知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める

2009年02月01日
コリントの信徒への手紙一8:1〜13 「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」 (コリントの信徒への手紙一 8:2-3)  パウロは、コリントの教会の信徒宛てに何通かの手紙を書き送ったといわれます。その内の2通の手紙が、聖書の中に残されています。  今日の使徒書は、その中の一つ、コリントの信徒への手紙第一、8章が読まれました。パウロは、地中海沿岸の街を巡って、3回にわたる伝道旅行を行いました。パウロは、その第2回目の伝道旅行の時、ギリシャに行き、アテネからコリントに至りました。コリントでパウロは、アキラとプリスキラという信徒の家に滞在し、安息日ごとにその街にあるユダヤ人の会堂に出かけて行き、ユダヤ人やギリシャ人に福音を宣べ伝えました。(使徒言行録18:1〜4)  コリントの街は、ギリシア本土から南の方に延びるペロポネソス半島を結ぶ地峡の西南端にあって、ケンクレアイとレカイオンという港を持ち、地中海の東西貿易の中継地として重要な役割を果たし、経済、文化の中心都市として、当時最も繁栄した有力都市の一つでありました。  この街に、パウロは、福音の種を蒔き、キリスト教の教会の礎を築き、そして、しばらくここに滞在した後、アンティオキアからエフェソに伝道旅行を続けていきました。(使徒言行録18:18〜28)  その間に、追いかけるようにして、コリントの教会から手紙が届けられ、パウロが去った後で、教会においてさまざまな問題が起こっていることが報らされました。 (�汽灰螢鵐�1:11)  もともとユダヤ教の背景をもつユダヤ人キリスト教徒と、ギリシャの多神教の文化の中で過ごしてきたギリシャ人キリスト教徒の間のいざこざが絶えませんでした。また、ユダヤ人の中でも、まだユダヤ教の律法や習慣にこだわる人たちもいれば、律法から解放されたのだと言って自由に振る舞う人たちもいました。  これらの問題に答え、教えるためにパウロは、西暦55年頃、エフェソから返事の手紙を書いたのが、このコリントの信徒への手紙です。(使徒言行録20:31、�汽灰螢鵐�16:8)  今、読まれた使徒書、8章では、「偶像に供えられた肉を食べることについて」論争が起き、これに対してパウロが教えています。  当時、ギリシャの都市には、あちこちに神殿が設けられていて、そこには、ギリシャの神々の像が祀られていました。ギリシャの人々は、この神々に犠牲の動物や供え物を献げていました。そこで屠られて犠牲の動物は肉となり、祭司たちがその一部を取り、その他の大部分は、市場に放出されました。マーケットで売られている肉は多くは、神殿からのお下がりですし、神殿前には「神殿レストラン」ともいうべき食堂が数多く並んでいていたと言われます。そこで出される肉とか、マーケットで買ってくるものでも、一度は神殿に供えられた肉のお下がりでした。それを食べると汚れると考えて、一切肉が食べられない人たちがいます。  コリントの教会の中でも、偶像の神々に供えられたものに触れたりこれを口にする者は、汚れた者となる、罪を犯すことになると考えてこれを恐れている人たちがいました。  これに対して、世の中に偶像の神などという神はない。唯一の神以外にどんな神もいない言い切り、天や地に神々と呼ばれるものがいたとしても、われわれにとっては、父である神が唯一の神であり、すべてのものはこの神から出、われわれはこの神へ帰って行くのだ。そして、唯一の主、イエス・キリストがおられ、すべてのものはこの主によって存在し、われわれもこの主によって存在しているのだと確信して、きちんとその信仰を守っている人たちもいました。(4〜6節)偶像の神々も、唯一の父なる神から出たもの、造られたものの一つだというのです。  イエス・キリストを主であると告白し、唯一の父なる神への信仰をきちんと持っているゆえに、偶像の神々などというものは何の意味も力もない、だから異教の神殿に供えられた肉であろうと、その他の食べ物であろうと何の恐れもなく食べることができるのだと、「自由を誇っている人たち」がいました。パウロがいう「知識」というのは、そのような認識を持っているということでした。   このようなに自分たちは強いと言い張っている人たちに向かってパウロは言います。  しかし、そのような知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像について守ってきた習慣にとらわれて、肉を食べる時に、これは偶像に供えられた肉ではないかという思いが頭から取り去ることができず、信仰(良心)が弱いために「汚れる」と思い込んでいる人たちについてパウロは言います。  肉、すなわち食べ物そのものは中立であって、神さまとの関係では何の意味も持っていない。肉そのものが汚れているわけでもない。問題は、その人の信仰が弱いために、その人がそのことにこだわっているのだと言います。習慣にこだわっていることに問題がるのだと言います。汚れているというのは、罪とか汚れということよりも「その人のとらわれている姿」にあると言っています。  パウロは、さらに今度は、自分たちはよくわかっている、ちゃんとした信仰に立っていると思っている人たちに忠告します。  「あなたがたのその自由な態度が、弱い人々(信仰についてまだちゃんとした認識を持たない人たち)を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。つまずきにならないように気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神々の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見たとすると、その人はまだちゃんとわかっていないのに、信仰とはそんなものだと思って、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます」と。  強い者の知識が弱い者の滅びとなることに心を配りなさいというのです。  弱い人、すなわち、唯一の父である神と偶像の神々の区別がわからず、ちゃんとした信仰をまだ持てないでいる兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。このような弱い人たちが教会のお荷物だと思ったり、切り捨てたりすることはできません。その人たちのためにもキリストは死んでくださった兄弟なのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯したり、彼らの弱い信仰(良心)を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことになるのです。 そして、パウロは最後に、「それだから、わたしはいろいろなことを知っている、わかっている者ですが、もし、食物のことで、わたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」と言い、パウロは自己規制を表明しています。  パウロが言いたいことの結論は、冒頭の2節、3節にあります。  「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」 口語聖書では、「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」と訳されています。私たちの教会を支配する空気は、知識や正義や正論ではなく、「愛」であり、弱い者への心配りでなければならないことを学びたいと思います。  かつて、私がまだ若い頃に、あるプロテスタントの教会の牧師さんに、「聖公会はよろしいなあ、聖公会では、クリスチャンでも酒を飲んでも、煙草を吸ってもいいんですなあ」と言われたことがあります。  今でも、クリスチャンは酒も煙草もだめと厳しく禁じている教派があります。反対に、聖公会の教会では、かつては教会でも神学校でも、どこにでも灰皿があり、ちょっとした会食や研修会でも、ビールや酒が出るのは当たり前だと思われていました。教会委員会でも教区の会議でも会議中でも煙草を吸っていました。最近は、宗教や信仰に関係なく、健康のために禁煙が進められ、嫌煙権や分煙が当然となっています。  クリスチャンとしていかに生きるかということを考えると、いろいろな背景を持つ信徒がいますし、食生活、環境問題、温暖化問題、不景気、経済問題など、社会の流れや動きとの関係で、教会の中でもいろいろな議論が巻き起こります。真面目に真剣に信仰に生きようとすればするほど、議論が巻き起こり、波風も立ちます。  そのような時、パウロが言う「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」という言葉を思い出したいと思います。私たちの教会を支配する空気は、知識や正義や正論ではなく、「愛」であり、弱い者への心配りでなければならないことを学びたいと思います。 〔 2009年2月1日 顕現後第4主日(B) 桑名エピファニー教会〕