あなたに欠けているものが一つある。

2009年10月11日
マルコ10:17〜27  イエスさまが、旅に出ようとされた時、ある人がイエスさまの所に走り寄ってきました。この人は「たくさんの財産(土地)を持っていた」と記されていますから、大金持ちだったということがわかります。マタイによる福音書では、「この青年は」とありますから(19:20)若者であったこともわかります。ルカによる福音書では、「ある議員が」と書いてあり(18:18)、「大変な金持ちだった」(18:23)とも記されています。  この3つの福音書の説明を全部寄せ集めますと、イエスさまの所にやってきたこの人は、たくさんの土地を持っている大金持ちで、ユダヤの議会(サンヘドリン)の議員であった青年が、ということになります。大変な財産と地位と若さを持っている人だったことがわかります。  この人が、イエスさまに尋ねました。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」永遠の命とは、神の国、天国と同じ意味で、これを得るということは、「ほんとうの救い」を得るということです。わたしが、ほんとうの救いを得るためには、何をすればよいでしょうかと、この金持ちの青年議員は、イエスさまの前にひざまずいて尋ねました。  すると、イエスさまは、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言われました。これは、誰でもよく知っている十戒の後半の方です。前半は、神に対する戒めです。この後半は人に対する戒めの部分でした。  十戒というと、数ある律法の中でも代表的な掟です。小さい子どもの頃から、最も最初に教えられる基本的な掟です。  そこで、この青年は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と、すぐに答えました。  当時のユダヤ教の教えでは、神の救いというのは、神によって義とされることです。そのためには、神のみ心である律法を守ることが義とされることで、律法を守らない人は罪人であると教えられていました。ユダヤ教に熱心な家庭では、子どもが小さい時から律法をよく教え、これを一生懸命に守ること、それが、神から救いを得る道であると教えられていました。  この青年は、お金持ちの家庭で育ったのでしょうから、当然そのような教育を受け、ユダヤ人として、ユダヤ教徒として申し分のない生活を送っていたに違いありません。そこで、胸を張って答えました。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と。しかし、イエスさまのところに来ました。律法を守っていますけれども、何かが足りない、救われていないのです。だからイエスさまの所にやって来て、ひざまずいて尋ねました。  すると、イエスさまは、彼を、じーっと見つめ、慈しんで言われました。  「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」  イエスさまは、この青年をバカにして言ったのでもない、皮肉を言ったのでもない、偉そうにして言ったのでもありませんでした。 「慈しんで」「愛をもって」「心の底まで十分に理解して」、じーっとその目を見ながら、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい。」と言われたのでした。  この人は、大金持ちで多くの財産を持っています。若くしてユダヤ議会の議員であるという社会的な地位も持っています。それに、これから何でも出来るという夢を持つことが出来る「若さ」を持っています。誰からも文句を言われないような信仰生活もきちんと守っています。地位、財産、名誉、名声、信仰心、若さにあふれた肉体、将来への希望、誰もが羨むような生活を送っています。もうすでに十分手に入れています。  いわば、誰もが羨むような生活、99パーセント満たされた生活をしているのです。しかし、何かが足りない。最後の1パーセントの何かが足りない。そのために何か満たされない、ほんとうの充実した生活が得られない、救われていない、そのような思いでイエスさまの所にやってきたのでした。「永遠の命を得るためには、何をしたらいいのでしょうか」  言いかえれば、「目に見えるところは、すべて満たされています。しかし、心は救われていないのです。ほんとうに救われるためにはどうしたらいいのでしょうか」と真剣に尋ねました。  イエスさまは、この青年の思いをしっかりと受けとめて言われました。「そう、あなたは、あらゆる面で満たされている。しかし欠けているものが一つある。100の内、1つが欠けていると、後の99が全部そろっていても、すべてが満たされたことにはならない。その一つが99を空しくしてしまう。」  その99に匹敵する一つを手に入れるためにはどうすればいいにか。  「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」  その答えは、残酷で、不可能に近い内容でした。99対1、1を手に入れるために99を手放しなさいと言われるのです。財産も名誉も地位も、今までこれがいちばん大切だ、これさえあればと思ってきたものをすべて手放しなさいと勧めます。そして、後の人生をわたしに従って生きなさいと、イエスさまは言われました。  たくさん財産を持ち、大変なお金持ちで、議員である青年は、イエスさまのこの言葉を聞いて、ガックリしました。この人にはそんなことは到底出来ないことでしたから、気を落とし、悲しみながらイエスさまのもとから立ち去っていきました。その理由は、この人は、「たくさんの財産を持っていたからである」とあらためて記されています。  ある教会で、聖書の勉強会をしていて、この聖書の個所を取り上げ話し合っていた時、ある婦人が、「それでは、私たちは、自分が持っている財産を全部処分して、どこかに寄付しなければ、救われないのでしょうか」と質問されました。まだローンが残っていますけど、土地も家も、老後のためにと思って少しは貯めてある定期預金も、みんな処分して、解約して、どこかに寄付しないと、救われないということでしょうかと、真剣に問われました。  イエスさまが、ここでおっしゃりたいことは、すべて財産を持っている人、社会的に地位や身分を持っている人、そのような人は救われないと言っておられるのではありません。定期預金いくらまでだったらいいのですか、普通預金ぐらいだったらいいのですかというようなことを問題にしておられるのではありません。  だいじなことは、お金、お金、お金さえあれば何でも出来る、人の心さえ支配できる、何でもお金で解決できる、要するにお金だと、お金の力を絶対のものとして信じている人がいれば、その人は永遠の命、ほんとうの救いからほど遠いと言われるのです。  今日、私たちは、貨幣経済の中にとっぷりと浸かって生きています。言いかえれば、物質主義、物質文明の中にいます。そして、世の中は便利になり、生活も豊かになりました。しかし、その反対に、心の問題はどうでしょうか、そのために格差社会だとか、自然環境の破壊とか、自殺者の増加だとか、すべての人間関係が壊れてしまう、今、改めて新聞やテレビの受け売りをしなくても、皆さんご自分で感じておられるところだと思います。  イエスさまが、この青年につきつけたきびしい答えは、お金の力に従いますか、奴隷のように仕えますか、それとも、神さまの御心に従おうとしますか、どちらにしますかという挑戦の言葉でした。 お金や地位や権力の力に頼り、これさえあれば幸せになると信じていながら、一方では、神さま、神さまと言って、神に頼っています。一方の足を地位や財産という岸につけ、他の一方の足を神さまという舟につけていて、舟が岸を離れと、両方の足が開いて、耐えられなくなって水に落ちてしまいます。  マタイ6:24 に「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 この青年は、まさに神と富との両股をかけて、幸せを得ようとした人でした。心から神を信頼し、神の方へ身を置くことができずに去って行った人でした。財産をたくさん持っていればいるほど、地位や権力を持っていればいるほど、その力に執着し、これを手放すことはできません。イエスさまは、弟子たちに「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(24,25節)と言われました。誇張した言い方ですが、それは不可能だと言っておられます。  最後に、「永遠の命」を得るためにはどうしたらよいのでしょうか。イエスさまはお答えになっておられます。 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12:24〜25) 〔2009年10月11日 聖霊降臨後第19主日(B-23) 京都聖ステパノ教会〕