牛や羊や山羊が、もぞもぞとうごめいていています。そのような中での、マリアさん、ヨセフさんと、イエスさまとの出会いでした。
しばらく後に、東の方(ペルシャ)から、異邦人、異教徒である占星術の学者たちが、不思議な星に導かれてはるばるやってきて、馬小屋の飼い葉桶に寝かされている赤ちゃんを捜し当て、黄金、乳香、没薬を献げて、礼拝しました。この時、彼らもイエスさまに出会いました。
さらにしばらくして、荒れ野で野宿して羊の番をしていた羊飼いたちが、夜、羊の番をしていると天使が現れて、
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と告げられ、急いでやってきて、馬小屋の飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を見つけました。
この羊飼いたちもイエスさまに出会いました。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神さまをあがめ、神さまを賛美しながら帰って行きました。それだけでなく、羊飼いたちは、この光景を見て、この幼な子について天使が話してくれたことを人々に知らせました。それを聞いた人々は、羊飼いたちの話に不思議なことがあるものだ思いました。しかし、マリアさん、はこれらの出来事をすべて心に納めて、天使ガブリエルが現れて、「あなたは男の子を産むであろう」言われた、あの時のことなどを思い出しながらいろいろと思い巡らしていました。
このような出来事以来、イエスさまは、その生涯において、いったい何人ぐらいの人々に出会われたでしょうか。イエスさまは33歳の頃に十字架に付けられて亡くなりましたが、その間に、聖書に見るだけでも、数え切れない人々に出会われました。
イエスさまに出会って、すぐに立ち上がってすべてを捨てて従って行った人たち。
なんとなく、気になって、遠巻きながらついて歩いていた人たち。 イエスさまに病気を癒していただいて大喜びした人たち。
イエスさまが行う奇跡を見て、ただ驚いていた人たち。
大勢の群衆の中で、興味半分でイエスさまの話を聞き、すぐに忘れてしまった人たち。
イエスさまの話を聞いて、そんなばかばかしい話など聞いていられないと頭を振りながら去って行った人たち。
イエスさまに期待したけれど、何も起こらないので失望した人たち。
イエスさまを「十字架につけよ」と叫んだ人たち。
イエスさまが捕らえられ、鞭打たれ、苦しみを受けるのを見ていたいた人たち。
イエスさまの衣をはぎ、十字架を担がせ、十字架に懸けて人たち。
などなど、数え切れに人々がイエスさまに直接出会いました。しかし、すべての人がイエスさまに従ったわけではなく、反対したり、試そうとしたり、殺そうとしたり、そして、最後のにはイエスさまを殺してしまいました。
私にも、イエスさまとの出会いがあります。私は、先日、和歌山の老人施設ケアハウスに一人の老婦人を訪ねました。97歳の方で、大阪教区で婦人伝道師をなさっていました。30年も前に退職なさった方です。私が中学生の頃、近所に住んでおられ、私の家が貧しかったため、この方にいろいろ助けていただきました。
中学生だった私に、土曜日の午後、教会の掃除をするアルバイトの話を持ってきて下さり、教会の掃除に行きました。大阪聖ヨハネ教会という教会で、婦人の人たちと一緒に、半日、礼拝堂の掃除をして、毎回、そこの牧師さんから2百円と市電の切符を2枚もらって帰りました。当時(1949年(昭和24年)頃)、日雇い労働者への定額日給が240円で、日雇い労働者のことをニコヨンと呼んでいた時代ですから、中学生が土曜日の半日働いて200円もらえるのは有り難いアルバイトでした。そのうちに12月になって、クリスマスの礼拝や祝会があるんだが教会へ来ないかと、牧師さんに誘われ、日曜日に教会に行ったのが、初めての礼拝でした。それ以来、礼拝に出席したり、休んだりして、5,6年後、に洗礼を受けました。
その教会の牧師さんや婦人伝道師の先生には、家族ぐるみずいぶんお世話になりました。
今、ふり返ってみますと、その婦人伝道師に出会ったこと、その教会の牧師さんに出会ったこと、教会の信徒の方々に出会ったこと、その出会いが、イエスさまとの出会いとなり、今日の私があるのだと感謝せずにはいられません。
私たちは、直接、イエスさまと出会うことはできませんが、人と出会い、いろいろな出来事と出会い、そのことを通してイエスさまと出会うことが出来ます。
皆さんも、イエスさまとの出会いについては、それぞれに経験や思いをお持ちのことと思います。幼児洗礼の方もおられるでしょう。誰にも言えないような心の葛藤を経て、イエスさまに出会った人もいるでしょう。日曜学校、両親、学校の先生、教会でのお友達やいろいろな先生との出会いがあると思います。
人や出来事を介して、イエスさまに出会うということは、「出会い」ではありますが、単にイエスさまのことについて知っているというだけでは、ほんとうの出会いではないと思います。まだ出会っていないと言えるのではないでしょうか。
聖書の中に登場する人々も、数え切れないほど多くの人々がイエスさまに出会っていますが、ほんとうに出会った人たちは、何人ぐらいでしょうか。ごく限られたわずかの人たちしかいません。
わたしたちの人生を変えるような出会い。わたしたちがだいじだと思っている価値観ががらっと変わってしまうような出会い。この方のためならわたしのすべてを献げ、この方によって、わたしの体が全部支配されてしまっていいと思うような出会い。この方のためなら死んでもいいと思えるような出会い。これが、イエスさまとのほんとうの出会いなのです。
クリスマスは、イエスさまとの出会いの日です。イエスさまは、神の独り子です。イエスさまは、神さまです。そして、イエスさまは、救い主です。今日は、この方との出会いの日なのです。
神の子が、人類に出会うために来られたことを記念する日です。
荒れ野で野宿している羊飼たちの所に、天使が現れていいました。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
キリストが、ベツレヘムの馬小屋に、千回生れても、2千回生まれることがあっても、今日、キリストが、あなたの心の内にお生れになるのでなければ、あなたの魂は、なお救われないままです。失われたままです。
クリスマスは、キリスト・イエスが、世界中のすべての人々に出会うために来られた日です。そのことを記念する日です。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(第1ヨハネ4:9)
神さまが、与えて下さった大きな大きなこれ以上ない大きな恵み
に感謝し、神さまに賛美の声を上げましょう。
「クリスマス、おめでとうございます。」
〔2008年12月25日 降誕日 彦根聖愛教会〕