主キリスト・イエスによって示された神の愛
2009年03月08日
ローマの信徒への手紙8:31〜39
本日の使徒書から学びたいと思います。
聖書では、このローマの信徒への手紙8:31〜39には、「神の愛」という小見出しがついています。もう少しくわしく言いますと、「主キリスト・イエスによって示された神の愛」というのが、パウロの手紙のほんとうのテーマだと思います。
私たちは、「愛」という言葉をよく使います。とくにキリスト教は「愛の宗教」と言われ、聖書には「愛について」の教えや愛という言葉があふれています。
私たちの生活の中でも、愛と死は、人類の永遠のテーマだと言われますし、文学にも映画や音楽など芸術の世界でも、どの時代においても際限なく取り上げられています。
私たちは、愛がなければ生きていけませんし、人はみな誰からも愛されたいと思っていますし、人を愛したいと願っています。しかし実際は、人を愛するということはとっても難しいものであることも知っています。愛は何よりも強く、何よりももろいものだとも言います。
人を愛する「愛」というのは、人と人との関係を表す言葉だということです。したがって、愛は目に見えませんし、愛そのものを取り出して目で確かめたり、触れたりすることができません。
また、その人と人との状態によっても姿がちがいます。たとえば、親子の関係では父性愛、母性愛と言いますし、男女の関係では、恋愛という愛の関係を言います。夫婦愛とか兄弟愛とか友情とかその関係によってさまざまな愛の姿があります。
聖書では、神さまと私たち人間は、人と人とが向かい会うように人格関係だと言い、その関係は、愛の関係であると教えています。神が私たちを愛して下さっているのだから、私たちも神を愛さなければならない。神さまが私たちを愛して下さっているように、私たちも互いに愛し合わなければならない、神を知っている者が、ほんとうに人を愛することができるという「愛の倫理」が教えられています。
さて、今日の聖書、ローマの信徒への手紙ですが、パウロはその手紙の中で、8章の31から36節では、自分で質問し、自分で答えるという自問自答の形で「神の愛」について述べています。
第一に、「もし神さまがわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対することができますか。」
第二に、「人を義としてくださるのは神さまです。神さまに選ばれた者たちを誰が訴えることができるでしょう。誰がわたしたちを罪に定めることができるのでしょうか。」
第三に、「誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができるでしょうか。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」と問うています。
その当時、部族、民族、国と国が戦いをくり返している時、勝利を得るためにいかにして神々を自分たちの味方につけるか、さまざまな手立てを講じていました。神さまがわたしたちの味方についてくれるのであれば、誰がわたしたちに敵対することができようかという問いに対して、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と答えます。神さまはわたしたちの味方なのだ。いつもわたしたちの方を向いていて下さる方なのだ、すべてのものをわたしたちに下さる方なのだ、その証拠は、神さまのだいじな御子イエス・キリストの命を与えて下さっているではないかと言います。
二番目の自問自答は、最後の審判の法廷に経たされ、私たちが裁かれようとしている場面を想定して言います。「誰がわたしたちを罪に定めることができるのか。誰が神に選ばれたわたしたちを訴えるでことができるのか」と。これに対して、「訴えるのも、罪を定めるのも人の成せる業ではありません。人を義(無罪、救いを与える)とするか、罪に定めるか、有罪か無罪かを定めるのは、神さまがなさることなのです。その審判の席には、十字架に懸けられて死に3日目に復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っておられます。そこで、わたしたちのために執り成してくださるのです。」と言います。
さらに、三番目の問いでは、どれほどの艱難(災難、困難)、苦しみ(四面楚歌、行き詰まり)、迫害、飢え、危険、剣(死刑)など、あらゆる困難、苦悩、精神的苦痛、肉体的苦痛、死の恐怖などをもってすれば、誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができるでしょうかと問います。これに対して、パウロは、詩篇44:23が引用して答えます。
「我らはあなたゆえに、絶えることなく、
殺される者となり、
屠るための羊と見なされています。」
ここに神によって義とされた人たちが殉教していく姿が表されています。たぶん、パウロは自分が受けた体験から(第二コリント11:23〜29)、キリストに従うゆえに迫害を受け、困難と死が待ち受けていることを知っています。さらに「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」どんなことがあっても、「主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と結論を述べます。
イエスさまは、具体的にどのように人を愛されたのでしょうか。
イエスさまは30歳の頃、人々の前に姿を表し、33歳で十字架に懸けられて死にました。聖書に記されたこの3年間の公生涯において、イエスさまは、具体的に誰を愛し、どんな愛し方をなさったでしょうか。 イエスさまは、弟子たちを呼び集め、彼らを教育し訓練されました。彼らを愛しておられただろうということは推測できますが、そのために特別の愛の言葉を投げかけたとか優しくされたような個所も見あたりません。
病気の人々をいやし、歩けない人の足をいやし、目の見えない人の目を開き、五千人もの人々にパンを与えるというような奇跡をお示しになりました。「かれらを憐れに思い」とか「同情して」とありますが、しかし、イエスさまが奇跡を行われる最大の目的は、神さまに目を向けさせるため、ご自分が何者であるかを示すことが動機だったと言われます。
ただ一個所、「ベタニヤのマルタとマリアを愛しておられた」とあり(ヨハネ11:5)、その弟ラザロが病気になった時、そことを報せにきた使いの者が「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言いました。またラザロが死んで4日が経って後、イエスさまはベタニヤに行かれ、マルタとマリアが泣いているのをご覧になって、イエスさまも涙を流されました。その様子を見た近所のユダヤ人たちが「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか」と言ったとあります。
しかし、私たちは、イエスさまという方は「愛の方」であり、誰よりも人を深く愛し、すべての人を愛された方であると信じています。
愛を一口に定義することはできません。愛は、向かい合っているその人のことを深く想うことであり、慕うことであり、その人を心から信頼することであり、赦すことであり、受け入れることであり、理解することであり、その人のために死を厭わない犠牲を払うことであり、愛することの喜びに溢れることであり、言葉をつくしても語り尽くせません。
パウロがいう「この世のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」という言葉は、神の愛を語っています。「愛」は目で見ることはできません。言葉を尽くしても説明し尽くすことはできません。 神は、その目に見えない愛を、語り尽くせない神の愛を、私たち人間の目に見える姿で表されたのです。それは、イエス・キリストという方によって示されたのです。
ヨハネ第一の手紙4章にこのような言葉があります。(7〜21)
「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」
イエス・キリストの生き様、死に様、この方こそ神の愛そのものであり、目に見える神の愛です。そして、イエス・キリストによって、私たちは神に結ばれました。イエス・キリストによって結合された私たちは、何ものも、何をもってしても、死をもってしても、この神の愛から引き離すことができないのです。
「主キリスト・イエスによって示された神の愛」をもう一度体中で感じたいと思います。
〔2009年3月8日 大斎節第2主日(B) 下鴨キリスト教会〕