あなたは、メシアです。
2009年09月13日
マルコによる福音書8:27〜38
今日は、マルコの福音書8章から学びたいと思います。
今日の福音書は、8章27節から始まっているのですが、その前の個所、8章22節〜26節を読んでみたいと思います。ベトサイダという所で、イエスさまが盲人をいやされたという奇跡物語です。
「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、『この村に入ってはいけない』と言って、その人を家に帰された。」
マルコの福音書は、西暦65年頃、マルコという人が、イエスさまにまつわる様々な出来事や教えについて書かれた資料を集めて、編集したものであるということがわかっています。イエスさまが亡くなって30年以上経って、あちこちにあるイエスさまの教えや出来事のメモ(断片)を集めて、後の時代の人々にイエスさまのことをわかってもらおうとして、編集執筆されたものです。したがってそこには、編集者の言いたいこと、気持ちというものが表れているということができます。
今、読みましたマルコ8:22〜26と、その後の8:27〜30とが、わざわざここに並べて置かれていることに、編集者マルコが強調したいことがあることに気づきます。
イエスさまと弟子たちが、ベトサイダというガリラヤ湖の北の湖畔にある町にやってきました。するとこの町の人々が一人の盲人をイエスさまのところに連れて来て、触れてやっていただきたいと願いました。この人の目を見えるようにしてやっていただきたいと願って連れてきたのです。
イエスさまは、盲人の手を取って、村の外、誰もいない静かな所へ連れ出して、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになりました。すると、盲人は見えるようになって、言いました。
「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
そこで、イエスさまが、もう一度両手をその目に当てられると、さらによく見えてきて、目の病がいやされ、何でもはっきり見えるようになりました。イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人をまっすぐ家に帰されました。人々の間に噂だけが広がっていくことを心配されたのでした。
この盲人が、どこの誰だかわかりません。イエスさまを信じていたのかどうかもわかりません。何んにもわからないままイエスさまのところに連れて来られたのかも知れません。そして、目をいやしていただいた後、この盲人だった人は、どこへ行って、どうなったのかも記されていません。
さて、この盲人の目が見えるようになったという奇跡物語を、頭に置きながら、今日の福音書8:27〜30にもう一度目を向けますといろいろなことを考えさせられます。
イエスさまは、弟子たちと共にフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになりました。その途中で、イエスさまは弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っていのだろうか」とお尋ねになりました。すると、弟子たち、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。」またほかの弟子たちは「『エリヤだ』と言っている人もいます」、また「『預言者の一人だ』と言っている人たちもいます。」と口々に答えました。そこでイエスさまは、弟子たちにもう一度お尋ねになりました。「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」と。すると、弟子たちの兄貴分であるペトロが答えました。「あなたは、メシアです」。すると、イエスさまは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められました。
ここで、イエスさまは、「人々はわたしのことを何者だと言っているのだろうか」と言っておられるのは、ご自分の噂や人気を気にしておられるのではありません。
人々は、「わたしを何処から来た者、「何者だと思っているのか」、「何をしに来た者と思っているのか」と、イエスさまが、ご自分が正しく受け取られているかどうかをお尋ねになったのです。
これに対して、弟子たち、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。」またほかの弟子たちは「『エリヤだ』と言っている人もいます」、また「『預言者の一人だ』と言っている人たちもいます」と答えました。ユダヤ人たちがイエスさまに対して持っている印象は、当たるといえども遠からず、普通の人ではないことだけは、何となくわかっている漠然とした答えを弟子たちは伝えました。
ユダヤ人たちは、過去の経験や知識に照らして、すなわち、ユダヤ民族の歴史に登場したそれらしい人物の名前を言っています。預言者エリヤだ、預言者エレミヤ(マタイ16:14)だ、バプテスマのヨハネの再来、いや生まれかわりだ、もっとほかの預言者の誰かかも知れないと、言っていますと答えました。そこに描かれているイエスさまの像は、まだ、ぼんやりしていて焦点が合っていません。何となく、神さまの側に立つ人だというぐらいの像でした。
そこで、イエスさまは、さらに念を押すように、弟子たちのほうに向き直ってお尋ねになりました。「それでは聞くが、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。
すると、ペトロが弟子たちを代表して、「あなたは、メシヤです」と答えました。メシヤとは、救い主、キリストという意味です。
マタイ福音書では、ペトロは「あなたはメシヤ、生ける神の子です」と答えたと記されています。このペテロの答えは、百点満点の信仰告白でした。ペトロがした信仰告白のこのことばによって、今までぼんやりまわりを照らしていた光が、ここでキチッと焦点を結びました。この直後、マタイ福音書では、イエスさまはペトロに「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言って褒めたと記されています。
ここで、さきほどの盲人の目が開かれ、徐々に見えてくる場面を思い出しますと、「人が見えます、木のようですが、歩いているのが分かります」とぼんやり見えていたものが、イエスさまが目に手を当たられると、さらにはっきりと、そして何でもはっきりと見えるようになったという光景と重なります。
マルコによる福音書を編集したマルコは、この盲人への奇跡の物語と、弟子たちの信仰告白にいたるイエスさまとの対話を、ここに並べることによって、私たちの信仰の在り方を示そうとしている気持ちがわかります。盲人は肉体の目を開いて頂きました。弟子たちは、信仰の目、すなわち心の目が開かれてイエスさまを見えるようになりました。
私たちのイエスさまに対する信仰は、どうでしょうか。
クリスチャンといってもいろいろなタイプがあります。
第1に、「イエスさまとは何者なのか」と問われても、イエスさまのことについて何も知らないクリスチャンがいます。それは、イエスさまが見えていない人、心の状態が盲人のままでいる人です。ほんとうはイエスさまのことが何も見えていないのに、見えていると思い込んでいる人、言い張っている人もいます。
第2に、イエスさまが何者なのか、うすうすわかっているのですが確信を持てないまま、人生を過ごしている人もいます。ぼんやり見えるようにさせて頂いてはいます。「人が見えます、木のようです。歩いているのが分かります」と、かすかにぼんやり見えています。それは、エリヤです、エレミヤです、洗礼者ヨハネです、いやその他の預言者の一人ですと手探りしているのと一緒です。自分の経験や知識を頼りにしてその範囲の中だけで理解しようとしています。そこから出ることができません。神さまのことも、イエスさまのことも、信仰や宗教のことについても、自分の経験と知識の中だけで納得し、そんなものだと思い込んでしまっています。うっすらとぼんやりとピントがぼけたまま過ごしてしまっています。
第3に、イエスさまとは何者なのか。「あなたは、メシヤです。あなたはキリストです。あなたは神の子です」と、言葉だけでなく、口先だけでなく、心の底から信仰告白が出来るクリスチャンもいます。イエスさまが求められるところにきちんとピントが合って、ほんとうの信仰の喜びにあふれ、感謝と賛美の生涯を送る人もいます。
それでは、ペトロはどうだったのでしょうか。イエスさまにほめられるような百点満点の信仰告白をしました。しかし、その直後のことです。イエスさまは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と、弟子たちに十字架の死と復活の予告なさり、ご自分の心に内を打ち明けられました。「わたしは、間もなく殺されるであろう」と、飛び切り重大なニュースを弟子たちに知らせたのです。
すると、それを聞いたペトロは、イエスさまをわきへ連れ出して、「めったなこと、死ぬなんて、縁起でもないことをおっしゃるものではありません」と、いさめ始めたのです。
そのとき、イエスさまは、振り返って弟子たちの方を見ながら、ペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている!」「お前は何もわかっていない!」という、イエスさまのお叱りを受けてしまいました。
また、最後の晩餐の後、ペトロは、イエスさまに対して「たとえ、あなたと御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と、力を込めて言いました。ほかの弟子たちも同じように言いました(マルコ14:31)。しかし、イエスさまがユダヤの役人たちに捕らえられ、裁判にかけられるために大祭司の中庭に連れて行かれた時、ペトロも人々に紛れて中庭で火に当たっていると、大祭司の家の女中に見つけられ、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言われたました。その時、ペトロは、「何のことを言っているのかわからない。そんな人は知らない」と、3度も、否定しました。
イエスさまが十字架につけられた時、ペトロたちは、恐る恐る、遠くの方から眺めているだけでした。
ペトロをはじめ、弟子たちが、ほんとうに、イエスさまのことが分かり、心の底から理解し、「あなたこそメシヤです。キリストです。あなたは神のひとり子です」と、命をがけで信仰告白ができたのは、イエスさまが、十字架につけられ、3日目によみがえられた後でした。その時、盲人の目が、奇跡によって、キリスト・イエスの力によって開かれたように、弟子たちの心の目も、聖霊の力によって心が開かれることによって、ほんものを掴み、生まれかわっていったのでした。
〔2009年9月13日 聖霊降臨後第15主日(B-18) 京都聖ステパノ教会〕