新しい人を身に着ける

2009年08月02日
エフェソ4:22ー24  だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。 (エフェソ4:22ー24)  今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。          (コロサイ3:8ー10)  私が、司祭になりたての頃でした。大阪の梅田、阪急デパートの1階の人混みの中で、ある人と待ち合わせをしていました。誰と会う約束だったのか、どこへ行こうとしていたのか全く覚えていません。大勢の人が行き交う雑踏の中、黒いスーツを着て、白いカラーをして、いわゆる司祭の服装をして、壁か柱の前に立っていました。 その時、ある若い男の人が、私の前を通り過ぎたと思うと、2、3歩後ろへ戻ってきて、突然、私に言いました。 「あんた、牧師さんか?」  私が黙ってうなずくと、 「要するに人間は、人間らしく生きることがだいじなことや」  と言って去って行きました。  突然のことで、私はぽかんとして何も言い返すことができず、ぼーっと立っていました。  しかし、その時の言葉が気になり、何十年経っても、今でも覚えています。それ以来、「人間らしく」という言葉が耳につきます。  その人は、仏教やキリスト教やその他の宗教についても、いわゆる宗教や信仰、信心というようなものを一切認めない。それは、人間を束縛するものだ、人間は自由奔放に生きるべきだと言いたかったのではないかと思います。  皆さんは、「ほんとうに人間らしく生きる」というと、どのような姿を思い浮かべるでしょうか。  子供の頃から、「男らしくしなさい」とか「女らしくしなさい」と言われて育ちましたし、「子供らしい」とか「学者らしい」とか、「らしい」という言葉をよく使います。  あらためて辞書を引いてみますと、「らしい」とは、「‥‥として特質をよくそなえている」「いかにも‥‥の様子である」「‥‥にふさわしい」などの意味を表す。名詞などについて形容詞をつくるとあります。  一般的に、いかにも人間らしいとか人間らしくというと、いわゆる人間の欲望のままに、食べたい時に食べ、寝たい時に寝て、何でもしたいときにする、したくない時にはしない、そのような野生の動物のような生き方を、「人間らしい」と言っているような気がします。  辞書の言葉に当てはめて考えてみますと、「人間として特質をよく備えている」ということになります。人間としての特別の性質、他の動物にはない人間だけが持っている特殊な性質、そしてすべての人間が共通して持っている性質、それをよく備えている人が「人間らしい」人、人間らしく生きているということになります。  そうすると、それでは「人間とは何か」という難しい問題にぶつかります。これも答えは千差万別で、それぞれの立場、経験、知識によって、人間観は違います。  そうすると、私たちは、何かを基準としなければなりませんし、過去の歴史の中に生きた人々、哲学者や思想家、宗教家の思想を学んだり、信じたりします。  私たちが、旧約聖書、新約聖書のすべてから、「人間とは何か」を学びます。聖書に描かれている人間は、神さまとの関係において描かれている「人間」です。  旧約聖書のいちばん最初の創世記という書があります。さらにその最初の章には、「創造物語」が記されています。2千年も3千年も昔に書かれた「神話物語」です。皆さんよくご存じのアダムとエバの物語です。ここに、人間とは何かという問いに対する答え、すべての人間に共通する「人間の本質」が描かれています。  第1に、人間は、他のすべての動物や植物や、すべての被造物と同じように、神さまによって造られたものであるということです。自分の意志で生まれてきた人はいません。神によって生命が与えられ、生まれさせられたのです。「すべて善しとされて」生まれてきたのです。  第2に、人間は、神のかたちに似せて造られました。そこが、他の動物とちがいます。単に万物の霊長としてというだけでなく、言語を持ち、思想を持ち、理性を持つ。創造力を持ち、より多くの自由が与えられています。神と同じではなく、神に似たものとして多くの能力や力が与えられています。  第3に、神は人に、掟を与えました。「食べてはならない」木の実を通して、神の命令に背いてはならないことを教えました。自由を与えるとともに、何が善で何が悪であるかを知る規律を与えました。「目が開け、神のように善悪を知るものとなる」、人間にとって「神のようになる」というこれほど大きな誘惑はありません。  第4に、人は、誘惑に負け、食べてはならない方の木の実を食べてしまいました。神の命令に背いてのです。神のようになりたい、神になりたいという罪を犯し続けます。その時から、人は神に追われ、生き方、在り方を問われ続けます。「どこにいるのか」と。  人間の不幸のすべての原因はここにあります。神と人との断絶の状態がから解放されなければ、人間には救いがありません。  聖書では、このようにアダムとエバの神話物語を通して「人間とはこういうものだ」ということを、繰り返し述べています。同時に私たちすべての人間は、アダムでありエバであるということです。  人間が「人間らしくなる」とか「人間らしく生きる」というのは、あえて言えば、神さまが人間をお造りになった直後、神さまが「善し」とされた「人」まだ、神さまの命令に背かない前のアダムの姿をいうのではないでしょうか。  私たちは、生まれながらにして「アダムの本質」を持っています。それ以後のすべての罪の原因は、このアダムの罪すなわち「神への背反」にあります。その根本の罪が贖われなければ、私たちには救いはありません。  パウロは、ローマの信徒への手紙5章で、アダムとキリストの関係について述べています。(12節〜21節)  14節〜15節「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」  18節〜19節「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」  神は、そのひとり子を世に遣わし、その命を十字架につけることによって、その命を代償として、神と人との和解がもたらされたのだと言います。それは、神の側の一方的な恵みの賜物として与えられたのです。そのキリストの恵みの賜物を受け、「救い」にあずかるためには、私たちは何をしたらいいのでしょうか。  それは、イエス・キリストを信じ、この方を受け入れ、この方に従うことを決心することです。  さらに、もっと具体的に、キリストを信じ、この方に従って生きようとすれば、どのようにしたらいいのでしょうか。  これに対して、パウロは提案します。  エフェソの信徒への手紙4章22節以下に言います。  「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てなさい。」言いかえれば、アダムにとどまらず、アダムを脱ぎ捨てなさいということです。 そして、23節「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」イエス・キリストを身に着けなさい。  コロサイの信徒への手紙3章では、「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」 (コロサイ3:9ー10)  古い衣服を脱ぎ捨て、新しい衣服に着替えなさいと言います。この衣服は、デパートに行っても、商店街に行っても売っていません。 例えば、聖公会の司祭やカトリックの神父は、見るからにそれとわかる服装をしています。「私はクリスチャンです」ということを公表して歩いているようなものです。電車に乗っても、飲み屋に行ってもこの格好をしています。人の目も気になりますが、いつも自分で自覚して生活していることになります。  しかし、ほんとうは、目に見える服装ではなく、心にイエス・キリストを着ている、新しい人を身に着け、そして、それは、日々新たにされていかなければなりません。  今日の使徒書から学びましょう。 〔2009年8月2日 聖霊降臨後第9主日(B-13) 桑名エピファニー教会〕