遣わす神
2009年07月12日
マルコ福音書6章7節〜13節
イエスさまには12人の弟子がいました。この12人というのは、特別の資格や能力があって、イエスさまの弟子になったのではなく、
ある時、突然、イエスさまに呼び出され、「わたしに従いなさい」と言われて従った人たちでした。ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、ガリラヤ湖という湖で魚を獲っている漁師でした。マタイは徴税所で税金を取っている取税人でした。このようにいずれもふつうの仕事を持ったふつうの人でした。
その一人ひとりが、イエスさまに出会い、イエスさまに「わたしに従いなさい」といわれ、ついて行き、イエスさまの弟子となりました。イエスさまとの出会いによって、この12人の弟子たちの人生は、180度変わってしまうのですが、イエスさまには、ご計画があって、彼らを招き、彼らをご自分に従わせました。その計画、目的というのは、彼らを宣教のために使者としてお遣わしになるためでした。
今日の福音書、マルコ6章7節〜13節には、イエスさまが弟子たちに直接お遣わしになる時の様子が記されています。
イエスさまは、あちこちの町や村に出かけて宣教活動をするように命じられたのですが、まず、弟子たちの旅行中の安全のために必ず2人ずつのペアを組んで出かけるようにと言われました。
さらに、弟子たちに、悪霊を追い出す力、病気をいやす力をお与えになりました。当時の宗教家や医術を行う人は、「悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」という呪術的な治療法を用いていましたから、彼らにも汚れた霊に対する権能をお授けになりました。
さらに、弟子たちに、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は2枚着てはならない」と命じ、私物、私有財産を一切持たず、出かけた町や村で施しを受け、宿や食事の世話になりながら宣教しなさいと言われました。
その村や町に行き、どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その一軒の家にとどまりなさい。滞在する場所を転々とせず、協力してくれる人の所にとどまりなさいと教えます。
しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。あなたがたの語ることを理解せず、協力しないひとたちの所からは、さっさと立ち去りなさいとお命じになりました。
細かいことまで指示し、気遣いながら、他方では、弟子たちに貧しい修業僧のような、きびしい生活をお求めになりました。
当時の弟子たちは何を語ったかと言いますと、人々に「悔い改め」を迫る内容が主であっと思われます。ヨルダン川のほとりで、悔い改めを迫っていたバプテスマのヨハネの姿を思い起こします。まだ、キリストのことを、いわゆる福音を宣教するには至っていませんでした。
旧約聖書の時代の預言者や教師の姿でありました。イエスさまは、このように弟子たちを訓練し、派遣されたのでした。
先ほど読まれました旧約聖書にも目をとめたいと思います。アモス書という預言書が読まれた。
アモスが活動した時代、この時代は、イスラエルは、北イスラエル王国と南ユダ王国に別れていて、北イスラエルでは、ヤロブアム2世という王が支配していました。経済的には国が最も栄えていた時代でしたが、一方では、人々は偶像崇拝に走り、道徳的に退廃し、貧富の差がはげしく、金持ち階級の人々は貧しい人々から搾取し、弱い立場の人々は苦しめられていました。
そのような状況の中で、預言者として呼び出されたアモスは、紀元前760年〜750年頃に活躍したのですが、ベツレヘムから南へ9キロほど行ったテコアという田舎町の出身で、家畜を飼い、いちじく桑を栽培している半農半牧の素朴な生活を営む一農民でありました。
アモスは、貧しい人々の味方として、社会正義とほんとうの宗教、信仰のために戦いました。宗教的、社会的に堕落したベテルの町に向かって、激しい口調で神の審判を叫びました。
しかし,アモスの声は空しく響くだけで、祭司アマツヤの反撃にあい干渉を受けました。
「ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。『イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。』アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえられて、その土地から連れ去られる。』アマツヤはアモスに言った。『先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。』」(アモス書7:10-17) アモスは故郷に退かざるを得ませんでした。
口を封じられたアモスは預言を文字に託して後世に残したのが、このアモス書です。
「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから」と言って、ベテルの祭司アマツヤからいやがらせを受けました。アモスは、このベテルの町から出て行けと言われました。アモスはアマツヤに答えて言いました。
「わたしは、もともと、預言者でもなければ、預言者の弟子でもない。自分の家畜を飼い、いちじく桑を栽培している平凡な農夫だ。ところが、神が、わたしをつかまえて『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われたのだ。神がわたしを遣わしたのだ。神がこの北イスラエルに、このベテルの町にわたしを派遣したのだ」と言いました。
私は、若い頃に思ったことがあります。
神さまは、全知全能の神さまです。この世を創造された神さまなのですから、この世に対して、神さまには出来ないことはありません。「光あれ」といって夜と昼をお造りになった神さまなのですから、神さまは命令を出して、すべての人を善人にすることも、神さまを信じさせることも、イエスさまを神の子として、信じさせることもできるはずです。だのに、なぜ、そのようになさらないのかと。
神さまは、全く自由な方、誰からも束縛されない、拘束されないかたです。神さまは人を造られたとき、「神のかたち」似せて造られたといいます。神さまは、人を、神さまのようにほんとうに完全な自由ではありませんが、自由をお与えになりました。選択する自由、選ぶ自由です。神さまの意志にに従うことも背くこともできるように「自由」をお与えになりました。神さまがすべての人間に「神を信じ、神に従う」ものとして、型にはめてお造りになったとすると、それは、神さまが何よりも最も大切なものとして人間にお与えになった「自由」を奪うことになります。人間の本質というか、人間をそういうものとして、神さまの似姿をもっているものだと思うのです。
神に従うか、神に背くかということさえ、選ぶことができる自由を人間にお与えになっているということです。しかし、神さまは、神に背くものを放置するのではない。「わたしに従いなさい。」「わたしに背く者も、わたしのもとに帰って来なさい」と呼びかけ続けられます。
神さまは、そのために、ある人たちを選び、神さまの意志を伝えるために、その人を人間社会に派遣されました。「遣わす」「派遣する」という方法を取って、呼びかけ続けられます。神さまは、ある人たちを選び、神のメッセージを与えて、「派遣される神」なのです。
神さまのこの方法は、旧約聖書を通じても、新約聖書を通じても、終始一貫して採っておられる神さまのやり方、方法です。
神さまは、全世界の救いのために、イスラエルという小さな民族を選び、彼らを神の民として、この世にお遣わしになりました。しかし、その民も、神の意志に背きました。そのイスラエルのために、預言者たちを選び、呼び出し、遣わしました。それは、必ずしも特別の人ではない。エレミヤは、祭司の息子、エゼキエルも祭司の子でした。アモスのように、平凡な農夫であったり、羊飼いであったり、さまざまな生い立ち、いろいろな職業の人が神さまの召命を受け、その役割を果たしました。これを受けるイスラエルは、決して彼らが述べる言葉を、すぐに素直に聞いたわけではなく、そのために預言者たちは迫害を受け、死ぬ思いをして闘わねばなりませんでした。
預言者アモスも、その一人で、「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」と、追い出しにかかる祭司アマツヤに言っています。
新約聖書においても、その構図というかかたちは一貫しています。神さまは、最も愛するひとり子をこの世にお遣わしになりました。それだけではなく、その命をもお与えになったのです。
ヨハネ福音書17章18節に、イエスさまはこのように祈られました。 「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」
イエスさまも、弟子たちをお選びになり、弟子たちをこの世に派遣されました。かつての旧約聖書時代の古いイスラエルに対して、新しいイスラエルとして、この世に福音を宣べ伝えるために、弟子たちは「使徒」とされたのです。イエスさまの12弟子は、「12使徒」とも呼ばれます。パウロも使徒と呼ばれます。使徒という言葉は、ギリシャ語で「アポストロス」といいます。その意味は「派遣された者、使者」という意味です。キリストによって使徒とされた人たちによって教会が誕生し、教会は、この世に派遣されました。
イエスさまの時代から2千年が経った現在も、神のなさる方法、神さまの意志を伝える「やり方」は変わりません。神の意志を伝えるために、選び出し、教育し、訓練して、遣わされます。現在の時代にあって、教会こそが、選ばれた神の民であり、使命を持ってこの世に遣わされているということを忘れてはなりません。
そして、教会を構成する私たち、教会のメンバーである信徒一人ひとりが、現代のこの社会に遣わされているのです。教会は、現代社会に対して、預言者の役割を果たさねばなりませんし、執り成しをする祭司の役割も果たさなければなりません。その使命を見失い、派遣されている私たちであることを忘れては、教会であることの意味をなくし、存在理由を失ってしまいます。
私たち、一人ひとりが、家庭に、職場に、その使命を負って遣わされているのです。自己満足の信仰、目的意識を持たない信仰生活は、疲弊堕落してしまいます。
遣わされる神さまが、神のご計画のままに、どうぞ、私たちを神さまの手足としてください、神さまの器として用いてくださいと祈りましょう。どうぞ、私たちを「遣わしてください」と祈りましょう。
〔2009年7月12日 聖霊降臨後第6主日(B-10) 京都聖ステパノ教会〕