信じる心のチェック

2009年06月07日
出エジプト記3:1−6 1 三位一体主日、信仰を点検する日  教会の暦では、今日は「三位一体主日」です。先主日、聖霊降臨日を迎えましたので、「聖霊降臨後第1主日」とも言います。  私たちが行っている主日礼拝では、教会の暦に従ってその日に読まれる聖書の個所が決まっています。11月末から降臨節に入り、キリストの誕生を迎える準備のシーズン、そしてクリスマス。顕現節、大祭節。キリストの受難と十字架を思い起こします。そして、春を迎えて復活日(イースター)、復活節、昇天日、聖霊降臨日を迎えます。  教会の暦の前半は、キリストの生涯を、各主日に当てはめて記念するようになっています。  そして、三位一体主日から後、11月末まで、一年の暦の後半、聖霊降臨後主日では、キリストがなさったこと、キリストの教えについて学びます。  今日の三位一体主日は、教会の暦の前半と後半の中間にあって、私たちが自分の信仰のあり方をふり返り、正しい信仰を持っているか、迷信や不信仰に陥っていないかどうか、チェックする日、点検する日だと思います。  本日の特祷をもう一度、見てみましょう。  「あなたは僕らに恵みを与え、まことの信仰をもって、栄光ある三位一体の神をあがめることができるようにしてくださいました。どうかこの信仰に堅く立って生き、すべての災いに打ち勝つことができますように」と祈ります。「まことの信仰をもって、栄光ある三位一体の神をあがめることができますように」と祈ります。  まことの神、三位一体の神とは、どのような神さまでしょうか。  ご一緒に考えてみたいと思います。 2 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神  世の中には、神さまを信じない人も大勢います。また、世界中に、たくさんの宗教があって、それぞれ信じている人たちは、自分 の信じる神さまがいちばんだと思って信じています。  私たちも、私たちが信じている神さまこそが、絶対の神さまであり、唯一の神さまだと確信しています。  では、私たちは、私たちが信じている神さまとはどのようにして出会ったのでしょうか。どうして、他の宗教の神ではない、この神さまを信じるようになったのでしょうか。  クリスチャン・ホームに生まれ、幼児洗礼を受けた人、誰かとの出会いがきっかけになって、教会に来るようになった人、自分で求め、聖書を読んで、また教会の門を叩いた人、さまざまな出会いがあったのだと思います。自分で、じーっと考えて、自分で神を作り出したという人がいたら、それは偶像崇拝になりますし、それは本当の神さまかなあと疑います。  今日の旧約聖書では、出エジプト記3章1節から6節が読まれました。モーセが、ホレブの山で神さまに直接出会ったという出来事です。  モーセの青年時代の出来事です。エジプト王の追っ手から逃れて、ミディアンという土地に来て、そこでツィポラという娘に会い、結婚しました。妻のお父さん、祭司であるエトロのもとで、羊飼いをして働いていました。ある日、エトロの羊の群れを連れて荒れ野の奥へ行き、神の山といわれるホレブ山に来ました。その山の中で、岩の間に立っている枯れ木、柴が燃えているのを見つけました。さらにその燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れたのを見たのです。モーセは、柴が燃えているのに燃え尽きないので不思議に思い、さらに道からそれて近づきました。すると、柴の間から神さまの声が聞こえ、「モーセよ、モーセよ」と言われました。モーセが、「はい」と答えると、神が言われました。  「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」そして、神さまは続けて言われた。「わたしは、あなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて思わず顔を覆いました。  この出来事は、モーセの神さまとの出会いであり、モーセはエジプトで苦しんでいるイスラエルの民を救い出すために遣わされることになりました。何十万というイスラエルの民をエジプトから脱出させる大事業への召命であり、大預言者モーセの誕生となりました。  その最初の出会いの時に、神さまは、モーセに、自己紹介をしておられます。「わたしは、あなたがたの民族の父が信じた神である。イスラエル民族の族長、アブラハムが信じ、その子イサクが信じ、ヤコブが信じた、代々の族長が信じた神である」と。このように自己紹介をしておられます。  「あなたは、どこの神さまですか。何という神さまですか」「わたしにエジプトへ行って、イスラエルの民を救い出せと急に言われても、わたしはあなたを知りません。それよりも、イスラエルの民のみんなに、神さまから命じられて来たと言っても、そんなことを彼らは信じるでしょうか。何と言えばいいんですか。」  これに対する神さまの答えは、「わたしは、あなたがたの民族の父が信じた神である。イスラエル民族の族長、アブラハムが信じ、その子イサクが信じ、ヤコブが信じた、代々の族長が信じた神である。そのわたしが言っているのだ」ということでした。  パウロは言います。(ローマ10:14-15、17)  「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」  私たちも、誰かから聞いて、神さまを知ったのです。その人は、さらに誰かから聞いて知ったのです。さらに、その人は誰かから聞いて、それを信じて、宣べ伝えたのです。 3 三位一体の神を信じる  さて、「三位一体の神」とは、どんな神でしょうか。この言葉は、聖書には記されていません。しかし、これは大切なキリスト教の教義を表す言葉です。  その意味は、父である神、子であるキリスト、聖霊である神、それぞれが神です。しかし、3つの神ではなく、1つの神であるということを信仰告白します。これを言葉で説明しようとすると「アタナシオ信経」のようになります。祈祷書の最後のページに記されていますのでご覧ください。父である神と子である神はどのような関係ですか。それでは、神は2つですか。聖霊は神ですか。それは、父である神と子である神とどのような関係にあるのですか。2千年の教会の歴史の中で、キリスト論とか三位一体論という論争が起こり、その結果が、三位一体の神を信じるという信仰が確立されました。  もし、この三位一体の神を信じないというと、キリスト教ではない。異端だということになります。 4 私の信仰 信仰と理性 知情意のバランス   私たちが、正しい信仰を持ち続けるということは、難しいことです。 そのことを自分でいつもチェックしていないと、独り善がりな信仰、自分一人が正しいと思い込む傲慢な信仰生活になってしまいます。 1.私たちの信仰をチェックするスタンダード、標準、基準は、聖書です。いつも聖書のみ言葉に触れていなければ、自分を正すことはできません。 2.信仰と理性のバランスを考えていなければなりません。神さまは、私たちに、知識を持ち、考える力をお与えになりました。「鰯の頭も信心から」というように、何でも信じてさえいればいいというものではありません。迷信や妄信、盲信となってしまいます。科学的な知識や対話が必要です。 3.人間の心の働きには、「知」「情」「意」というものがあると、よく言われます。「知」とは、今、言いました知性とか理性とかいうものです。知識を深め、よく考え、自分の考えをまとめる心の状態です。だいじなことですが、こればかりになると、知識だけの信仰、観念的な信仰、冷たい信仰の持ち主になってしまいます。 「情」とは、感情です。信仰には情熱がなければなりません。真っ赤に焼けた鉄のような、燃え上がるような熱心と、全身全霊のすべてを賭ける意気込みがなければなりません。しかし、熱心だけでは、熱しやすく冷めやすい、意気込みだけの信仰の持ち主になってしまいます。 「意」とは、意志、決心する心の働きです。ある時には、決断が必要です。しかし、決断ばかりでは、ただ調子のいい、中味のない信仰の持ち主になってしまいます。 大切なことは、信仰を持ち続ける私たちの心に状態が、知情意のバランスが正三角形になるような状態を続けたいと思います。 4.謙虚であること、祈りをもって、願い求め、心を明け渡すことだと思います。そして、なんとしても、どんなことがあっても、イエスさまから目を離さないことです。    〔2009年6月7日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(B) 桑名エピファニー教会〕