人の子が栄光を受ける時が来た。

2009年03月29日
ヨハネ福音書12:20-33 「栄光を受ける」  聖書の中に、「栄光を受ける」という言葉がよく出てきます。 「栄光」とはどういうことでしょうか。 辞書を引いてみますと、「大きな名誉、輝かしいほまれ。めでたい光。」などと記されています。 「勝利の栄光を受ける」などと言います。スポーツ選手が優勝して表彰台に上がります。そこにいる観衆や、テレビを見ている人々は、拍手を送り、「よくやった」とその努力と能力をほめ、選手は喜びの声を上げてこれに応えます。  音楽や演劇などのコンクールで最も優秀であると認められると、舞台の中央で、スポットライトを浴び、観客はみんな立ち上がって拍手を送ります。その人の才能や血のにじむような努力が認められ、評価される瞬間です。オリンピックの表彰式、ノーベル賞の受賞式、映画のアカデミー賞受賞式とか、いろいろな場面を思い浮かべます。  私たちの社会では、そのような場面を思い浮かべますが、聖書ではどうでしょうか。  「いと高きところには栄光、神にあれ」(ルカ2:14)と、野宿して羊の番をしている羊飼いたちに、突然現れた天使と天の大軍が神を賛美して言いました。  また、ヨハネ黙示録5章12節には、「天使たちは大声でこう言った。  「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、  そして賛美を受けるにふさわしい方です。」 13節には、「また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。『玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。』四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した」と記されています。  栄光を受けるべき方、それは神さまです。  神こそ、力、富、知恵、威力の源であり、賛美、栄光、誉れを、そしてはすべての栄光の源であり、誉れを受けるべき方だと言います。  「栄光」とは、神に属する言葉です。神が神であることがわかり、神の御姿は栄光に満ちています。栄光が現される時、イエスさま自身のお姿がまた何者であるかがわかります。  神が神とされる時、神が光り輝き、神ご自身の姿を現されるとき、神が御力を示される時、それは神が栄光を現されるときだということができます。 「わたしの時はまだきていない。」  さて、イエスさまは、フィリポとアンデレに、突然言われました。 「人の子が栄光を受ける時が来た」と。  イエスさまが言われる「時」とは何でしょうか。聖書をよく読んでみますと、イエスさまはこの「時」にこだわっておられることがわかります。  イエスさまが、弟子たちとともに、ガリラヤのカナで婚礼の席に招かれていたとき、宴会の途中で、ぶどう酒が足りなくなりました。イエスさまの母、マリアさんがこの婚礼の宴会のお手伝いに来ていて、そのことを知り、イエスさまに「ぶどう酒がなくなりました」と言いました。  すると、イエスさまは、お母さんに言われました。  「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。 わたしの時はまだ来ていません 。」  しかし、マリアさんは召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言いました。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の大きな水がめが6つ置いてありました。イエスさまは、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水をいっぱいにしました。  イエスは、「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われました。召し使いたちは運んで行きますと、世話役はぶどう酒に変わった水の味見をしました。世話役は花婿を呼んで言いました。  「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれたのですか。」  これは、「イエスは、このようにして最初の奇跡をガリラヤのカナで行い、その栄光を現された」と記されています。(ヨハネ2:1〜11) もう一つ、こんな出来事がありました。  イエスさまは、ガリラヤを巡っておられた。イスラエルの南の方のユダヤ人たちがイエスさまを殺そうとしていました。そこでイエスさまはエルサレムの神殿があるユダヤ地方には近づかないようにしておられました。  ユダヤ人の仮庵祭が近づいていたある時、イエスさまの兄弟たちが言いました。  「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」 イエスさまの兄弟たちも、イエスさまのことを信じていなかった、イエスさまのことが全然わかっていなかったのです。そこで、イエスさまは言われました。  「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。 まだ、わたしの時が来ていないからである。 」  イエスさまはこう言ってガリラヤにとどまられました。しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエスさま御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれました。  祭りのときユダヤ人たちは「あの男はどこにいるのか」と言ってイエスさまのことを捜しまわっていました。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていましたが、「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいました。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいませんでした。  祭りもすでに半ばになったころ、イエスさまは、神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言いました。イエスは答えて言われました。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者には、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずだ。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」と言われました。(18節) ぶどう酒がなくなった時には、「わたしの時はまだきていない」と言い、しかし、水をぶどう酒に変える奇跡を行っておられます。また、仮庵祭の時にも、兄弟のすすめに対して「わたしの時はまだ来ていません」と言って、エルサレムには行かず、兄弟たちを行かせておいて、しばらくしてから、やはり神殿へ行っておられるのです。  ヨハネによる福音書では、このように、イエスさまは「わたしの時はまだ来ていない」とたびたび言われ、その他にも「イエスの時がまだきていなかったからである」と、繰り返し記されています(ヨハネ7:30、8:20)。  イエスさまが言われる「わたしの時」というのは、何の時、どのような「時」をいうのでしょうか。 「栄光を受ける時」  福音書に戻りますと、23節、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われました。そうなのです。イエスさまが言われる「わたしの時」というのは、イエスさまが栄光を受ける時なのです。  27節、「わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」という天から声が聞こえました。  私たち人間事で言いますと、栄光を受ける瞬間は、スポットライトを浴び、人々の拍手と歓声に包まれ、ほめたたえられ、喜びに満たされている姿がそこにあります。  しかし、主イエスが受ける栄光の時とは、それは、捕らえられ、引き回され、小突き回され、ののしられ、侮辱され、裸にされ、鞭打たれ、月桂樹の冠のかわりに茨の冠を被らされ、重い十字架を背負い、十字架に手と足を釘で打ち付けられ、それが立てられ、痛みと苦しみの中で放置され、そして、そのまま息絶えるこということでした。  今、ご自分の前に迫ってくるこの苦しみと死を、イエスさまは予知しておられます。(27節、28節) 「今、わたしは心が騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」  すると、天から声が聞こえました。 「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 その声は、そばにいた群衆には、「雷が鳴った」「天使がこの人に話しかけたのだ」と聞こえました。  イエスさまは、ご自分の使命を受け入れようとしておられます。  30節、イエスは言われました。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 イエスさまは、御自分がどのような死を遂げるかを示し、「その時」が来ていることを話されました。 それまでのイエスさまの生涯において、イエスさまがなさった業を通して、奇跡を通して、数々のしるしを通して、神さまの栄光がすでに明らかにされてきました。  そして、さらに、これからイエスさまの十字架とこれに続く復活によって、神さまは、イエスが何者であるか明らかにしようとされます。  この十字架と復活を媒介にして神さまご自身の意志、み心がどこにあるのか、神さまがどのような方であるかということがはっきりさせられるということです。  神の栄光が現されるということは、神がご自身を明らかにされるということです。 「仕える者と共にいる」  私たち神さまを信じる者にとって、ほんとうの「しあわせ」、神の国、天国とは何ですか。信仰生活において、私たちがめざすべきものは何ですか。  それは、神さまが、イエスさまが、いつも共にいて下さることです。  わたしたちが、神さま、イエスさまと共に、いつもいることです。 このことからぶれないないようにすることです。どんな時でも、淋しい時も、悲しい時も、病気の時も、失敗した時も、死ぬようなことがあっても、いや、死んでからでも、神さまが共にいて下さる、イエスさまとともにいるということがあれば、恐れも不安もありません。  イエスさまが共にいて下さることを確信する時、ほんとうの安心と自由と希望を持つことができます。いや、むしろ、健康に恵まれ、経済的にも人間関係でも、何不自由なく過ごしている時の方が、神さまやイエスさまを見失い、忘れてしまい、だいじなことからぶれてしまいます。  最後の結論です。  24節から、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。 そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる 。」  有名な聖書の言葉ですが、イエスさまは、一粒の麦となって、地に落ちて、私たちのために死んで下さいました。「いつもわたしと共にいたいと思う者は、わたしに仕えなさい。わたしに従いなさい。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。」  大斎節も後半になります。キリストと共に、十字架と復活に近づきましょう。     〔2009年3月29日 大斎節第5主日(B) 聖ルシヤ教会〕