成長する信仰

2009年07月26日
エフェソの信徒への手紙4:1〜7、11〜16 1 キリストによる一体性と多様性  本日の使徒書、エフェソの信徒への手紙4章から学びましょう。  この手紙は、聖パウロがエフェソの教会の信徒に書いた手紙ですが、同時に、今日、私たちの教会に宛てて書かれた手紙、私たち一人一人に宛てて送られた手紙として読まなければ、私たちの心に響きません。  ここで、パウロは、「教会にあって主にある一致」を強調しています。  「教会は、キリストの体です。み子はその体である教会の頭です。」(コロサイ1:18) パウロは、教会とは何かということを、人間の体にたとえて説明しています。体は一つです。そこに満ちる霊は一つです。目指す希望は一つです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つです。私たちは唯一の神を信じます。このようにして霊による一致を求めなさいと勧めます。私たちの体が、頭すなわち脳の命令に従って働いているように、教会も頭であるキリストの命令のもとに働き、動きます。  主にある一致、ここからぶれたり、外れたり、それたりしないようにと、パウロは強く求めます。  しかし、体は、多くの部分から成っています。手や足や、目や耳や、見えないところでは、体の内蔵なども、小さな部分から成っています。 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるわけではありません。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言っても、体の一部でなくなることはできません。もし、反対に、からだ全体が目だったら、どこで音や声を聞くことができるでしょうか。もし、からだ全体が耳だったら、どこで臭いをかぐことができるでしょうか。からだの部分は、それぞれに役割をもって働いているのです。神さまは、御自分の思いのままに、からだに一つ一つの部分を置かれました。ですから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。  私たちのからだがそうであるように、教会はキリストの体であり、また、その教会につながる私たち一人一人はその部分です。神さまは、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。」(�汽灰螢鵐�12:12-28)  教会の目に見える姿を見ますと、牧師と信徒が一つの共同体、キリストの体を形成しています。牧師も信徒も、メンバーはすべて、その部分として大切な役割を果たしています。忙しく2つも3つも役割を持っている人もいますが、何も役割を持っていないという人もいます。しかし、その人も神さまを礼拝する人、祈る人として、そこにいるだけで大きな役割を担っています。その教会の部分であるメンバーは、神に礼拝をささげ、恵みを受け、リフレッシュされて社会に散らされ、職場にあって、家庭にあって、学校にあって、すべての場において、キリストを頭とする教会の部分とし、主イエスを証していきます。  教会は、このように一つである一体性と、同時にからだの部分としてさまざまな姿をもって働く、奉仕する多様性を持っていることを、パウロは教えています。 2 奉仕の業に適した者とされる  エフェソの信徒への手紙4章12節には、  「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」とあります。この奉仕の業の「奉仕」という言葉は、仕える、奉仕する、世話をする、もてなす、接待する、執事をつとめるなどという日本語に訳されています。  ルカによる福音書10章に、マルタとマリアの姉妹の話を思い出してください。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、(マルタはイエスさまの)そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』」 (ルカ10:40)と記されています。  また、イエスさまは言われました。 「しかし、あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」(ルカ22:26-27)  この仕える者、給仕する者となることがだいじだと教えられているのですが、そのもてなす者の中味は、愛に溢れ、愛がなければほんとうのもてなしにはなりません。  「なんで、こんなしんどいことせんならんの? わたしばっかり」「時間も、労力も損や」「人の目につく仕事はするが、裏方の地味な仕事はかなわん」等。これは、この世の一般的な損得を前提にした考え方です。この考え方が教会の中心になり、そのような考えがそのまま教会を支配したとすれば、教会はキリストの体であり、私たち一人一人はその部分として仕えなさいという教えから全く反することになってしまいます。  先ず第一に、キリストに仕えるいるのだということを忘れてはなりません。イエスさまに仕えるということは、兄弟姉妹を愛をもってもてなすことなのです。愛のない教会、仕え合う奉仕の業を果たさない教会は、存在の意味を失ってしまいます。  7節にいう「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」その恵みを放棄してしまうことになってしまいます。 3 キリストに対する信仰と知識  さらに、エフェソの信徒への手紙4章13節では、  「聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、(13節)ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」と続きます。  神の子、すなわちイエス・キリストに対する信仰と知識において一つのものとなることが求められています。  イエス・キリストに対する信仰とは、イエスさまに対する絶対的な信頼です。イエスさまにすべてをゆだねるということです。  そして、イエス・キリストに対する知識とは、単に「イエスさまについて知っている」という、そういう知識ではないのです。  エフェソ1章17節以下の言葉を引用しましょう。  「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」 「神を深く知ることができるように、心の目を開いてくださるように」、「私たちに希望が与えられ、豊かな栄光に輝いていることを悟らせて下さるように」「絶大な働きをなさる神の力を悟らせてくださるように」とあります。キリストに対する知識とは、勉強して得られるような知識ではなく、心の目が開かれ、悟らせられることを言います。 4 成熟した人間、成長する人間  教会に招かれた者、洗礼を受けて聖なる者とされた人たち、さらに聖職に召された人たち、それは、それぞれにキリストの賜物に従って恵みを分け与えられた人たちです。その人たちはキリストに仕えるに適した者として準備され、整えられて、キリストの体である教会を造り上げていきます。  そして、キリストへの絶対的な信頼とほんとうに神の御心を知り、キリストを知るために心の目が開かれ、悟ることができて、教会に結び合わされて一つとなり、成熟した人間となり、成長していくのです。  「宣教」とは、まだイエスさまのことを知らない人たちに、イエスさまのことを知らせることです。救いの喜びすなわち福音を人々に告げ知らせることです。ですから、「宣教する」とは、教会のメッセージを教会の外の人々に向かって宣べ伝えることを言います。私は、これを「外部宣教」と呼ぶことができると思います。  これに対して、「内部宣教」の必要を感じます。それは、教会の内部に対する宣教の必要です。求道者や洗礼志願者だけの問題ではありません。洗礼を受け、堅信式を受けた人たちにも、今、改めて「宣教」が必要だと思うのです。洗礼を受けて何十年、堅信式を受けて何十年という人にも、あなたは、今、ほんとうにイエスさまに出会っていますか。福音に触れていますか。信仰の喜びに溢れていますかと尋ねられた時、いかがでしょうか。生き生きとした信仰生活を送っていると確信しているでしょうか。  「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(13節)  パウロは、私たちに成熟した信仰者となること、成長する信仰を求めます。「成熟」の反対語は「未熟」です。未熟な人間とはまだ成長しきっていない子供のことです。肉体的にも、精神的にも、知識や判断能力においても、おとなではない未完成の人間です。  教会はキリストを頭とするキリストの体です。キリストの体である教会は、おとなの体、おとなの教会であることが求められます。  その姿は、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していく教会です。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによって、(その部分、部分は)しっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体である教会を成長させ、そして、同時に、私たちも一人一人が愛によって造り上げられ、成長させられていくのです。  教会は、キリストに向かって成長し続ける教会でなければなりません。そして、そのためには、体の部分である私たち一人一人の信仰が成長し続けていなければなりません。「成長する信仰」と「成長する教会」について、深く考えてみたいと思います。 〔2009年7月26日 聖霊降臨後第8主日(B-12) 於・ 奈良基督教会〕