キリストの愛
2009年05月17日
ヨハネ福音書15:12〜13
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。
これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(15:12-13)
1 今日の「愛」という言葉の氾濫
キリスト教は、「愛の宗教」と言われます。聖書には「愛」という言葉が沢山出てきますし、「愛」についてたびたび教えられ、語られます。
しかし、「愛」という言葉は、キリスト教の専売特許ではありません。文学、芸術の世界では「愛」は永遠のテーマと言われますし、仏教では、「慈悲、慈愛」という言葉で表されますし、儒教では「仁」という言葉で表しています。歌の歌詞やドラマのテーマには「愛」と言う言葉が溢れています。
最近、テレビを見ていても新聞を読んでも、「愛」という言葉にが気になります。今、毎週日曜日の夜やっていますNHKの大河ドラマ、「天地人」に登場する主人公、上杉謙信の養子、上杉景勝の家臣、越後の武将と言われる直江兼(かね)続(つぐ)の兜の前の印(前立物)に「愛」という漢字の一字がつけられています。この「愛」の字については、俗説として「仁愛」や「愛民」の精神に由来するとも言われていますが、上杉謙信が毘沙門天の信仰を表した「毘」の字を旗印に使用するなど、当時、神の名や仏像を兜や旗などにあしらう事は広く行われていたことから、「愛染明王」または「愛宕権現」の信仰を表したものと推測されています。気になるのは、16世紀、安土桃山時代に、日本人が「愛」という字や言葉をどのような意味に使っていたのかということです。現在の私たちが使っているような意味、アイ・ラヴ・ユウの「ラヴ」とは違ったと思うのです。しかし、私たちがドラマを見ると近代的な意味の「愛」だと思ってしまいます。
それにもう一つ、日本の政治の世界のことですが、昨日、民主党の代表に選ばれた鳩山由紀夫さんの座右の銘が「友愛」だそうで、友愛社会の建設をめざす、今の社会に、「愛」が必要だといっていました。それはどういう意味かといえば、みんな仲良く、いたわり合って、支え合って生きる社会を築こうということだそうです。お祖父さんの鳩山一郎という方はクリスチャンでしたから、その影響があるのかも知れませんが、しかし、キリストが教える「愛」とは少しニュアンスが違うように思います。
2 キリスト教は、「愛の宗教」
それでは、キリスト教の「愛」とは、どういう愛でしょうか。
愛とか愛するという言葉は、それを目で見える形で表したり、そのものを取り出して見せることはできません。愛とは、何かと何かの関係を表す言葉です。友人との関係、恋人との関係、夫婦の関係、親子の関係など、人と人との人格的関係その関係を表す言葉、その関係そのものを言います。
イエスさまは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「これと同じようにあなたの隣人を自分のように愛しなさい」これこそがもっともだいじな掟であると言われました(マタイ22:37、38)。私たちは、イエスさまは、愛の人、愛に満ちた人だということを知っています。そして、そのように信じています。そして、今日の福音書に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と教えておられます。
ところが、イエスさまは、どのように人を愛されたでしょうか。
「わたしがあなたがたを愛したように」と言って、弟子たちにどのような愛し方をなさったでしょうか。お話の中では、99匹の羊と見失った1匹の羊を見つけ出して喜んだ羊飼いのたとえを語られました(15:1-7)。放蕩息子の話も聞きました(ルカ15:11-32)。よきサマリア人の話も知っています(ルカ10:25-37)。しかし、これらはみんなイエスさまがなさったたとえ話の中のお話です。
イエスさまは、弟子たちにこんなに優しくして、こんなに愛しておられたのだと思うような場面が見あたりません。
私たちが持っている「愛の人」というイエスさまに対するイメージはどこからくるのでしょうか。ほんとうにイエスさまは、弟子たちやそのほかのまわりの人々を愛したのでしょうか。
「わたしがあなたがたを愛したように、」の「ように」とは、イエスさまのどこをに見習えばいいのでしょうか。
優しいイエスさま、小さな羊を懐に抱いておられる聖画を見たことがあります。小さな子供たちを膝にのせてニコニコしておられるイエスさまの像を見たことがあります。そのイメージから、イエスさまは、優しい方、柔和な方、弱い者の味方、平和を愛する方、決して人の悪口を言わない方と、思っていることはないでしょうか。
ところが、聖書をよく読んで見ますと、確かに権力を持つ人を嫌い、病気の人、身体の不自由な人、貧しい人の側でに立ち、その人々のために奇跡を行っておられますが、しかし、ほんとうは違います。
「しかし、『わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。』」(マタイ10:34-38)
「イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」(ヨハネ2:13-16)
「律法学者たち、ファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」
「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」(マタイ23:1-36)と、ののしったこともあります。
3 キリストの愛
もう一度、今日の福音書を読んでみましょう。イエスさまは言われます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
イエスさまが教えられる「愛」は、友のために自分の命を捨てることだと言われるのです。
イエスさまの言われる「愛」は、単に、優しくしてくれる、柔和である、いつもニコニコしていて、いつもあなたのことを思っていてくれるというような愛ではありません。友のために自分の命を捨てる愛を要求されます。それは、犠牲愛とか自己否定愛とか言われる愛です。
そして、イエスさまは、ご自分で、弟子たちのため、人々のため、そして、私たち、私のために、ほんとうに死んで「愛」を見せてくださったのです。
イエスさまは、ゲッセマネの園で捕らえられ、裁判に引き回され、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、十字架を担いで、ゴルゴタの丘まで連れていかれ、手と足に釘打たれ、十字架が立てられ、叫び声をあげて、息を引き取ります。鞭打たれ、血みどろになり、手と足に大きな釘が打たれる。その場面は実際に実現すると、なかなか私たちには正視出来ません。しかし、多分そのような痛み、苦しみ、を受け、息を引き取られたのだと思います。
十字架の愛というのは、そのような苦しみ、もだえ、うめき、叫びによってもたらされた愛なのです。イエスさまは、人生の最後に、このようなものすごい「愛」を、その愛を取り出して見せて下さったのです。
4 愛に生きる
イエスさまは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われます。イエスさまは、自分があなたがたを愛したような愛し方をしなさいと言われるのです。それは、友のために自分の命を捨てることです。イエスさまが十字架につけられ、死んで下さったように、私たちも互いに、命を捨てる愛し方をしなさいと、命じられます。
「えーーっ、私たちそんなに簡単に死んでいいの?」「そんなことできない」と言ってしまいます。そうなのです。神さまからお預かりしている私たち一人一人の大切な命です。だいじに生きなければなりません。
だけど、友のために、死ななければ、イエスさまに命じられている愛にはならないのです。私たちが、ほんとうに、愛する、互いに愛し合うということは、友のために、どれほど死ねるかということです。
人類愛とか世界愛とか、そんな大きなことをいっているのではありません。最も身近な人々のため、目の前にいる、夫のため、妻のため、子供のため、親のため、嫁のため、姑のため、友達のため、同僚のため、目の前の、いちばん身近に愛さなければならない人がいるのです。
その、今、目の前にいる、その人のために、自分のスケジュールをどれほど変更することができますか。わたしは、今、忙しい。わたしには予定がある、いろいろ都合がある。あなたのために、それは一切変更することはできません。そのような思いをどれほど「殺す」ことができるかです。
私たちは、人を見るとき、自分の「好み」をその人に押しつけて、つきあっていることはないでしょうか。自分好みの型枠があって、それに合うように、「あなたが」変わってくれなければ、わたしはあなたを愛せませんと突っ張っていることはありませんか。その型枠を取り壊し、その友をありのままの姿で受け入れることが、友のために死ぬということです。
それでも「そんなことはできない」という人は、考えてみてください。イエスさまは、そのようなわたしのために、命を与え、「死んでくださって」、愛を示して下さったのです。
イエスさまは言われます。「わたしがあなたのために、死んだのだから、あなたもわたしにならって死になさい。」
キリスト教の愛の特徴は、イエスさまが、十字架の上で苦しみ、死んでみせて、これが愛するということだとはっきり示してくださったことにあります。あなたがたも、このように愛しなさいと、愛して見せてくださり、同じようにこのように生きなさいと命じられたことにあります。
「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」そのとき、イエスさまは、私たちを友と呼んで下さいます。
〔2009年5月17日 復活後第6主日(B) 上野聖ヨハネ教会〕