聖霊が宿ってくださる神殿

2009年01月18日
コリントの信徒への手紙一 6:19〜20 「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」                             (コリント一 6:19〜20)  新しい自動車でも同じ自動車に10年以上乗り、走行距離が10万キロを越えますと、自動車自体が全体にがたがたしてきます。どこが故障という所がなくても、車全体のねじがゆるんでくるのかガタガタして、そのうちにあちこちに故障が出てきます。外観もあちこちに傷がつき、塗装もはげてきます。修理代にお金がかかったりします。  私は、70歳を越えて、毎日、元気に生活しているつもりなのですが、ときどき、ふっと、走行距離が多くなって、古くなってきたポンコツの自動車のことを思い出し、自分の体も、ぼちぼちポンコツだなあと思うことがあります。ちょっとでも具合の悪いところが見つかると、すぐに病院に行き、お医者さんに症状を訴えます。検査をしてもらいますと、血圧が高い、高脂血症値が高い、コレステロールがたまっていると云われ、いろいろな薬を出してくれます。あちらが痛い、こちらが痒いと言いますと、その度に薬が増え、薬をたくさん飲むと胃が荒れるといって、また薬が増え、朝晩いつも10錠ぐらいの薬を飲んでいます。  若い頃には、自分の体のことについて、全く関心もなく、ずいぶん無理をしたり、無茶なこともしてきました。暴飲暴食、睡眠不足をくりかえし、がむしゃらに走ってきたように思います。  しかし、長年使っていると、人間の体も、自動車や他の機械もののように、がたがきます。  本日の使徒書の中で、パウロは、  「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(19節) と言っています。  神殿とはどういうものか考えてみましょう。 神殿というのは、当時、エルサレムにあった神殿のことを言います。神の宮、神が住む所と云われます。日本の神社やお寺では、そこにご神体が安置してあるとか、ご本尊といわれる仏像が据えられているとか云いますが、ユダヤ教やイスラム教、キリスト教では、そのようなご神体や仏像のようなものはありません。偶像を造って拝むことは厳しく禁じられていますから、拝む対象である神さまそのものが居るところというわけではないのです。  エルサレムに立派な神殿が建造される前は、モーセは、シナイ山で神さまから受けた十戒が刻まれた石の板2枚を持って山から下りてきました。それを、「契約の箱」と呼ばれる箱に容れて、民族の移動の時には、これを先頭に掲げて進みました。夜、この契約の箱は、「聖なる幕屋(タバナクル)」「臨在の幕屋」と呼ばれる可動式聖所というべき大きな天幕に安置されていました。これは神が「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」(出25:8)と命じられたものでした。  その後、イスラエル民族はパレスチナ地方に定住し、時代の変遷を経て、ダビデの子、ソロモンの時代に初めて石造りの神殿が建てられました。この場所は、アブラハムがその子イサクを犠牲にしてささげようとした(創世記22:1〜18)場所、モリヤの地に建てられたと云われています。  最初の「ソロモンの神殿」は、7年の歳月をかけて紀元前950年に竣工しました。外庭、聖所、至聖所と分かれていました。  ところがこの神殿は紀元前587年に、バビロニアの王ネブカドネツァルによって破壊されてしまい、エルサレムの主だった人たちはバビロニアに捕囚として連れていかれ約50年間苦しい時期をを過ごしました。  その後、ペルシアのキュロス王によって解放され、帰国がゆるされました。捕囚から帰還したユダヤ人は、ゼルバベル王によって、神殿の復興が計画され、紀元前520年に着工し、4年を経て前516年に、「ゼルバベルの神殿」と呼ばれる「第二神殿」が奉献されました。この第二神殿の規模は、ソロモンの神殿よりも3割ほど大きいものでしたが、資材、造作などでは劣っていたと云われます。しかし、預言者ハガイはこの神殿のもたらす栄光に希望をかけ、捕囚から帰国した人々を大いに激励しました。(ハガイ2:1−9)。  紀元前168年、マケドニアのアンティオコス四世エピファネスのために、この第二神殿はまたまた破壊されましたが、紀元前165年、ユダヤ民族のマカバイ一族がめざましい働きを見せてエルサレムを奪い返しました。その後、イドマヤ出身のヘロデがユダヤの王となり、第二神殿を大改修し、増築しました。このヘロデ王というのは、イエスさまがお生まれになったとき、東方からやってきた占星術に学者に会った王であり、このヘロデ王の神殿は、神殿そのものの改築に1年、聖域の修理に8年かかったと云われています。ヨハネ2:20では「この神殿を建てるのに46年もかかった」とユダヤ人が言ったように,主イエスが生きておられた時にも工事が継続中であったと云われます。シオンの山にひときわ大きくそびえる大理石の大建造物、金銀で飾られた壮大で美しい建物でした。エルサレムの周辺のどこからでも見える神殿でした。  ユダヤ人たちが罪の償いのために牛や羊の犠牲をささげることは、このエルサレムの神殿でしかゆるされていませんでしたから、毎日、ユダヤの国内外から訪れる巡礼者で賑わっていたと云います。  神殿は、象徴的に、神が住まれる所、聖なる場所でありました。パウロは、このエルサレムの神殿を思い浮かべながら、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿です」 と云い、コリントの教会の一人一人の体は、神さまからの聖霊が宿っておられる神殿だと云いました。そして、「あなた方の体は、もはやあなたがた自分自身のものではないのです」と云います。  私たちは、自分の体は自分のものだから、だいじにしなければならないと思っています。自分の身体が、誰かから借りたもの、お借りしているものというように思ったことがあるでしょうか。パウロは、エルサレムの高い所にそびえている神殿に神が住みたもうように、あなたの体が聖霊を宿している、あなたの体が神の神殿になったのだというのです。  ここにパウロの身体観が示されています。「もはやあなたがた自分自身のものではないのです。それは何故かというと、あなたがたは、代価を払って買い取られているからなのです」というところにあります。  それは、生まれてから今にいたる私たちの身体は、さまざまな肉欲とよこしまな行動のために罪の中にありました。その結果は、私たちの体は滅びるばかりです。しかし、イエス・キリストは、私たちの罪のために、十字架に死に、その命をもって、私たちを贖ってくださいました。 それは、主イエスの命という身代金をもって私たちの命を買い取ってくださったのです。これによって、私たちを罪の滅びから救ってくださったのです。」  だから、私たちのこの身体は、イエス・キリストによって買い取られた身体です。もはや自分の体であって自分の体ではないのです。    私たちの体は、イエスさまからお借りしているのです。そして、イエスさまが清めてくださった神殿です。聖霊が宿られる神の宮です。  このように考えますと、お借りしているこの体は、だいじに使わなければなりません。自分の自動車だと思うと、少々無理をしたり、キズがついても、誰も怒らないわと思って、手荒く扱います。だが、人から預かっている自動車、お借りしている自動車だとすると、大事に、丁寧に扱うのではないでしょうか。  同じように、自分の体だと思うと、安心して乱暴に扱ったり、無理をさせたり、不摂生をしたりするのではないでしょうか。  よく、聞かれるのですが、「クリスチャンは自殺をしてはいけないんですか」と云われます。せっかく与えられた自分の命、かけがえのない命ですから、大切にしましょうと云うだけではなく、私たち、クリスチャンにとっては、また、全然違う別の意味があるのです。  それは、神さまによって、与えられた体、さらにイエスさまによって買い戻して頂いた体、神殿として聖霊が宿っている、この体を人間の意志で、自由に、勝手にできるものではないということです。  何のために私たちは、健康管理をしなければならないのか。それは、自分の体だから自分でだいじにしなければならないと云うだけではなく、神さまとの関係で、どのようにあるべきかを考えなければなりません。  ただ、体を保っているだけではなく、お預かりしている体をもって、神の栄光を現すためにこれを用いなさいと云います。    〔2009年1月18日 顕現後第2主日(B年) 上野聖ヨハネ教会〕