神に倣う者となりなさい
2009年08月09日
エフェソの信徒への手紙4:32〜5:2
「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」
本日の使徒書、エフェソの信徒への手紙から学びたいと思います。
パウロが、ギリシャにあるエフェソの教会の信徒に宛てた手紙の一節です。パウロは、命がけで地中海沿岸の各地を伝道旅行し、当時のギリシャ文化とローマ文化が交流する地、都会的な繁栄にあふれかえる港湾都市、「エフェソ」を訪れ、3年ほど滞在したと使徒言行録は伝えています。パウロは、エフェソの教会の信徒一人一人の顔を思い浮かべながら切々と手紙を書きました。
私たちは今、私たち一人一人に宛てられたパウロからの手紙としてこれを受け取り、心してこれを読みたいと思います。
さて、このエフェソの信徒への手紙5章1節に、「神に倣う者となりなさい」という言葉があります。
最初に、この「倣う者」という言葉に、少しこだわってみたいと思います。英語の聖書を開いてみますと、この「倣う者」は「イミテイーター」とあります。真似する人という意味です。私たちは、すぐに「イミテイション」という言葉を思い出します。模倣、まね、模造品、にせ者、まがい物という言葉を連想します。悪い意味ばかりではなく、「真似をする」、「倣う」ということです。
パウロは、たびたびこの真似をする者、倣う者(ミメーテース)という言葉を使います。「ある出会った人の特徴ある個性または態度を見て、見習い真似る」、「模範となる人の生き方や、その人全体から見習い真似る」ということだと思います。
私が神学生の頃、45,6年前のことですが、神学校で寮生活をしていまして、学期末など、1週間ぶっ通しの死ぬかと思うほどの試験があり、その最後の試験が終わった時には、神学生全員が何とも言えない解放感に浸ります。チャペルでの晩祷(夕の礼拝)が終わり、夕食を大急ぎですせると、用賀の町に一軒だけある映画館に、みんなで行きます。神学校には当時テレビなどなく、いつも3本立て55円の映画でした。石原裕次郎、小林旭、宍戸錠などの日活映画専門で、小林旭の「渡り鳥シリーズ」とか「銀座旋風シリーズ」とかを毎学期観たのを覚えています。映画館を出ると、門限ぎりぎりに帰るのですが、神学生みんな小林旭になりきっていて、肩をいからし、蟹股になり、ピストルを持っているような手つきをします。高倉健のやくざ映画を観ると、観客はみんな高倉健になりきって出てくると言います。その当時の神学生は、それぞれみんないい牧師になって、定年を迎えています。
格好いいとか、立派な人だとなるとあの人のようになりたい、強くなりたいという思いから、思わず真似をしてしまうということがよくあります。
世にさまざまな職業、仕事があり、教育の世界でもそうですが、どの世界でも、やはり師匠や親方から弟子に、先生から生徒に、先輩から後輩にと、技術や業、思想や考え方が伝授されていきます。子供が育つのもそうですが、子供はまず親の真似をして言葉や生活習慣を身につけます。弟子や生徒は、徹底的に基礎が教えられますが、そのためには先ず師匠や先生の真似をして、繰り返し倣う者となることが求められています。徒弟制度というと古く感じますが、だいじなことだと思います。時代が変わってもあらゆる世界で(学問、政治、芸能、スポーツ、茶道、華道、書道、等々)、真似る、倣うという方法で、伝統や生活様式、価値観、文化が受け継がれていきます。
宗教の世界、信仰生活においても、同じように信仰そのものが、礼拝や生活習慣が受け継がれていきます。きびしい修業生活による場合もありますし、神学の勉強によって、礼拝生活を守ることによって、さまざまな場でこれが行われます。キリスト教会の2千年の歴史をふり返っても、そのことがわかります。
私は、この頃、教会においてこのよき慣例が失われ、その結果いろいろな初歩的な問題が起こっているような気がします。
さて、パウロは、その手紙の中で8回「倣う者」という言葉を使っていますが、パウロは「倣う者になりなさい」と言うとき、「誰に倣いさい」と言っているでしょうか。
今日の使徒書エフェソ5章1節では、「神に倣う者となりなさい」と言っています。
ローマの信徒への手紙15章5節では、パウロは、
「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、6:心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」といい、ここでは「キリスト・イエスに倣って」とあります。
コリントの信徒への第一の手紙4章16節では、
「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」と言い、また、11章1節では、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」と言っています。
さらに、テサロニケの信徒への第一の手紙2章14節では、
「14:兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。」と言っています。
パウロの手紙には、「神に倣う者となりなさい」、「イエス・キリストに倣う者となりなさい」、「わたし(パウロ)に倣う者になりなさい」、そして「神の諸教会に倣う者となりなさい」と、4通りの「倣う者」が記されています。
神、イエス・キリスト、パウロ、教会、どれに倣えというのでしょうか。
神は、すべての源です。力、忍耐、愛、など、あらゆるものの源です。神は、人を神のかたちに似せてお造りになりました。全知全能の神に倣う者にはなれませんが、神の忍耐、神の愛、神のゆるしにおいて、その大きさ、深さにおいて「倣う者」になることができます。
イエス・キリストは、神の御子です。人の姿をとられたその生涯において、終始、徹底的に神に倣う方でありました。従って、キリストに倣う者は、神に倣う者と同じです。
パウロは、わたしに倣う者となってほしいと願います。それは、パウロが、完全で、誤りなく、強い人だから、わたしに見倣いなさいと、そんな傲慢なことを言っているのではありません。「わたしはキリストに倣う者となる」ことに一生懸命努めています。そのように「あなたがたも私に倣って、キリストに倣う者となりなさい」という意味です。パウロは、地中海沿岸諸国への伝道旅行に出かけ、数知れない迫害を受け、旅行中の災難に遭い、何度も死ぬ思いをしました。その姿は、イエス・キリストの受難に倣う者でした。
最後に「神の諸教会に倣う者になりました」と、教会に倣う者となったテサロニケの教会をほめています。それは「ユダヤにある教会、クリスチャンが、同胞ユダヤ人たちから迫害を受け、苦しめられたように、あなたがたもまたギリシャにいるユダヤ人同胞から苦しめられたからです」といい、教会の内部に抱えている諸問題、教会の外の世界との間にある諸問題、それらの苦難と闘っている教会の姿を見て、「ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました」と、やっと一人前の教会になったとほめています。
パウロのいう「倣う者」になりなさいという勧告に耳を傾けてきましたが、それでは、私たちが「倣う者となる」ためには、私たちは具体的に、どのように実行したらいいでしょうか。
それは、小林旭や高倉健や渥美清が演じる主人公、やくざやふうてんの寅さんになりきってみてはどうでしょうか。肩で風を切り、蟹股で歩くように、気前よく啖呵をきるように、イエスさまの真似をしてみてはどうでしょうか。パウロの真似をしてみてはどうでしょうか。
「こんな時、神さまならどちらを喜ばれるだろうか」、「イエスさまならどうなさるか」、「パウロなら何と言うだろうか」と、日常の生活の中で、また、いろいろな問題に直面した時に、ちょっと立ちどまって考えてみることをしてみてはどうでしょうか。
一つの結論が出たら、勇気をもって、忍耐して、それを実行することです。それが「キリストに倣う者」となり、「キリストに倣う者として生きる」ことだと思います。
〔2009年8月9日 聖霊降臨後第10主日(B-14) 京都聖ステパノ教会〕