だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
2009年03月15日
ローマの信徒への手紙7:13〜25
パウロは、使徒の中に数えられ、「聖パウロ」と呼ばれています。しかし、パウロ自身は、ペテロや、アンデレやヨハネなど12弟子たちとは違って、生前のイエスさまには、直接会ったことがないのです。
パウロは、フィリピの信徒への手紙に中で、「わたしは生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3:5-6)と自己紹介をしています。パウロは、ギリシャ語とヘブライ語を語り、ギリシャとユダヤの教養を身につけ、ローマの市民権を持っていました。
若い時には、サウロと呼ばれ、熱心なユダヤ教徒として、クリスチャンを迫害する人々の先頭に立っていました。西暦37年頃、仲間と一緒にエルサレムからダマスコへ行く途中で、突然、天から光が射してきて、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」という声が聞こえ、目が見えなくなるという不思議な宗教体験をしました。その後、導かれて、回心し、熱心なクリスチャンになりました。
地中海沿岸の各都市に命がけで伝道旅行をし、福音の種を蒔く役割を果たしました。その旅行中に書いた手紙の中、13の手紙が、聖書に収められています。パウロの何よりも大きな業績は、イエス・キリストの出現、その教え、十字架と復活を、キリスト教の救いの教理として理論付け、世界に広がる教会、普遍的な教会の信仰としてとらえ直したというところにあります。
パウロは、ユダヤ人として、熱心なユダヤ教徒であった経験から、ユダヤ教とキリスト教の違いはどこにあるのかを問い、もっと正確にいえば、ユダヤ人が唱えている律法主義、律法はほんとうに人を救うことができるのか、本当の救いとは何かということについて語りました。
詩編第51編にこのような言葉があります。これは、大斎始日の聖餐式で読まれる詩編です。
「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。
わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。
あなたに背いたことをわたしは知っています。
わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、
御目に悪事と見られることをしました。
わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。
喜び祝う声を聞かせてください」
この詩編は、パウロから遡ってもっと古い時代に、歌われた詩です。「わたしの罪を拭ってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。わたしはあなたに背いたことを知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみに、わたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」と、身をよじり、うめきと叫びをあげて、神さまの前に、「どうしたら救われるのですか」と、身を投げ出します。
今日の聖書の言葉、使徒書として読んで頂いたローマの信徒への手紙7:13〜25は、パウロが書いたものですが、この詩編のうめき、叫びのような声をパウロはあげています。もう一度読んでみますと、
「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」(14〜21節)
当時のユダヤ教がいう「救い」は、律法を守ることでした。神さまは、イスラエル民族の救いを約束し、モーセを通して神の掟、律法を与えました。人々には神の掟を守ることを約束させたのです。人々はこれさえ守れば救われると信じたのです。預言者の言葉も、歴史の書も、さまざまな言い伝えも、律法を解釈したものも、全部、厖大な量の掟を掟として守ることが求められ、一生懸命これを守りました。
しかし、長い年月が経つと、いつのまにか掟を守る守り方が、形式的になり、なんとかして掟の裏をかこうとし、偽善的になり、見せかけだけ、格好をつけるだけになってしまいました。律法があるから罪があるというような、守り方、律法にただがんじがらめに束縛されているという状態になりました。
パウロは言います。「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。(モーセの十戒の10番目の掟です)。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。」(7:7〜10)
さて、私たちのことを考えてみましょう。今、私たちが住んでいる世界では、イエスさまやパウロの時代のように律法主義や掟に縛られているようなことはありません。
しかし、日常の生活を考えてみますと、家庭でも、学校でも、職場でも、親子、夫婦、嫁姑の問題、恋愛問題、友人との関係、同僚との人間関係など、さまざまな問題があります。不況による経済問題、年金問題、健康問題、病気や死に対する不安や恐怖などなど、誰もみんな何らかの問題を抱えています。その中で、どうすれば良いのか、どうすれば悪いのか、言えばいいのか言わないない方がいいのか、わかっているのですが、反対のことをしたり、言ったりしてしまします。
そして、最も大きな問題は、自分自身の心の問題です。淋しくなったり、落ち込んでしまったり、焦りを感じたり、不安を感じたり、希望が持てなかったり、さまざまな悩みを持っています。自分自身、どうすればいいのか、これもわかっています。しかし、なかなかそのように出来ないのです。
パウロも言います。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉(生まれつきの肉体の体)には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(18〜20)と。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(24節)と、パウロは言います。
内なる人、すなわち、頭では、何が善いことで、何が悪いことか、何をすべきで、何をすべきでないか、それはみんな、ちゃんとわかっているのです。しかし、肉体の欲望や欲求、名誉心や野心、人の噂を気にすることなどが、私を引き戻し、罪の法則のとりことしてしまうのです。格好をつける生き方、肩を張った生き方になってしまいます。在りのまま、ほんとうの自由がないのです。律法にがんじがらめになって束縛されているように、解放されていないのです。
「誰がわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)とパウロは問いを投げかけてすぐに、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(25節)と言います。
ここで言う「感謝」とは、何を感謝しているのでしょうか。
8章3節以下に次のように続けます。
「わたしたちの肉(体)が弱いために、律法がなしえなかったことを、神さまがしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を、罪深い肉と同じ姿で(わたしたちと同じ肉体をとらせて)この世に送り、その肉において罪を罪として(十字架に懸けて)処断されたのです。」
10節「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」
14節「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊を受けたのではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」
パウロは言います。イエス・キリストがこの世に現れる以前の時代とキリストがこの世に現れ、十字架と復活のあの出来事があった後の時代とでは、はっきりと時が二つに分けられるのです。神の霊がわたしたちに宿ったのです。神の霊がわたしたちを支配しているのです。
これは、わたしたちが律法をよく守ったからとか、善い行いをしたから、ご褒美として神さまが下さるものではないのです。
神の一方的な恵みによって、神の恵みとして与えられたのです。神さまに向かって「アッバ、父よ」「お父ちゃん」と呼びかけることの出来る者にしてくださったのです。
私たちに出来ることは、イエス・キリストを信じること、信じることによって「救われる」のです。
パウロが勧める信仰の法則とは、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によって義(無罪、救い)とされるのです」ということです。
〔2009年3月15日 大斎節第3主日(B) 上野聖ヨハネ教会〕