パウロの願い、私たちの祈り
2009年01月04日
エフェソ1:15-19
新年明けましておめでとうございます。2009年、平成21年という暦の新しい第一頁が始まりました。新年を迎えるというのは、人間が定めたしきたりの一つであって、12月31日の太陽も1月1日に昇る太陽も別に替わるわけではありませんし、天体の動きに変化があるわけでもありません。しかし、元旦の日の出は、とくに日本人は、「初日の出」と言って、多くの人々は高い山に登り、ビルの屋上に出て手を合わせたりします。
毎年、なにか清々しい気持ちになって、この日を迎えます。また、日本では、初詣という習慣があって、テレビを見ていましても、近所の人々の挨拶の中でも、若い人でも年取った人でも、誰でも当然そうするものだと決まっているかのように、「初詣はもう行きましたか」とか、「今年の初詣はどこへ行きましたか」というような言葉を交わします。
キリスト教の教会でも、日本ではとくに1月1日は、「主イエス命名の日」ですが、元旦礼拝とか新年礼拝を行う教会が多くあります。過ぎた1年を感謝し、新しい年に向かって思いを新たにし、神さまの導きとみ力が与えられるように祈ります。
さて、今日の主日の使徒書から学びたいと思います。
エフェソの信徒への手紙1章3節から6節と、15節から19節が読まれましたが、その中の、17節、18節、19節に注目したいと思います。
この個所には、「パウロの祈り」という見出しがついています。これは、パウロがエフェソの教会の信徒たちに書いた手紙の冒頭の部分で、手紙の書き出しの挨拶の言葉から始まり、神の恵みはキリストにおいて満ちあふれ、聖霊によって、わたしたちが神の御国を受け継ぐ保証として下さったことを感謝し、神の栄光を賛美します。
その後に続く、パウロの祈りがここに記されています。
「わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りのたびに、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています」と言い、このように祈っていますと言って、3つ願いと祈りを記しています。この祈りは、べつに新年の祈りではありませんが、新しい年の初めに、私たちの祈りとして、しっかりと心に留めたいと思います。
私たちがお祈りする時には、まず、自分や家族のこと、病気の人のこと、さまざまな問題を抱えている人のことなど、ただただ神さまに、お願いごと、要求ばっかりしているような気がするのですが、その祈りに比べますと、パウロの祈りは、私たちとはちょっと次元が違うような祈りがなされています。
パウロが、エフェソの教会の人々がこのようになってほしいと願い祈っているのですが、同時に、今、聖書を読む私たちに対して、このようになってほしいという祈りでもあります。
パウロが祈る第一の祈りは、17節、「どうか、父である神が、あなたがたに(すなわち私たちに)知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにしてください、そのために心の目を開いてくださいますように」と祈ります。「神さまを深く知る」ために「心の目を開いてください」と祈るのです。
神さまを深く知るとはどういうことでしょうか。
たとえば、私たちが誰か人を知るという時、いろいろな知り方があります。あの人の顔を知っている。名前を知っている。何処に住んでいるか知っている。何処に勤めている人か知っている。しかし、肉親、家族、学校時代の友達、親友、恋人と、その関係によって、知り方は違います。名前や住所や勤務先や学歴など知っているから、その人のすべてを知っていることにはなりません。恋人同士のように愛し合う関係では、心と心が結び合い、あなたのためならたとえ火の中、水の中というような関係になれば、その時には名前や学歴など吹っ飛んでしまいそのような形式的な知り方は意味がなくなります。そのような知り方もあります。
神さまを知るということも、単に机の上で本を読んで、神さまのことを知っているというような、頭で知る、単なる知識の問題ではなく、心で知る、ハートで知る、神さまから与えられる知恵でなければ神を知ることは出来ません。そのために、神の知恵と神からの啓示である神の霊を与えてください。それによって、神を深く知ることができるようにしてください、そのために私たちの心の目を開いてください。それは、私たちに対する願いでであり、私たちの祈りです。では、私たちの心の目を開いていただくために私たちにできることは何でしょうか。何よりも強くそのことを願い求める祈りと。私たちが謙虚になること、謙遜であること、そして神の前に服従するというです。
そして、パウロが祈る二番目の祈りは、18節「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」という祈りです。
私たちにとって、「希望」とは何でしょうか。希望とは、将来によいことを期待すること、または、ある事を成就させようと願い求めることです。子どもの頃、青年の頃は、「希望に燃えて」とか「夢と希望を持って」とかよく言われました。老人になりますとだんだんとその声がしぼんできて、「夢も希望もなくなった」などと言います。社会の中で、地位や名声を求め、人々から賞賛を浴びるようなこと、自分の欲望や野心を満たすことに夢中になります。希望に燃えて働いている姿があります。
しかし、そのいずれも年とともにしぼみ、廃れる時があります。ほんとうの希望とは何でしょうか。ここでパウロは言います。
「神さまの招きによって与えられる希望」というものがある。神の招きによって与えられる希望というものがあることを悟らせて下さいと祈ります。神の招きとは、神さまからのご招待を受けるということです。神の国への招待です。神さまが催される祝宴の席に着くことです。あなたの席が用意されていますと招かれる栄光に輝く席に着くことが出来るという希望です。そのような希望があることを悟らせて下さいと祈ります。
そして、三番目の祈りです。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(19節)と祈ります。「私たち信仰者に対して」それは、私たちです。信仰告白をし、洗礼を受け、日々祈り、神さまのみ心に従おうとしている私たちに対して、私たちの想像をはるかに越えた神の力が私たちに働きかけてくださっています。その力がどれほど大きなものであるか、悟らせて下さいというのです。
その力というのは、「神は、この力を、キリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれた」(20節、21節)、その力と同じ力が働いているのです。その神の力のいかに大きなものであるかを悟らせてくださいと祈ります。
「神さまが、知恵と啓示との霊を与えて下さり、神を深く知ることができるように、私たちの心の目を開いてくださいますように。」
「私たち一人一人に、神の招きによる希望が与えられていることを悟らせてくださいますように」
「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださいますように」
新しい年を迎えました。今年こそはと新たな思いをもって新たな気持ちでスタートを切られたことと思います。
また、私たちにとって、それぞれ、祈り求め、神さまの助けを願わなければならないことが一杯あります。
日々、押し寄せるさまざまな困難や問題を乗り切るためにも、ほんとうの信仰にしっかりと立たなければなりません。
どの祈りよりも先に、パウロが願う祈りを私たちの祈りとして祈り、みんなで励まし合いながら、この一年を歩みましょう。
〔2009年1月4日 降誕後第2主日(B年) 桑名エピファニー教会〕