神 の 恵 み
2009年10月04日
ヘブライ人への手紙2:9
1 体験的に知るということ
私の母は、8年前に90歳で亡くなりました。最後の7、8年、私の家に居りました。完全な認知症とはいえませんが、老人独特の晴れたり曇ったりの状態を繰り返す毎日でした。はっきりしている時もあれば、娘時代に戻ったり、私が子どもだった頃の時代に戻ったりする時がありました。牧師館に住んでいたのですが、毎日のように、夕方になると、帰らしてもらいますと言って、風呂敷包みを持って外へ出て行き、あっちこち探しに行ったり、警察へ引き取りに行ったり、大騒ぎが起こりました。たまに私の妹や弟が遊びにくると、しっかりしていて、ちゃんと受け答えをし、彼らが帰ると、また毎日の状態に戻ります。家内も大変でしたし、まわりの人たちも大変でした。
いつも一緒にいない妹たちに、状況を訴えても、彼らの前ではけろっとしていますから、なかなか理解してもらえません。妹たちは「老人って、みんなそんなもんやで」とか言うので頭にきてしまいます。亡くなる少し前には、すぐ下の妹夫妻のところに引き取られて面倒を見てもらい、病院で亡くなりました。
なぜ、急にこんな私ごとを語り始めたのかと言いますと、物事を頭で知るということと、自分で経験して、体験的に知るということは違うということを言いたいのです。
嫁、しゅうとめの問題から老人問題、それは、昔から都会でも地方ででもどこにでもあった問題です。高齢者社会になって、ある頃から急に大きな社会になってきました。私も、若い頃から、教会の信徒の方々から同じような問題について相談され、一緒になって走り回ったり、新聞の記事にも関心を持ち、老人福祉や老人問題について書かれた本も何冊も読みました。老人施設との関係もありましたので、老人との接触の機会もずいぶんありました。老人問題については何でもよく知っている、理解していると思っていました。
しかし、自分の身内に老人をかかえ、自分が老人である母の面倒を見るということと、社会的にというか知識として老人のことについて知っているということとは、全く違うのだということに気がつきました。言いかえれば、問題を自分の身内にかかえ、自分が体験してみて初めて「知る」ということがあるということです。それは、理論や理屈で「知る」だけではなく、人間には「気持ち」とか「感情」という心の問題を伴う「知る」という知り方があるということです。
とくに、今度は自分が老人になり、父や母の年令に近づくと、それまで気づかなかったことに気づかされ、反省したり後悔したりしています。
このような体験的な知り方は、老人問題だけではなく、病人をかかえる、子どもの教育問題をかかえるなど、あらゆる問題についていえることです。社会問題でも、「平和、平和」と言いますが、平和を理念や思想でとらえる人と、実際に戦争を体験し、生死の境をさまよい、愛する人を亡くした経験を持つ人がでは、同じ「平和」という言葉を使っても違いますし、また、「沈黙」を守る重さというものもそれぞれに違いがあることがわかります。
2 体験的、直感的に知るということ
さて、今日の聖書の言葉ですが「ヘブライ人への手紙」2章9節、この一節から学びたいと思います。
「ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」
イエスさまは神の子です。神であるイエスさまは、私たち人間が住むこの世に来られました。天使よりも低い身分である人間の姿を取って、この世に来られました。そして、苦しみを受け、十字架につけられ、3日目によみがえられました。このことによって、神の子が、神としての栄光をお受けになり、そして神と共におられす。 私たちはそのことを知っています。イエスさまは、すべての人のために死んで下さいました。それは、神の恵みによるものです。このことこそが、神の恵みです。
この9節を、詳しく書き直すと、このような意味があります。
この聖書の言葉に、「イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています」という言葉がありまが、この最後の「見ています」という言葉ですが、聖書では日本語で「見る」と訳されている言葉でも、ギリシャ語では、ギノスコー、アナセオーレオー、ヘゲオマイ、セオーレオー、ホラオーとか、いろいろな言葉が使われ、少しずつニュアンスが違います。どれもみんな「見る」と訳されています。
その中で、このヘブライ人の手紙のこの個所では、ブレポー(blepo)という言葉が使われています。この言葉は、見る、見える、注意する、という意味以外に「知る」という意味を持っています。このような一般的な意味以外に、さらに新約聖書では独特の意味に使われていて、「イエス・キリストによる救いの意味を直感的に理解し、そのことを遠回し証言している」という意味なのです。
イエスさまが、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、引きずられて、重い十字架を背負わされ、苦しみを受けているところを多くの人々は見ていました。十字架につけられ、手と足に釘を打たれ、つり下げられた場面も、叫び声を挙げて息を引き取られるた瞬間も多くの人々が見ていました。3日目の朝、空っぽになったお墓を弟子たちは見ました。しかし、同じようにその光景を見ていた人たちでも、同じように見ていながら、受け取り方、心の中味は違っていました。
さらに、その出来事が証言され、聖書に書かれ、世界中の数え切れない人々が、これを読んでいるのですが、これを知る知り方、受け方が全く違います。
ただ単に、その光景を、見ていた、見たことがある、または聖書に書かれていることは知っているということと、イエス・キリストを通して神さまがなさろうとする救いの意味を直感的に理解したという知り方とでは全く違うのです。イエスさまに出会う体験的な知り方は、イエスさまの出来事を、我が身に抱え込むことであり、私の生き方とかかわってくる知り方です。その知り方は、単なる知識として知っている知り方ではなく、心を伴う、心に突き刺さってくる知り方です。
3 神の恵み
さて、イエスさまが栄光と栄誉の冠をお受けになったことを見た時、私たちは、何を直感的に理解するにでしょうか。何を、心の中に自分の出来事として受け入れることになるのでしょうか。
それは、「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのだ」ということです。
この言葉もいつも聞かされている言葉です。知ってる、知ってる、わかっている、わかっていると言ってしまいそうです。
もう少し、こだわってみたいと思います。
「神の恵み」とは、どういうものでしょうか。
運動会だ、遠足だという時、秋晴れの快晴ですと、「今日は、いいお天気に恵まれました。こんないいお天気を与えてくださったは、日頃の行いがいいから、神さまのお恵みね」などと言って、「恵み、お恵み」を連発します。何か予想外の思わぬ良いことが起こった時、自分が得をした時、嬉しいことが起こった時、思わず「お恵みだあ」と言ってしまします。しかし、何よりも先に、たとえ死の床についている臨終の時であっても、何よりも先に感謝のお祈りをささげなければならない、ほんとうの「恵み」があるということを忘れてはなりません。
昔、私が小さい頃には、乞食とかおこもさんとかルンペンとか言われる人たちを町の中でよく見かけました。道ばたや橋のたもとに座って、または、一軒ずつ戸口に立って、ものもらいをしていました。
「あわれな乞食でございます。どうぞ、一銭お恵みください」
お金でも、食べ物でも、どうぞ、お恵みくださいと言っていました。私は、「恵み」というと、いつもこの場面を思い出します。
この乞食さんの言葉を少し、理屈っぽく解説しますと、
「わたしとあなたとは、何かを頂くような関係ではございません。あなたのために、働いたわけでもなく、気持ちが良くなるようなことをしたわけでもありません。わたしがあなたのために何か労働をして、お金を頂くとすれば、それは労働に見合う当然の報酬をもらうのであって、こんなお願いをする必要はありません。しかし、わたしは、あなたに対して何もしていませんから、何かを頂く値打ちも価値もありません。だけどぺこぺこにお腹が空いていますので、あなたの同情というか、憐れみにすがってお願いするのですが、お金か食べ物を頂けないでしょうか」と言っているのだと思います。 乞食さんは、ちゃんとへりくだって、「お恵み」という言葉を正しくつかっていたのだと思います。
「お恵み」とは、受ける価値のない者が、相手の心情にすがって、何も代償を払わないで、大切なものや志し(気持ちや好意)を受けるということです。私たちと神さまとはこのような関係にあります。 私たちは、神さまに対して、何か善いことをしたでしょうか。ほめられるようなことができているでしょうか。神さまに胸を張って、何かを要求できるような生き方ができているでしょうか。
ただ、神さまのみ心に背き、罪ばかりを重ねている毎日です。自分自身の弱さと至らなさと醜さを思う時、私たちは神さまのみ前にひざまずいて懺悔するばかりです。私たちは、ただ「主よ、憐れんでください」「主よ、あわれみたまえ」と祈ることしかできない者です。
このような私たちのために、神さまは、最も大切なひとり子を与え、その命を与えてくださったのです。このような、受ける価値のない者のために、イエス・キリストは「すべての人のために死んでくださったのです」。これこそ、神さまから一方的に与えてくださる神のお恵みであり、その動機は、私たちに一人一人に対する神の愛であり、憐れみにあるのです。
そのことを、頭でわかった、わかった、知ってる、知ってるという受け取りかたではなく、体で、心で、自分の体験として、受け取るのでなければ、ほんとうにそのことを悟るのでなければ、キリストの死は、空しいものとなってしまい、そして、私たちの信仰生活も空しいものになってしまいます。
4 感謝と賛美の生活
それでは、私たちはどうすればいいのでしょうか。
ただ、私たちにできることは、神さまを賛美し、神さまに感謝をささげることだけです。心から賛美と感謝の声をあげていれば、上からの聖霊のみ力によって、私たちの心が開かれます。
日本聖公会祈祷書139頁の祈りをささげます。
全能の神、慈悲の父よ、わたしたちに豊かな恵みを与えてくださったことを感謝いたします。主はわたしたちを造り、わたしたちを守り、この世のものを与え、ことに主イエス・キリストにより世を贖って限りない愛を現し、恵みを受ける方法を示し、後の世の栄光の望みを抱かせてくださいました。どうかこのもろもろの恵みに深く感じ、ただ言葉だけでなく、自らを献げて主に仕え、生涯清い行いによって、主の栄光を現すことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。誉れと栄光が父と子と聖霊に限りなくありますように。アーメン
聖餐式、感謝と賛美の祭りをささげましょう。
〔2009年10月4日 聖霊降臨後第18主日(B-22) 桑名エピファニー教会〕