誰よりもたくさん入れた。
2009年11月08日
マルコ12:38〜44
今、読んで頂いた今日の福音書(マルコ12章38節〜44節)は、「イエスさまが律法学者をきびしく非難された」という出来事と、「やもめの献金」という2つの出来事が記されています。
とくに41節からの「やもめの献金」から学びたいと思います。
イエスさまは、エルサレムの神殿に居られました。神殿に設けられている賽銭箱に向かって座り、大勢の人々が来てお金を入れているのを見ておられました。金持ちはたくさんのお金を入れていました。
その中で、一人の貧しいやもめ(未亡人)が恐る恐る賽銭箱に近づいて、レプトン銅貨2枚を入れるのをご覧になりました。
レプトンというお金は、通用しているお金の一番小さい単位で、1レプトンは、128分の1デナリオン。1デナリオンは労働者の1日の賃金でした。今の日本の貨幣価値に置き換えますと、40円ぐらい。レプトン銅貨2枚ですから80円ほどになります。非常に少ない金額でした。
これを見たイエスさまは、そこにいた弟子たちを呼び寄せて言われました。「この貧しいやもめは、ここで賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れたのだ。皆は有り余るほど持っている財布の中から献さげものとしてお金を入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからだ。」
私は、この聖書の個所を何回か読み返していて、いくつかの疑問を持ちました。
第1に、イエスさまは、神殿にある賽銭箱の前に座って、みんなが入れるお金の額をじっと見ておられたのだろうかということ。
第2に、レプトン銅貨とは、小さな硬貨ですから、やもめがそっと入れた枚数などどうしてわかったのだろうということ。
第3に、この女性と話をしたわけでもないのに、ささげたレプトン銅貨2枚が、「乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」ということがどうしてわかったのだろうということ。
第4に、このやもめの女性は、ただ、イエスさまに一方的に見られているだけで、イエスさまとの接点はなに一つもありません。だのに、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」と言ってほめたました。「わたしに従いなさい」とも、「あなたの信仰があなたを救った」とも言われていません。
ただ一つ考えられることは、今日の日課の前半、38節から40節の、「長い衣をまとって歩き回り、広場で挨拶されることを好み、会堂では上席につくこと、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」このような偽善的な行為をする律法学者たちと比較するために、対照的な貧しいやもめの献金の姿がここに描かれているのではないかということです。
100万円を持っている人が、10万円を神さまへのささげ物としてささげたのと、1000円しか持っていない人が、そのありったけの1000円を全部ささげたのでは、千円をささげた人の方がたくさん神さまにささげたのだと言われるのです。それは、千円しか持っていない人は、貧しくて、これが生活費の全部だったからなのです。イエスさまは、神さまは、9万9千円多い方が喜ばれると言っておられるのではないのです。
神さまと私たちとの関係は、私たちが持っている経済的な感覚、損得とは全く違うところにあるのだと言っておられるのです。イエスさまがなさる価値判断は、私たちが持っている金銭感覚、お金のバランスとは違うのだということです。
神さまが私たちに求められる関係、すなわち、神さまと私たちが、向かい合っている関係は、「すべてを捨てて、キリストに従う」というこの一言に尽きるのです。この一言に福音のすべてが要約されていると言っても過言ではありません。
先月の説教のテーマも同じ内容でした。一人の金持ちで議員である青年が、イエスさまの所に来て尋ねました。「永遠の命を得るためには何をしてらいいのでしょうか」と。イエスさまは、律法、掟を守りなさいと言われました。「それは、小さい時から全部守っています」と言うと、「それでは、家に帰って、財産を全部売り払って、貧しい人に施しなさい。そしてわたしに従いなさい」と言われました。ところが、この青年は、悲しそうな顔をして去って行きました。ここに「すべてを捨てて、わたしに従いなさい」というメッセージがあります。
イエスさまは、ぞろぞろとついて来た群衆に向かって言われたことがあります。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と。(ルカ14:25-27)
財産だけではないのです。自分の両親、子ども、兄弟姉妹、家族は、私たちの最も大切な自分自身の分身です。その家族を憎み、斥け、それを捨てるのでなければ、さらに自分の命でさえもこれを捨て、自分の十字架を背負って、イエスさまに従うのでなければ、わたしたちはイエスさまの弟子にはなりえないと教えられるのです。まことに厳しい従い方を求められます。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコ8:34−36)
「自分の命を捨てる」ということは、自分自身を捨てるということです。それは、「自分が、自分が」と、すべて自分中心の考え方で生きていることを捨てることであり、「自分のため」「自分の欲望」を満足させることだけを求めることを止めること、すなわち自我を捨てること、自己を捨てることがが求められます。それは、自棄(やけ)になって、「どうでもいいわ、どうなってもいいわ」という単なる「自己放棄」ではなく、自己放棄の向こうにある自己実現というか、自己発見が目的なのです。
自己放棄によってしか見いだせない「自分発見」、これこそが、ほんとうの救いなのだとイエスさまは強調されます。
イエスさまが、私たちに求め、迫っておられる関係は、程々とか、ちょうどよい程度とか、適当にとか、あまり度を越さない程度にとか、まあまあという関係ではありません。自分を捨てるのか、捨てないのか、わたしに従うのか、従わないのか、といつも詰め寄ってこられます。
ほんとうの「自分発見」のためには、自己放棄が条件であり、繰り返しそれが求められます。
貧しいやもめは、「乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費の全部を賽銭箱に入れて」神さまにささげました。貧しいからこそ、乏しいからこそ、すべてをささげることが出来ました。イエスさまはこれを見て、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている中で、誰よりもたくさん入れたのだ」と言って、この人をほめました。
大正時代の中頃に亡くなった人で、西山禾山(かざん)老師という禅宗(臨済宗)のお坊さんがいました。この禾山老師のもとで雲水が厳しい修業を積んでいました。その中に加藤晁堂というお坊さんがいました。
ある時、禾山老師に導かれて6人の雲水が托鉢に出ていました。その中に晁堂がいました。坂道にさしかかった所で、重い荷物を山ほど積んだ荷車が坂道をのぼりかねていました。一列に並んで道の端を足早に歩いていた雲水の列の中にいた晁堂は、思わず列から離れて車の後押しをしました。しかし、このことに気づいた禾山(かざん)老師は、一人でさっさと寺に帰ってしまいました。
そして、帰ってきた晁堂にすぐに破門を言い渡しました。同僚の雲水たちも心を痛め、ゆるしてもらうように懇願しましたが、聞き入れられません。そこでせめて破門の理由だけでも教えてやって欲しいと願いました。すると老師は、「修業の身である者が、人の車に気を引かれてどうする。山門からたたき出せ」と言い放ちました。晁堂はこれを聞いて破門に従ったのですが、破門された晁堂は引きさがりませんでした。翌日から山門に座り通し、幾日も願い求めて、やっと参禅のゆるしを得ることができました。非情なまでに厳しい禅宗の修行を伝えた逸話です。加藤晁堂師は、永平寺の高僧になりました。
西村恵信という花園大学教授、禅文化研究所長が、この逸話を聞いて、アメリカに滞在している時、あるキリスト教信徒の集会で、禅宗を紹介するためにこの話をしました。するとその集会の出席者は異口同音、禅宗の修業を手厳しく批判され、西村教授は戸惑ってしまいました。困っている人を助けることこそ、宗教者がとるべき態度であり、その禅宗の師匠のやり方は非宗教的であると言われました。
この話は、さらにつけ加わります。鈴木大拙博士という有名な禅研究をされた先生がおられます。1966年に亡くなった方ですが、日本の禅文化を海外に広く知らせた仏教学者で、1959年に日本学士院々員となり、文化勲章を受けた方でした。たくさんの著書が残されています。
ある時、この鈴木大拙先生を囲む食事の会があり、同席していた西村恵信先生が、この「托鉢と荷車」の話をし、さらに、アメリカでキリスト者の会でこの話を紹介すると手厳しく批判されたという話をしました。
すると鈴木大拙先生は、目を伏せ涙を抑えておられ、しばらくして言われました。「いやそんなはずはない。いくらキリスト教の者でも、この老師の慈悲がわからんわけはないんだ」と言って、西村教授の話を強く否定されたということでした。(奥村一郎選集 第1巻 第8章「禅とキリスト教における霊的修業」より)
この話は、日本の禅宗の修業の厳しさを表している逸話であり、禅宗が持つ「非情の情」「突き放す慈悲」を表しています。しかし、これに対して、キリスト教の愛はどのようなものなのでしょうか。キリストの教えはどうなのでしょうか。
私は、主イエスの求めておられるところは、禅宗の修業が求めるものと同じ、いやそれよりも厳しく、非情な内容ではないかと思います。「すべてを捨てて、わたしに従いなさい」と言い、貧しい人が持っているものすべてをささげ、生活費のすべてをささげることをよしとされるきびしさを持っています。
イエスさまの時代とは、時代が違いますし、生活の仕方も違います。
しかし、神さまの前に立つ、私たち一人一人の姿、生命とか、魂とか、心というものは少しも変わっていません。
イエスさまは、まあまあとか、その内にとか、適当にという姿勢で私たちに何かを求めておられません。偽善的な生活にどっぷり浸かって、自分の偽善性に気づかなくなっている律法学者たちのようにではなく、貧しいやもめのような生き方をもって、神さまの前に立ちたいと思います。
〔2009年11月8日 聖霊降臨後第23主日(B-27) 京都聖ステパノ教会〕