あなたがたの解放の時が近いからだ。
2009年11月29日
ルカ21:25〜31
教会の暦では、今日から新しい1年が始まります。
今日は、「降臨節第1主日」です。4回の降臨節の主日を迎えて、12月25日には「降誕日(クリスマス)」を迎えます。
この「降臨節」というシーズンには、2つの意味があります。
その第一は、「クリスマス」を迎える準備の期間です。クリスマスを迎えるために、クリスマス・ツリーや部屋を飾ったり、プレゼントを用意したり、ケーキをつくったり、いろいろと準備をします。毎年言われることですが、私たちは、このような目に見えるクリスマスばかりではなく、クリスマスの目に見えない部分を大切にしなければなりません。クリスマスのテーマは、「神さまの愛」であり、私たちがほんとうに「神さまに出会う」ということを、もう一度確信することにあります。ベツレヘムでお生まれになったイエスさまは、その瞬間から十字架の死と復活を指し示しておられるのです。イエスさまの誕生は、キリストの十字架の苦しみと復活によってほんとうの意味をもつということをしっかりと捉えたいと思います。降臨節には、しっかり心の準備をして、キリストの誕生の意味を確認して、降誕日を迎えたいと思います。
降臨節が持つ第二意味は、世の終わり、「終末」について学び、キリストの再臨を待ち望むことです。イエス・キリストがもう一度わたしたちのところに来てくださることを信じることを「再臨信仰」と言います。
ここで、一つ覚えていただきたい言葉があります。それは、再臨の前提となっている「終末の時」という言葉です。
今日は、この終末について学びたいと思います。
「終末」とは、「世の終わり」ということです。聖書の中にはこのような「世の終わり」という言葉や考え方がたくさん出てきます。
マタイ、マルコ、ルカという福音書でも、パウロの手紙にも、「終わりの日」について述べられています。
弟子たちは、イエスさまに、「終わりの日はいつくるのか、その時には、どんなしるしがあらわれるのか、どのような形で現れるのか」と尋ねています。(ルカ21:7)
これに対して、イエスさまは、「おそれるな、あわてるな、惑わされるな」と言い、「世の終わりは、すぐには来ない」と戒め、しかし、身を清め、つつしんでこの時を待ちなさい、その時は、神だけが知っておられることなのだと告げておられます。
聖書には、このような「終末思想」があふれています。
言いかえれば、聖書が書かれた時代には、初代教会では、旧約聖書の預言者たちの預言に従って、世の終わりの時がくる、その時には救い主が現れるという緊張感がみなぎっていました。間近に、もうすぐにでも、その時がやってくる、その時は近いと信じ、伝えられていました。
今日の旧約聖書の日課として取り上げられているゼカリヤ書でも、「その日」「そのとき」「ただひとつの日」が来る。「その日には、主は地上をすべて治める王となられる」と預言されています。
今日の福音書の前(ルカ21章7節〜24節)は、その預言に基づいて述べられています。
弟子たちが、イエスさまに、「その時とはいつ起こるのですか。どんなことが起こるのですか。どんな徴が現れるのですか」と尋ねた時、
イエスさまは言われました。
「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、戦争とか暴動が起こる。流言飛語、デマが飛び交い、偽預言者やキリストを名乗る者が横行する。大きな地震や、飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れ、あなたがたには迫害が起こる。エルサレムの都も破壊される。」
「しかし、惑わされないように気をつけなさい。惑わす者が現れても、ついて行ってはならない。どんなことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりは、すぐには来ないからである。」
そして、今日の福音書へと続きます。
イエスさまは言われます。「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。しかし、そのとき、人の子(キリスト)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」(ルカ21:25-28)
宇宙、天体に異変が起こる、エルサレムが破壊される。世の終わりの兆候が現れると言われます。
当時の人々は、このような緊迫した終末観の上に立って、世界を見、自分たちの生活を考え、非常に緊張した信仰を持って「その日」が来るのを待っていました。
しかし、その時代から2千年が経ち、現在の教会では、初代教会の人たちが持っていた緊張は薄れた感じがします。
2千年の歴史を振りかってみますと、天変地変、地震、洪水、疫病、戦争、ありとあらゆる災害が、どの時代でも、どこででも、世界各地で起こりましたが、しかし、まだ、聖書が言う「終末の時」は来ていません。
1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分、関東大地震が起こりました。私が生まれる13年前です。関東大震災と言われる大地震です。マグニチュード7・9(阪神淡路大震災7・3)だったと言われます。東京市内を中心にあちこちで火災が発生し、津波が襲来しました。東京では、現在よりずっと情報不足な上に、通信・交通機関、ガス、水道、電燈すべて停止し、流言(デマ)が飛び交い、人心は動揺しました。死者9万1千344名(6千434名)、全壊消失家屋46万4千909戸だったと聞きます。
東京市内、横浜地方の教会とその関係施設は倒壊または灰燼に帰した。東京市内の教会は、聖三一教会、深川真光教会、聖救主教会、聖パウロ教会、聖ヨハネ教会、諸聖徒教会、聖愛教会、神田基督教会、月島教会等、主な教会は焼失してしまいました。マキム主教は、アメリカ本国に向かって「凡ては失せたり、残るは主にある信仰のみ」(All gone but faith in God.)と打電したおいう有名な話があります。
この大火の中を逃げ惑うキリスト教信徒たちは、聖書に記された「世の終わり」を感じたに相違ありません。この年の12月11日、名出保太郎長老が大阪教区の初代監督に按手され就任しました。大阪教区が成立した年でした。
その後も、空襲があり、原爆が投下され、各地で地震や台風、洪水など、このような世の終わりと見間違うような出来事が限りなく繰り返されています。
現在でも、世の終わりというものが、いつ来るのか、どのようにして来るのか、わかりません。しかし、終わりの日などないと言い切れるるでしょうか。昔は、宗教家がしていたことを、現在では、科学者が、あらゆる分野で警鐘を鳴らしています。自然界のバランスが崩れています。自然環境の破壊が、温暖化現象を起こし、予想がつかないようなことが起こると予告しています。どこかで戦争が起こり、核兵器や化学兵器によって、人類が滅びてしまうこともありえます。宇宙から隕石が飛んできて地球にぶつかるとか、SF小説の世界になってしまいますが、しかし、かつて多くの生物が死に絶えて来たことも歴史的な事実です。現代人の誰でもそういう意味で、恐怖や不安を感じています。人類は、世に終わりなどないように、懸命に努力していますが、いつか、どんなことが起こるのか、わたしたちにはわかりません。
聖書の中の終末思想、終末信仰について論じることを、聖書の終末論と言います。聖書神学や教理学では、この終末論とか、再臨論とかいうテーマは、避けて通れない大切なテーマなのですが、非常に難しいテーマです。私は、若い頃には、終末論や再臨をテーマにした説教は出来ませんでした。いろいろな参考書を読んでみても、自分の言葉で説明することはできませんでした。
たとえば、コリントの教会の信徒への手紙一 7章に、パウロの手紙の中ですが、こんな言葉があります。
「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。」(7:7-9)
パウロは、独身でした。だからと言って「皆がわたしのように独りでいてほしい」、「未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」というのは、どういうわけなのか、わかりませんでした。聖書の注解書を見ますと、多くの注解書では、「そこには、パウロの終末論的生き方が前提になっている。そのことを理解するためには終末論的理解を持って解釈しなければならない」と言っています。
それはどういうことかと言いますと、パウロの信仰、または初代教会には、「世の終わりは近い」「間もなく世の終わりが来る」「人の子、キリストが再び来られるのは近い」、それは、たいへんな転変地変と共にやってくるという緊張感が非常に強かったということです。もう間もなく、その時が来るのだから、その時に備えて、未婚の人は未婚のままでいなさいと教えているのだということです。そのことがわかるためには、パウロの時代の非常に緊迫した、張り詰めた終末思想があったということを知らなければなりません。
さて、この世の終わりの問題だけではなく、もっと身近なことを考えてみましょう。
それは、わたしたちの、一人ひとりの人生にも、かならず終わりがあるということです。今、このようなことを話している私にも、かならず終わりがあります。皆さんにも必ず、人生には終わりがあります。 それは誰でも知っていることなのですが、あまり考えたくない、もっと先のことだと思っています。しかし、これも、いつ、どのようにして来るのかは、自分ではわかりません。しかし、誰に対しても平等にやってきます。これほど確かなことはありません。
脅かすつもりはありません。しかし、この世にも、私たち一人ひとりにも、「終わりがある」ということを、ちゃんと受けとめなければならないと思います。
若い時には、誰でもみんな死ぬことは頭ではわかっていても、まだまだ先のことで、実感がわきません。
ところが、年を取って、ちょっと老人の域に達しますと、「私も死ぬんだなあ」ということが、現実味を帯びて、実感として理解できるようになってきました。
私の母は、90歳で9年前に亡くなったのですが、まだ80歳代の中頃の頃に、よく「わたしもぼちぼち適齢期やからねえ」と言いました。まわりの者が、「ほらほら、またボケたことを言うて、頭の中は娘時代に戻っててるわ」と言って笑っていました。本人は、真面目な顔をして、「わたしは適齢期や」と言ってききません。よく聞いてみると「死ぬ適齢期や」と、しみじみと語っていたのです。その時は、ぼけていたのではなくって、いちばんはっきりしていて、何かを考えていたのだと、後になって気がつきました。
私たちにとって、私たち一人一人に終末の時があること、その時は、わかりませんが、その時があることは、地球の終末を考えるより、もっと確かで、深刻です。しかし、「終わりの時」があることを、見据えて、今を、今の生き方を考えることはできます。
その「時」はいつかわかりませんが、その「時」から反対に、自分の「今」を考えることができるのではないでしょうか。終わりがあるなどと考えたくもない、考えないというのと、終わりがあるということをはっきり認識して、そこから「今」を考えるのとでは、生き方が変わってくるように思います。「終わり」から今を見直したとき、私たちに見える世界、私たちが認識する社会、そして自分自身の見方が、そして、神さまとの関係が変わってくるように思います。
「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」(ルカ21:31)
〔2009年11月29日 降臨節第1主日(C年) 聖ルシヤ教会〕