教 会 と は ?
2010年01月24日
コリントの信徒への第一の手紙12:12〜27
1 教会に対する疑問
「教会」について、よく尋ねられることがあります。
少し前のことですが、ある婦人から「この頃、教会がわからなくなった。婦人会の役や食事の当番を押しつけられた。人間関係がうまく行かない。いい人ばかりではなく、いやな人やへんな人が一杯いる。教会へ行くと、気持ちが重くなる。教会って、何のためにあるのですか」と言って、長い電話がかかってきました。「教会がなければ信仰を持つことはできないのか。教会に行くと疲れる。教会へ行くことをやめたい。教会って何ですか」とも言われました。
もう一つ、最近のことですが、ある教会の教会委員会で話題になったということで、「ある年配の信徒の人が、定年退職して、年金だけで生活することになり、教会の献金が払えなくなった。心苦しいから教会へ行くことをやめたい」と言っている。そんな時、先生だったらどう言いますか、と尋ねられたました。
それぞれに、よく聞く問いですが、そのような教会生活についての問いにに皆さんだったら、どのようにお答えになりますか。
「そうだ、そうだ、わたしもそう思う」と同感されるか、「いや、違う、教会ってそんなものではない」とお答えになるでしょうか。
2 キリスト教信仰と教会。「教会とは何か」
イエスさまが十字架につけられて亡くなった後、弟子たちが各地に伝道活動を展開して、各地にクリスチャンのグループが生まれ、教会が出来ていきました。広い範囲、他の国々や地方に、教会が広がり、人数が増えていきますと、その当時から、教会にはいろいろな問題が起こっていたことが聖書の中に見られます。
第一コリント11:17〜22「次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。」
教会という言葉は、ギリシャ語で「エクレーシヤ(ekklesia)」と言います。これは「εκ」(〜から)と、「καλεω」(呼ぶ)から成っていて「呼び出されたもの(の全体)」という意味を持っています。聖書では「民の集会、共同体、教会」と訳されています。
本来、神さまから「呼び出されたもの」「招かれたもの」の集まりという意味ですが、実際には、そこに集められたものは、分派、中味割れ、勢力争い、役割の問題、貧富の差別、国籍による差別、食物の分配など、いろいろな問題をはらんでいました。
3 キリストの体である教会
新約聖書には、この「教会」という言葉は、114回使われているのですが、その内で、パウロの手紙では、62回、使徒言行録では23回使われています。パウロの手紙の中でも、今日の使徒書の第一コリントでは22回使われています。
パウロは、地中海沿岸の各都市(ローマ、コリント、エフェソ、フィリピ、テサロニケなど)に、3度も命がけの伝道旅行をして、教会の基礎を築いた使徒ですが、しかし、生まれたばかりの教会が問題を抱え、2千年の歴史を経て、今日に至っています。
そして、今、どの教会も、様々な事件や問題を抱えながら、教会が教会であり続けようとしているのです。
それでは、そのような問題にいつも直面していたパウロは、教会をどのように見ていたのでしょうか。教会はどのようであるべきだと言っているでしょうか。
まず、第1に、教会は、「キリストの体である」と言っています。 エフェソ1:22−23「神は、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」
教会は、キリストを頭とする、キリストの体です。その目に見える姿、形は、不完全で、弱く、いろいろな問題を抱えた信徒の集まりです。しかし、その集会は、神によって招かれた者の神の集会であり、神の共同体であり、神の教会です。
この神の教会は、この時代、この時に、この場所、この地域に、神によって遣わされた目に見えるキリストの体です。まだキリストを知らない人々が、キリストに出会おうとすれば、教会でしかそれはできません。教会において、教会を見ることによって、教会を体験することによって、はじめてキリストに出会うことができるのです。
4 教会の肢体(部分)である私たち
それでは、私たちは、キリストの体である教会の、一体何なのでしょうか。
今日の使徒書にあるパウロの言葉に、もう一度耳を傾けましょう。
まず、いちばん最後の27節から読みます。
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
12節「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」
14節「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。」
「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」 22節「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」
そして27節以下にこのように続きます。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」
そして、教会を支配する最高の道は、「愛」であると、パウロは言います。
「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(一コリント12:31〜13:2)
教会に愛が満ちていなければ、すべての発想や考え方が愛に富んだものでなければ、キリストの愛に満ちていなければならないと教えています。
私たちが、神さまに礼拝をささげる時、愛と真理の源であるキリストが共におられます。感謝と賛美の礼拝をささげましょう。
〔2010年1月24日 顕現後第3主日(C年) 京都聖ステパノ教会〕