競技をする人は皆、すべてに節制します

2009年02月15日
コリント一9:24〜27  「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るた めにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節 制するのです。」(第1コリント9:25)  昨年夏には中国でオリンピックが開催されました。このオリンピックは、いつ始まったかと言いますと、古代オリンピックと近代オリンピックに大きく分けることができます。  古代オリンピックは、ギリシャのオリュンピア(オリンピア)で、古代ギリシャの主神ゼウスにささげる祭典競技であったと云われます。その歴史は神話時代にまでさかのぼって古く、記録に残っている最初のオリュンピア競技は、紀元前776年に行われ、その後、4年に1度開かれ、西暦393年の第293回まで、1169年にわたって続けられました。  オリュンピアのゼウスの神殿の聖域の東側に隣接して競技場が設けられ、さらにその南側に競馬や戦車競争が行われる競馬場がありました。 競技場は長さ約200メートル、幅40メートルで、走路の長さは、192.27(185メートル)メートルでした。この長さを1スタディオンと云い、古代ギリシャの距離を測る尺度の単位でした。競技場、野球場のことを「スタジアム」と言いますが、その語源となっています。  この距離が徒競走の最短の距離で往復したり、2往復したりしました。オリュンピアの競技はすべて個人競技で、ボール競技や水泳競技はありませんでした。短距離、中距離、長距離、五種競技、レスリング、ボクシング、競馬、戦車競馬などが行われました。その競技に参加するのは男性だけで、すべての競技者は全裸で競技したと記されています。そして、競技の優勝者には、ゼウスの神木オリーブの枝で編んだ冠が与えられ、その彫像が聖域内に建てられました。  この1169年続いたオリンピック競技は、時代がギリシャ時代からローマ時代に移り、さらに、西暦313年にローマの皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認し、キリスト教をローマの国教とし、さらに392年には、テオドシウス1世が異教禁止令を出したため、翌年の393年、第293回が記録に残る最後となりました。  1896年、フランスのクーベルタン男爵の呼びかけにより、アテネで第1回近代オリンピックが始まるまで途切れてしまいました。    さて、今日の使徒書ですが、パウロは、西暦55年頃、アテネからコリントの教会の信徒に手紙を書きました。地図を見ますとコリントからオリンピアまで直線で100キロ程のところにあります。パウロは、オリンピアの競技を指していったのか、コリントスの海神ポセイドンを主神とするイストミア祭の祭典競技を思い描いて書いたのかわかりませんが、このような、競技場で競技する人たちのことを例に挙げながら、 「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」 さらに、 「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」 と言っています。  オリンピックの選手が、その競技に勝ち抜くために、日頃から、節制し、体を打ち叩いて訓練します。現在のオリンピック選手も口を揃えてみんな言います。 「良い成績を上げるため、優勝するためには、この苦しい節制、訓練は、最後には自分との戦いです」と。  このような競技に参加する選手のことを頭に描きながら、パウロは、自分自身の信仰生活、コリントの教会の人々の信仰生活、そして、今、信仰に生きている私たちに対して、何がだいじなのかを知りなさいと教えています。  スポーツ選手は、筋肉を鍛え、運動神経を鍛え、技術を身につけ、そして、競技を行うその日に最高のコンディションであるために節制をします。最後には、精神力、集中力を高めて、試合に臨みます。  私たちの信仰生活というのは、一時的に力を出すのでも、瞬間的な業を競うものでもありません。ある意味では、長い人生、生涯、緊張を保たねばなりませんし、また、ある意味では、リラックスして、すべてのことから解放されていなければならないという、難しい訓練と節制が求められます。  そこで、今日は、一つ、皆さんに提案したいと思います。  今日からでも、明日からでもいいのです、また、来週、2月25日から、大斎節に入りますから、その日からでもいいのですが、ちょっとだけ、決心をして、始めてみて頂きたいのです。  それは、祈祷書を使って、自分で、毎日、お祈りをすることです。  祈祷書の始めのほうに、「朝の祈り」というのがあります。その前にある「朝の礼拝」でもかまいません。そこのお祈りを、声を出して、するのです。司式者と書いた所も、会衆とか一同でと書いた所も、全部自分で唱えるのです。聖書を読む個所は、自分で決めてもいいですし、聖公会手帳に書かれた日課表に従って読んでもいいと思います。  できれば、時間を決めて、毎日、大きな声でそれを唱えるのです。  朝か午前中でしたら、朝の礼拝か朝の祈りを、午後か夜に時間を取れそうでしたら、夕の礼拝か、夕の祈りを、午前も午後も出来そうでしたら、その両方をやって下さい。  大切なことは、続けることです。自分の気持ちに祈祷書を合わせるのではなく、祈祷書のお祈りに、少しでも自分が合わせられるように、自分が変わっていくことを願いながら続けてください。  慣れてくると、退屈だと思ったり、飽きてきたり、頭の中に、いろいろな妄想が出てきます。それとの戦い、まさに自分との戦いを体験することができます。  信仰生活も、形から入る、生活の習慣となるということが大切です。 私は、忙しくてそんな暇はないという方は、それができるような生活に、生活の内容を変えるための戦いに挑むことが、信仰のための節制であり、信仰に生きるための訓練なのです。  何もしない、自分に対しても、外の何ものに対しても、戦いを持つことのないところには、節制も訓練もありません。具体的なプログラムを持つこと、それに向かって真っ正面から取り組む時、自分が見えてきますし、自分と向き合うことができます。 「あなたがたも賞を得るように走りなさい。朽ちる冠を得るためにそうするのではなく、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制し、訓練するのです。」  オリーブの枝で作った冠は、朽ちる冠です。朽ちない冠、それは、神さまの栄光です。これを走りぬいた時、計り知れない栄光と恵みに満たされます。    パウロの勧めを聴きたいと思います。     〔2009年2月15日 顕現後6主日(B) 上野聖ヨハネ教会〕