小事の向こうにある大事
2009年08月30日
マルコによる福音書7:1〜8、14〜15、21〜23
1 焼き茄子の恨み
「秋茄子は嫁にくわすな」ということわざがあります。これは秋の茄子は特別に美味しいので嫁なんかに食べさせるなと、姑さんのほうから言っている言葉です。
反対に、「秋茄子はしゅうとの留守にばかり食い」というお嫁さんの側から詠まれた古川柳があります。
いずれにせよ、秋の茄子は美味しいということからきていることわざであり、川柳だと思います。
1991年に書かれたもので、ちょっと古いのですが、ある本に次のような新聞のコラム欄が紹介されていました。(奥村一郎選集 第1巻 P.63)
「秋ナスは嫁に食わすな」ということわざもあるが、嫁から焼きナスを食べさせてもらえなかったばっかりに、飛行機に飛び込み自殺をはかった姑がある。この月の初めのある夜、大阪空港のターミナルビルのかげから滑走路めざして、思いつめたように走って行くおばあさんを、空港警察署員が抱きとめたところ、豊中市の無職Aさん(67歳)で、夕食に出たおいしい焼きナスを、嫁がちょっぴりしか食べさせなかったため、離陸するジェット機の下にねころび、車輪に引かれて死んでやると家を飛び出したことがわかった。同署員の汗だくの説得で、家族に引き取られたが、飛行機投身自殺は、ライト兄弟以来例がなく、日頃ハイジャック防止に目を光らせている署員たちも、思わぬ伏兵に、「女の執念はおそろしい」と首をすくめていた。
冷静に考えると、小さな事、ささいな事が、とんでもない結果を生んでしまうことがよくあります。
私たちの日々の生活を、一歩さがってふり返ってみますと、この焼きナスのおばさんのことが笑えないようなことが起こっています。理性なのか、常識なのか、どこかに壊れそうなブレーキがあって、やっとそれほどの大事にならないですんでいるというようなことがいくらでもあります。
そもそも、宗教というものは、このような小さな事、些細な事と、大事なこと、生命にかかわる最も大きな事とが、それが転倒して、逆転していることを、正常な状態にもどすことにあると言えます。
この世の小事や些事を捨てて、人生の一大事を追求すること、そこに信仰の出発があり、終点があるとも言うことができます。
2 ファリサイ派のいいがかり
さて、今日の福音書ですが、ユダヤ教の一派ファリサイ派の人たちや律法学者たちが、はるばるエルサレムからイエスさまのところにやってきました。そして、イエスさまや弟子たちの言動に、少しでも不審なところがあれば訴えてやろうと、見張っていたに違いありません。
そこで、イエスさまの弟子たちの中の何人かが、食事の前に手を洗わないで、つまり汚れた手で食事をしているのを見つけました。
そして、ファリサイ派、律法学者たちがイエスさまに言いました。
「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、どうして汚れた手で食事をするのですか」と。
現在、私たちの社会では、「豚インフルエンザ」「A型インフルエンザ」が再び大流行の恐れがあるということで、毎日、テレビや新聞を騒がせています。亡くなった人が出ていますし、学校では感染を防ぐために学級閉鎖を行ない、手洗い、うがい、マスクの着用などいが繰り返し呼びかけられています。
病気の感染を防ぐために丁寧に手を洗う、食事前には手を洗うということは、私たちは小さい子どもの頃から教えられて常識になっています。私たちが食事前に手を洗うというのは、衛生的な面から言われています。いわゆる手についたウイルスによる病気の感染を防ぐというところから、手を清潔にするとか、うがいをするとかをすすめられています。
ところが、イエスさまの時代に、ファリサイ派や律法学者が見つけて問題にし、弟子たちを非難した理由は、そのような衛生的な考えや知識などがあって言われていたものではありません。全く関係がありません。3節以下に、次のように説明されています。
「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」
彼らの理由は、宗教的な理由から来るものでした。異教徒、罪人は汚れているという差別的な考えが強く、異教徒や罪人が触ったもの、彼らが神に供えたもの、使ったものなどに、どこかで触れているかも知れない、それが手から口に入ると、自分自身も汚れると言い伝えられ、不浄を洗い落とすためというのが理由でありました。 このような言い伝えがしきたりとなり、宗教的な汚れや儀式的な汚れを恐れ、「念入りに手を洗ってからでないと食事をしない、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど」と、どんどんとエスカレートしていき、このような言い伝えを守っている人が、正しい人、信仰深い人だと考えられていました。そして、それだけではなく、手を洗わない人を非難し、排斥しました。
イエスさまに向かって発した非難「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、どうして汚れた手で食事をするのですか」という言葉は、単に手を洗わないということだけではなく、彼らの道徳性を疑い、生活の仕方や生き方、信仰そのものに言いがかりをつけていることがわかります。
食事前に手を洗うか洗わないかということは、まことに小さな出来事です。しかし、それがゆるせない、だまっていられないとなった時の気持ちは、焼ナスが食べられなかったおばさんの思い詰めた心境と同じようにどんどんふくらんでいって、黙っていられなかったのではないでしょうか。
3 神の掟と人間の言い伝え
これに対して、イエスさまは彼らに言われました。
「預言者イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見抜いて預言しているではないか。イザヤはこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとしておしえ、
むなしくわたしをあがめている。』
これは、イザヤ書29章13節から引用されたものです。
ユダヤ人は、口先で「神さま、神さま」と言って、いかにも神を敬っているかのようにふるまっているが、しかし、本心は、神の心、神の思いとは遠く離れていて、自分勝手なことをしているだけだ。自分たちで勝手な解釈をし、言い伝えと称して勝手にそれを教え、守っているだけだと。
もっと具合が悪いのは、信仰とはそういうものだと思い込んでいる、それが常識だと思い込んでいることです。
4 小事と大事
それでは、この世の中には、小さなこと些細なことと、大事なことがあって、小さな事はどうでもいい、考えなくていい、細かいことにこだわらなくてもいいということなのでしょうか。
イエスさまが教えられるのは、何が大事で、何が大事でないか見分ける力、そして、その小事の向こうに大事があることを知りなさいと言われます。決して小さいことはどうでもいいといっておられるわけではありません。
イエスさまが十字架につけられる直前のある出来事を思い出します。ヨハネの福音書12章から紹介しますと、
過越祭の6日前に、イエスさまはベタニアに行かれ、マルタ、マリア、ラザロの家に招かれました。イエスさまのためにそこで夕食が用意された。イエスさまは弟子たちと共に食事の席に着いておられました。
そのとき、この家のマリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。部屋の中は香油の香りでいっぱいになりました。
弟子の一人で、あのイスカリオテのユダが言いました。
「なぜ、そんなもったいないことをするのか。この香油を3百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と。
イエスさまは言われました。
「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
ナルドの香油は高価なものでした。この香油を、マリアは何も言わないで、イエスさまの足に塗りました。それは、お葬式の時にする行為でした。イエスさまの足に高価な香油を塗って、自分の髪の毛で拭うという小さな行為ですが、これを見た弟子たちは「もったいない」「貧しい人たちに施した方がいい」と、いたって常識的な意見を述べ、マリアの行為を非難しました。それはいたって正論ですし、その時の気持ちは、ファリサイ派や律法学者と同じです。黙っていられない気持ちだったに違いありません。
しかし、このベタニアのマリアがしたこの小さな行為には、口には出さない大きな意味が示されていました。
「あなたは、間もなく死のうとなさっているのですね。神さまのみ心に従おうとなさっているのですね。誰もとめることはできません。あなたの心の内を思うと、胸が張り裂けそうです。わたしには、あなたの気持ちがわかります」という、最大限のマリアの意思表示がなされていました。この小さな行為を通して、キリストの十字架を受け入れ、神さまがキリストを通してなさろうとする、すべての人を救うという他のなにものにも比べようのない大事業が受け入れられているのでした。
これに対して、イエスさまは、マルコの福音書で見ますと、
「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マルコ14:6〜9)。こう言って、このベタニアのマリアを受け入れられました。
手を洗うか洗わないかという小さなことで、ファリサイ派、律法学者から言い伝えを守っていないと非難された弟子たちが、次の場面では、ベタニアのマリアの小さな行為を見て、常識では考えられないとマリアを非難し、苛立ち、怒り、訴えている同じ立場に立っているのです。そして、私たちも毎日、その立場を繰り返しているのではないでしょうか。
さて、冒頭の「焼きナス」を十分食べさせてもらえなかったおばさんのことですが、このおばさんの苦しみは、世にいう嫁、姑の難しさを裏書きしています。そこには焼きナスそのものに問題があるのではなく、嫁を愛せない、嫁に愛されない苦しみが、このおばさんを飛び込み自殺まで決心させるような心境に追いやったのです。
これは、たかが焼きナスという小事ではなく、大きな問題、大事、すなわち「愛」という問題が、その向こうにあります。これは、すべての人間が、いつの時代、どこにあっても苦しみ続けてきたことであり、また、いつまでも苦しみ続ける問題です。
苦しむのは、焼きナスのためではなく、「愛」がないことにほかなりません。しかし、愛さないことだけで、人間は苦しむことはありません。むしろ、愛したいからこそ苦しむのです。もっと正確に言えば、愛したいのに愛せないために苦しむのではないでしょうか。
心の底では、誰も、みんな、愛したい、愛されたいと思っているのに、それを願っているのに、現実は、実際は、人を前にして、愛することも、愛されることもできない、何ともいえない、無力感におそわれます。その結果、「愛したい、愛されたい」という願いが、「愛さない、愛すまい」という思いにいたり、私たちの心は完全に悪魔の支配下に入ってしまうということです。
焼きナスという小事を通して、その向こうにある「愛」という心の大事に出会うこと、心の大事に気付くことが大切です。
愛せない、愛されない悲しみに耐えつつ、愛したい願いを深めること、これこそが「神の国と神の義」であるキリストの命に生かされることなのです。
それを気付かせてくれるのが、キリストの苦しみであり、十字架であり、この十字架を通して与えられた神の愛です。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34、35)
小事の向こうにある大事に気づきたいと思います。
〔2009年8月30日 聖霊降臨後第13主日(B-17)説教 聖ルシヤ教会〕