「エッファタ、開かれよ」
2009年09月06日
マルコによる福音書7:31−37
私がまだ若い頃、30代の初めのことでした。ある日の午後、教会の向かいに住んでいるヘンリー・ポールさんから電話がかかってきました。「母が病気で苦しんでいます。ちょっと来て下さい。」と言ってきました。このヘンリーさんのお父さんは、インド人で、日本に長く定住して貿易商を営んでいましたが、数年前に、病気で亡くなりました。お母さんは、日本人で、脳溢血で倒れ、半身不随でベッドに寝たきりでした。
この一家は、クリスチャン一家なのですが、インドのマル・トマ・チャーチという教派に属していて、この教派の教会は日本にありません。お父さんが元気なときには、家に祭壇を設けて、そこで毎日礼拝をしていました。教会の真向かいなのですが、長い間、聖公会の教会へは来ようとはしなかったのですが、何か機会があって話すようになり、私の方からは何回か訪ねていったことがありました。
電話を受けて、急いでヘンリーさんの家に行きますと、2階のベッドにお母さんが寝ていて、頭が割れるように痛いと言って苦しんでいます。ベッドのまわりには、ヘンリーさんのお姉さんと2人の妹さん、4人の子どもさんたちが心配そうに見守っていました。
私が着くなり、「聖書には、イエスさまが手をおかれると、病気が治ったと書いてあります。お医者さんに来てもらって診察を受けたのですが、痛みがとれません。もう神さまにお願いするより助かる方法はありません。先生、母の病気を治して下さい」と言って、詰め寄られました。4人の子どもさんたち、いちばん下の娘さんは、高校生だったと思います。ほんとうに真剣な目つきで、すがりつかんばかりに迫って来られました。
イエスさまは、弟子たちを派遣する時に、「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と命じ、病人をいやす力をお与えになりました。そして、弟子たちはそのようにしたと記されています。
その時、私の頭の中では、そのような聖書の言葉や、イエスさまが病人をいやす奇跡を行っておられる場面がぐるぐる回っています。何とかなるものならイエスさまのように、「あなたの罪は、赦された」「起き上がって床を担いで帰れ」と言いたい。そのように言えたらどんなにいいだろうと思いました。
しかし、一方では、イエスさまだからそのような奇跡が起こったのであって、私が奇跡など起こせるはずがないという思いがあります。そんなことは出来ないと言うと、それでも牧師か、司祭かと言われそうな気がします。
そこで、私は、「わかりました。お祈りしましょう。そのためには、ちゃんとした心の準備が必要です。一度教会に帰って、出なおして来ます」と言って帰ってきました。ヘンリーさんのお母さんが診てもらっている近所の医者とは親しくしていましたので、教会から電話をかけて様子を聞きました。できる限りの手はつくしたのだけれども、頭が痛いというのが取れないのだということでした。
(50年も前のことですから、自宅で寝ていることも多く、今だったら、救急車で病院に運んで、別の手当てがなされていたと思います。)
私は、「どうしよう、どうしよう」と思いながら、鞄に式服を詰めて、ヘンリーさんの家にもう一度行きました。
おもむろに、式服を着け、ストールをつけて、「神さまの奇跡が起こるように祈りましょう。ほんとうに真剣に全身全霊を込めて祈りましょう。皆さんも一緒に祈ってください」と言いました。
そして、一生懸命に祈りました。力を振り絞って祈りました。祈祷書の病者按手の式文を使って、頭に手を置いて、聖霊のみ力が今、この瞬間、この人の上に降ってこの人をいやして下さるようにと祈りました。そこにいた子どもたちも一生懸命祈りました。祈り終わって、目を開くと、その病人は、動く方の手で私の首からかかっているストールをしっかり握りしめ、その手が震えていました。
お祈りの後、なんともいえない虚脱感があり、病人さんに静かに眠ってくださいと言って、実は、這々の体で挨拶もそこそこに逃げるようにして帰ってきました。
一夜たって、次の日の朝早く、ヘンリーさんに電話をかけて、恐る恐るその後の容体を聞きました。するとヘンリーさんは、
「あっ、今、先生に電話しようと思ってたところなんですよ。母の頭痛が治っているです。先生、やっぱり、奇跡が起こりました。母は、先生が帰られたあと、ずーっと眠りました。今朝まで眠り続けました。今朝目が覚めると頭の痛みが取れて、すっきりしてるんです。先生、有難うございました。」という返事でした。驚いたのは、私のほうで、「えーーっ」と言ってしまいました。
そのようなことがきっかけで、ヘンリーさんのご家族は教会につながり、1年ほど経って、お母さんは亡くなったのですが教会の礼拝堂でお葬式をしました。
それから、2、3ケ月経って、当時の大阪教区主教、小池主教さんのお宅に伺った時、何かの話の流れでこの話をしました。今、話した通りの話をしました。
「奇跡が起こったと言われて、私のほうが、えーーっと言って驚いたのですよ」と言いました。すると、その話を聞いておられた小池主教さんは、突然真顔になって、「君は、なんて不信仰ことをいうのだ。真剣に祈って、奇跡が起こることを願って、奇跡が起こったのじゃないか。当たり前のことだよ。奇跡を起こしてくださいといって、神さまにお願いして、それが、起こったからといって驚くのは、不信仰も甚だしい」と、ひどく叱られました。
神さまを信じて、信頼して、お願いしておきながら、その結果に自分で驚くのは、神さまの力、み心に対して疑いを持つことであり、信頼していなかったことになる。なんて不信仰なんだと、教えられました。
その時、奇跡の物語や出来事というのは、単に治ったとか救われたということ以外に、これに出会った人が自身が、神さまへの信頼、神さまへの信仰が試されることなのだということを教えられました。
さて、今日の福音書ですが、イエスさまが、耳が聞こえず舌の回らない人をいやされた奇跡が紹介されています。
ある時、人々が、耳が聞こえず舌の回らない人、一人の聾唖者を、イエスさまのもとに連れて来ました。そして、その人の頭に手を置いてくださるようにとお願いしました。
すると、イエスさまは、耳が聞こえず舌の回らないこの人だけを群衆の中から誰もいない所に連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われました。これは、イエスさまの時代に日常会話に使われていたアラム語で、「開かれよ」「開け」という意味です。
この耳が聞こえず舌の回らないこの人の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになりました。
イエスさまは人々に、だれにもこのことを話してはいけないと口止めをされましたが、反対に人々はかえってますます言い広めました。そして、人々はすっかり驚いて言いました。
「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」 彼らは、イザヤ書35章の言葉を思い出したにちがいありません。
聖書には、たくさんの奇跡物語があります。
私たちの側からしますと、病気が治った、目が見えるようになった、耳が聞こえるようになった、ものが言えるようになった、歩けるようになった、救われたのだ、助けられたのだ‥‥‥と、まず、そのことについて喜びます。確かに、目が見えない、耳が聞こえない、歩けない、さまざまな病気をかかえている、それは、つらいことです。
具体的に、働くことができないことから貧困であり、人間関係が持てないなど、経済的にも社会的にも、それこそすべての不幸の原因はそこにあり、これさえ癒されればという気持ちになります。ですから、具体的な、目の前の、今、困っている、苦しんでいるその原因が取り除かれることが、すべてを解決することであり、そこから救われたいと一生懸命にそれを求めます。そして、それが救いのすべてだと考えてしまいます。
この耳が聞こえず舌の回らなかったこの人は、確かに救われたのです。耳が聞こえるようになり、ものがしゃべれるようになりました。具体的に、いちばん不幸の根源だと思っていることが取り除かれ、目の前の当面の問題は解決したのです。
ここで、注意したいことは、この奇跡の出来事を見た人たち、または、その話を聞いた人たちは、この人は誰だ。この方は何者だ。そして、ここに起こっていることは何だと言ったことです。
イエスさまが奇跡を行われる目的、奇跡を通して示されようとするメッセージの中心は、人の力に頼らず、物に頼らず、ただ神のみを信頼せよということです。ほんとうの救いは、目先の、具体的に見えるような救いだけを求めるのではなく、神への信頼、すなわち、「心から信頼する」という人間一人一人の心の問題にあるということです。
イエスさまは、「エファタ」「開かれよ」と言われました。
私たちの耳は、目と違って、いつも開かれているのですが、しかし、すべての音や声を聞いているわけではありません。耳には入っているのですが、私たちは聞いていない、聞こえていないということがよくあります。
人間の聴覚というのは、よくできていて、私たちの脳の働き、神経の働きによって、聴く音と聞かない音を、聞かなくてもよい音を、無意識のうちに選り分けています。そのことを意識して、聴こうと思ったり、聴きたくないと耳にフタをさせるのは、私たちが意識、私たちの思いであり、私たちの心がそのようにさせるのです。
イエスさまは、私たちに向かって、「エファタ」「開かれよ」と言われます。
神さまに向かって、私たちの心の耳が開かれること、イエスさまを見つめる心の目が開かれること、私たちが、喜びにあふれて信仰を告白する口が開かれること、その時、神の栄光が回復されるのです。神の声は、つねに耳に入って来ています。しかし、これを聴こうとする意識、私たちの心が開かれなければ、聞いていても聞こえないのです。私たちの心が開かれることこそが、最大の奇跡なのです。私たちに奇跡を行う力を与えて下さいと願うよりも大切なことは、私に奇跡を起こしてくださいと願うことです。
今日、「エファタ」「開かれよ」というイエスさまの奇跡を起こす言葉が、私たちに発せられています。この言葉が聞かされる時、私たちは「どうぞ、私の心を、開いてください」と答え、私たち一人一人の身に、奇跡が起こることを真剣に願い、祈りたいと思います。
〔2009年9月6日 聖霊降臨後第14主日(B-18) 桑名エピファニー教会〕