弱い人に対しては、弱い人のようになりました。

2009年02月08日
コリントの信徒への手紙一9:16〜23  「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るため です。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(9:22-23)  聖パウロは、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と言います。  パウロは、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ロマ14:7-8)と言います。  キリスト教という宗教の中心は、「イエス・キリスト」であり、これを信じる人の生き方は何かと言いますと、「私たちはつねにイエス・キリストと共にいる」ということです。パウロが言います。  「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と。  日本人の中である人たちは、宗教に熱中する人は恐い、宗教は恐いという人がいます。必ずしも、オカルト宗教や、新興宗教だけではなく、ほんとうに純粋に信仰に生きようとすれば、宗教を持たない人から見ると「恐い」と思われる一面は、このような教えから言われるものだと思います。  神さまは、すべての人々を救うために、その独り子を、この世に与えて下さいました。神さまは、このみ子を通して神さまの愛を示してくださいました。この方によって、私たちは、まことの神を知ります。この方を神の子であると信じて受け入れる者には、ほんとうの救いが与えられられます。このことを知らされること、このことこそが、すばらしいニュースです。これがキリスト教の福音とはそのことを言います。  パウロは、そのことがわかってもらえるためには、わたしはどんなことでもします。その人を得るために、どんなことでもできます。そのことによって、このすばらしいニュースを、わたしも共有することができる者となるからですと言います。  福音のためならどんなことでもします。パウロほど強い人はないと思います。しかし、そのパウロが、弱い人には、弱い人のようになると言い切ります。それはどう言うことでしょうか。  一つの例を挙げます。  戦後、よく使われるようになった言葉に「カウンセリング」という言葉があります。counsel 相談する、助言するという言葉から来ていて、いろいろな分野で使われていますが、心理学を土台として、人と人とが話し合うという方法で、心の問題や悩みについて、相談に乗って援助をするというような意味です。学校カウンセリング、職場カウンセリング、結婚カウンセリング等々、いろいろな分野で行われています。  教会関係でも、「牧会カウンセリング」という言葉があり、私は、かつて、「牧会カウンセリング研究会」という、超教派の牧師たちのグループで勉強したことがあります。とくに、最近は人間関係がうまくいかないとか、そういうことが原因で、鬱症状になって、会社へ行けない、学校へ行けないという人が増えています。はっきりと躁鬱病とか分裂症とか病名がつくような人は、専門の医師にかかり、治療が必要ですが、その手前の人、心に悩みを持つ人には、カウンセリングのために教会に通ってもらい、元気になるための援助、お手伝いをすることがあります。私も、多くの方々に出会い、いわゆる牧会カウンセリングをしてきました。  カウンセリングにはいろいろな技法、方法があるそうなのですが、その中でもいちばんよく知られる方法に、アメリカの臨床心理学者、カール・ロジャース(Carl Ransom Rogers 1902〜1987)という人が提唱したカウンセリング理論に基づく方法があります。  この方法は、「非指示的カウンセリング(nondirective therapy)」とか「来談者中心療法」とか云われるものですが、カウンセラー(援助者)は、クライアント(相談者)と向かい合って座って、1時間ほど話を聞くわけですが、最初から最後まで、一切何かを指示しないで聴くだけという方法です。「それはダメですねえ」とか「よくやりましたねえ」とか、相談者の相談の内容を批評したり、非難したり、お説教をしたり、自分の体験を語ったりしないのです。ただ、話を聴いて、「ええ」とか「そうなんですね」というような言葉で返します。時には、沈黙の時間が何十分も続くことがあります。  そして、カウンセラーは、クライアントの言葉、考え、感情、説明、そのすべてを受け入れること、「受容(accept)」することの努めます。それは、聴いて、ただ返事をするだけでなく、理解して受け入れ、そして共感(sympathy)するのです。多くの場合、1回や2回では終わらず、半年も1年も通って来られます。この方法をくり返して、しばらくすると、クライアントは気持ちが軽くなった、気持ちが明るくなったと言います。  それは、良い話や助言を聞いて元気になったとか、説教されてハッとしたというのではなく、ほんとうは、自分で気付き、自分で自分の前に立ちはだかる壁に穴をあけ、自分で外に出ようとするのでなければ、心の病いというものはよくなりません。カウンセラーは、そのことのために、援助する、手を貸すということだと思います。  人が心を患っている時、自分をほんとうに理解してくれる人、自分の思いに共感してくれる人が居ると、自分で自分の心を癒すことができるものだと思います。  パウロは、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」(22節)と言います。   強い人が、ほんとうに弱い人になるわけではないと思います。また、弱い人を装うのでもありません。単に口先だけで「わかった、わかった」というのでもありません。  病んでいる人、弱っている人、いろいろな問題に悩んでいる人に対して、あらゆる人間関係において共通だと思いますが、自分の立場で説得するのではなく、相手の身になる、まず聴いて、理解して、受け入れて、そして共感する、そのことが、大切なのだと言っているのです。  そのことは、言いかえれば、「愛する」ということです。ほんとうに人を愛するということは、その人を、そのありのままの姿で受け入れることです。愛するということは、その人を理解することです。それは赦すことであり、共感することです。そして、心から信頼することです。  そして、愛は人を立ち上がらせます。  なぜ、そのようにするのか。パウロには、はっきりとした目標があります。そのようにする理由があります。それは、  「何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(9:23)  ほんとうの救いは、キリストにあります。イエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストを理解し、イエス・キリストに共感し、イエス・キリストに信頼するところに、ほんとうの「救い」があります。それが福音であり、その福音に触れてもらうために、わたしはどんなことでもしますと、パウロは言います。 〔 2009年2月8日 顕現後第5主日(B) 下鴨基督教会 〕