だれがいちばん偉いか

2009年09月20日
マルコ9:30〜37  私が小学校6年生の時の担任は、山本国男先生という先生でした。終戦まもない頃でした。教室で誰かが「何々さんは偉いもん」と言ったとき、その山本先生は、「偉いとはどういうことや。何を基準にしてそんなこと言えるんか」と言って、真剣な顔をして怒り始めました。その他の場面でも、「あいつは偉い」とか「あいつはアホや」というと、その先生は、真顔のなって、問い詰めたり、叱ったりしたことを覚えています。小学生ですから、何で怒られているのかよくわからないままに、何をもって人の値打ちをはかるのか、人に対して偉いとか偉くないとかいう価値判断を簡単にすべきではないと教えられたのだと思います。  さて、本日の福音書ですが、同じようなことがイエスさまと弟子たちの間のテーマになっています。  イエスさまと弟子たちが、カファルナウムの町に来て、一軒の家に着いてた時、イエスさまは、弟子たちに、「お前たちは、ここまで歩いてくる途中で何を議論していたのか」とお尋ねになりました。 弟子たちは黙っていました。実は、道々彼らが話していたことは、「だれがいちばん偉いか」ということで、そのことについて議論していたからでした。12人の弟子たちの中で誰がいちばん偉いのかというような次元の低い議論をしていたので、弟子たちは胸を張って答えられなかったのでしょう。  すると、イエスさまは、あらたまって座り、12人の弟子たちを近くに呼び寄せて言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9:33〜35)  同じマルコの福音書の10章では、さらにこのようなやりとりがあったことを伝えています。  イエスさまの12人の弟子の中に、ゼベダイの息子で、ヤコブとヨハネという兄弟がいました。ある時、このヤコブとヨハネが、イエスさまのところにやって来て、イエスに言いました。「先生、ぜひかなえていただきたいお願いがあるのですが。」  イエスさまが、「何をしてほしいのか」と言われると、2人は言いました。  「あなたが、栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスさまは言われました。「あなたがたは、自分たちが何を願っているか、なんにも分かっていない。その時が来て、このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」ヤコブとヨハネは、「できます」と答えました。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されることなのだ」と、イエスさまは言われました。  それを聞いたほかの10人の弟子たちは、ヤコブとヨハネが、他の弟子たちを出し抜いてイエスさまに自分たちのことをお願いしたので腹を立てた、怒りだしました。この弟子たちも何にもわかっていない同じ穴のむじなです。  そこで、イエスさまは、12人の弟子たちを呼び寄せて言われました。  「お前たちも知っているように、異邦人(異教徒、神を知らない人々)の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子(わたし)は、人に仕えられるためではなく仕えるために来たのだ、また、多くの人の身代金(身代わり)として自分の命を献げるために、この世に来たのだ。」(10:35〜45)  イエスさまが言われる結論は、「偉い人とはどんな人か。それは、人々に仕える者になることだ。いちばん上になりたい者は、すべての人々の僕になりなさい」ということです。仕える人とは、食事をする時に「給仕する」人の姿です。  一般の社会では、給仕する人と給仕される人では、給仕される人御主人さまとかお客さまとかの方が偉いとされています。しかし、イエスさまの価値観はそれとは180度ちがっていて、偉くなりたい人は、給仕する人、食事の世話をする人、仕える人になりなさいと言われます。  福音書9章に戻りますと、36節以下のところでは、次のように記されています。  そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、さらにこの子どもを抱き上げて言われました。  「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」  これも、同じマルコ福音書の10章を見ますと、   イエスさまに触れていただいて祝福してもらうために、ある人たちが子供たちを連れて来ました。すると、弟子たちはこの人々を叱りました。しかし、イエスさまは、これを見て憤り(怒り)、弟子たちに言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。子どもたちが来るのを妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」  そして、子供たちを抱き上げ、頭に手を置いて祝福されました。(マルコ10:13〜16)  弟子たちは、なぜ、子どもたちを連れてきたのを妨げ、子どもたちを連れて来た人たちを叱ったのでしょうか。  それは、当時の社会において、子どもの立場が認められていなかったからです。子どもの地位が低かったのです。子どもは騒がしいとか、ちょこちょこするから邪魔になるというのではなく、子どもはまだ小さくて、弱くて、無力で、何もわからない、一人前ではないのだからあっちへいっていろということで、子どもの人権というものが認められていませんでした。子どもは大人が集まっている所には、子どもは来てはならない、連れてきてはならないというのが常識でした。それで、弟子たちは、子どもを連れてきた人たちを叱ったのでした。    私たちの国では、「児童憲章」というものがあるのをご存じだと思います。1951年(昭和26年)5月5日(こどもの日)に、児童憲章制定会議というところで、「国民全体の総意に基づく約束」・「国民の総意による申し合わせ」として作成され、宣言されました。  この児童憲章は、3つの基本綱領と12条の本文から成っています。その基本綱領では「児童は、人として尊ばれる」、「児童は、社会の一員として重んぜられる」、「児童は、よい環境の中で育てられる」の3項目が挙げられています。私たちの社会では、このことが常識となっています。なっているはずです。  しかし、イエスさまの時代では、子どもの人権は認められていませんでした。そのような社会常識の中で、イエスさまは、子どもを遠ざけようとした弟子たちを叱り、子どもを抱き上げ、彼らに祝福を与え、「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われたのでした。  さて、「誰が偉いのか」と言い争っていた弟子たちの話に戻りますが、イエスさまは、「すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」と言われたあと、人として無価値な者であるとレッテルを貼られた子どもたち、その子どもの一人を抱き上げて、人々の真ん中に立たせ、さらにその子どもを抱き上げて言われました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(37節)  小さくて、弱くて、役に立たない、無力である、まだ、地位も名誉も持たない、価値がないと言われる子ども、その子どもを「わたしの名のために」受け入れる者は、わたしを受け入れることになるのだと言われます。  「ブランド」という言葉があります。ブランドもののバッグ、時計、装飾品、食品、洋服、自動車とか、ブランドものを身に付けているとか、ルイヴトンの鞄は何十万円もするとか言います。  「ブランド」とは「焼印をつけること」を意味する brander というノルウェーの古ノルド語から派生したものであるといわれています。古くから放牧している家畜にその所有者が自分の所有物であることを示すために自分のところで作った焼印を押しました。現在でも brand という言葉には、商品や家畜に押す「焼印」という意味があります。これから派生して「他のものと識別するためのしるし」という意味を持つようになりました。自分のところで作った製品やサービスを、他の製品と識別し、競争相手の製品と差別化するために用いられています。その製品の名称、マーク、デザイン、性能、サービスなどが組み合わされて、他所の製品とは違うのだ、優れているのだということを消費者、顧客に認識させることによって、顧客に安心感を与え、その製品や商品に特別の「価値」を持たせる、それがブランドというものです。  イエスさまは、「わたしの名のために」と言われました。それは、イエス・キリストという刻印を焼印をつけられることです。イエス・キリストの名がついた「ブランドもの」にされることです。そのゆえに価値あるものとされます。イエス・キリスト印の焼き印を押された者を受け入れる人は、イエスさまをお遣わしになった神さまを受け入れることなのだと言われます。  「誰が偉いのか」「偉いか偉くないのかを決める基準は何か」。  それは、イエス・キリストの所有、イエス・キリスト印のブランドものにされることにあります。     〔2009年9月20日 聖霊降臨後第16日(B-20) 上野聖ヨハネ教会〕