「この人は、ヨセフの子ではないか。」

2010年01月31日
ルカによる福音書ルカ4:21〜32  今日の福音書は、先週の主日の福音書の続きです。  イエスさまは、ガリラヤ地方のナザレという村、母マリアの実家のあるこの小さな村で、ほかの兄弟たちと共に、幼年期、少年期、青年期をここで過ごし、そして、30歳になった頃、人々の前(公の場)に姿を表して、教えはじめられました。  ガリラヤ地方のあちこちの街や村を巡回し、会堂で教えておられましたが、その姿は、神の「霊」に満たされ、その教えの力強さは、聴く人の心を打ち、多くの人々から尊敬されました。  そして、ある時、ご自分が育ったナザレに来て、いつものように、安息日に会堂に入られました。ラビと呼ばれる律法学者がそうするように、聖書の巻物が渡されました。それは預言者イザヤの書でした。イエスさまは、これをお開きになり、そこで、目に留まったところを朗読されました。  「主の霊がわたしの上におられる。   貧しい人に福音を告げ知らせるために、   主がわたしに油を注がれたからである。   主がわたしを遣わされたのは、   捕らわれている人に解放を、   目の見えない人に視力の回復を告げ、   圧迫されている人を自由にし、   主の恵みの年を告げるためである。」  これは、旧約聖書のイザヤ書61章1節、2節に記されている言葉です。  読み終わって、イエスさまは、イザヤ書の巻物を係の人に返して席に着かれました。その会堂にいたすべての人々の目がイエスさまに注がれました。これをどのように解釈されるのか、何と教えられるのだろうかと、イエスさまを見つめていました。  すると、イエスさまは、「この聖書の言葉は、今日、この時、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と、話し始められました。人々は、イエスさまの言葉に感動し、その教えをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いたと記されています。(4:22)  「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」  預言者イザヤが、ここで言っている「わたし」とは、誰のことでしょうか。「預言者自身のことでしょうか。これから現れようとする、イスラエルの民が待ち望んでいる救い主のことでしょうか。  「貧しい人」というのは、「捕らわれている人」であり、「目の見えない人」であり、「圧迫されている人」のことを言います。この世にあって、虐げられている人、差別されている人、不当な扱いを受けている人、貧しさに困窮している人、これらの弱い立場、小さい者、これらの人々に、「良い知らせ」を伝えるために、神の霊が注がれ、その仕事を行うために任命される「わたし」、このわたしとは誰のことでしょうか。  「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。イエスさまは、イザヤ書に書かれている「わたし」とは、「わたし」のことだと言われます。イエスさまは、ご自分を指さして、「わたしとは、わたしのことだ」と言われます。今、わたしがこの聖書の個所を読み、あなたがたがこれを耳にした時、この瞬間に、預言者が預言したこの言葉が成就した、完成した、満たされたのだと宣言されます。  「あなた方は今まで何回もこの聖書の個所を読み聴かせられ、たくさんの解釈を聴き、解説を聞かされてきた。しかし、それは、外から撫でるような、推測や想像ばかり、またはその説明にすぎない。かゆいところを靴の上から掻くような、遠回しの解説ばかりを聴かされてきている。しかし、今からは違う。今は、あなたがたの目の前にわたしがいる。わたしがそれなのだ。わたしが神から「油注がれた者」であり、神は、わたしを、貧しい人たちに良い知らせを伝えさせるために、遣わされたのだ」と、イエスさまの言葉の中には、このような意味が示されています。  この言葉の中には、イエスさまの神の子としての自覚、救い主としてこの世に遣わされたことへの使命感、その使命をやり遂げねばならないという強い覚悟がほとばしっています。  このイエスさまの言葉を聴いて、ナザレの会堂にいた人々は、みんなイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚きました。  しかし、その一方では、「この人はヨセフの子ではないか」と言う人たちがいました。  「ヨセフの子」というこの言葉の裏には、この男は、大工の息子ではないか、小さい時から知っている。母親のことも知っている、その兄弟や姉妹も知っている。たいした身分でもない。金持ちでもない。地位も肩書きもない。何を偉そうなことを言っているのだという気持ちが表されています。  私たちは、イエスさまのことを「神の子」と信じます。私たちのために、神がこの世に遣わされた神の独り子であると信じています。しかし、この聖書の場面の中で、イエスさまの前にいるナザレの人々には「ヨセフの子」としか見ることができませんでした。イエスさまの生い立ちや家族関係など、表面的な目に見える姿でしか理解することができませんでした。  当時の人々の多くは、イエスさまのことを正しく理解することができませんでした。とくに故郷ナザレの人々には、イエスさまは、父である神の霊がつねに共に在って、貧しい人々に福音を告げ知らせるために油注がれた人であるとは、とうてい信じられませんでした。  イエスさまは、この時以来、約3年間、このことを叫び続けられました。人々に誤解され、またある時は担ぎ出されそうになり、また、ある時には、殺されそうになりました。そして、神が定められた時、神が定められた所で、その遣わされた者として使命を果たす「時」が来ました。そこには十字架の上で苦しみもだえる姿がありました。  十字架の上で、イエスさまは叫びました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫び(ルカ23:46)、そして、最後に「成し遂げられた」と言って、頭を垂れて息を引き取られました。(19:30)  預言者イザヤによって語られた預言は、イエスさまの出現によって「実現し」、そして、イエスさまの死によって「成し遂げられ」たのです。  そして、今日、この言葉を耳にした私たちは、これをどのように受け取るでしょうか。 「貧しい人に福音を告げ知らせるために」来られたイエスさまを、私たちはきちんと受け取っているでしょうか。 「わたしだ、わたしだ」と、一生懸命、ご自分を指さしておられるイエスさまに、私たちの目の焦点は合っているでしょうか。耳はそちらに集中しているでしょうか。私たちが持っているイエスさまへの信頼は、ちゃんと的を射ているでしょうか。  キリスト教信仰の中心は、イエス・キリストです。  なんだ、そんなこと、当たり前だと鼻先で笑う方がおられるかも知れません。しかし、このことを、頭のどこかで知っている、覚えているというだけでは、ほんとうの信仰にはなりません。 イエスさまの教えを聞いて、イエスさまをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて、人々は言いました。「この人はヨセフの子ではないか」と。これを聞いて、イエスさまは言われました。  「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをした、すなわち奇跡を行ったと聞いたが、郷里のここでもそれをやって見せてくれ』と言うにちがいない。」  そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と。そして、預言者エリヤの時の出来事(列王記17:1、18:1)、預言者エリシャの時の出来事(列王記下5:1-14)を例として挙げられた。  これを聞いた会堂の中の人々は皆怒って、総立ちになり、イエスさまを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしました。しかし、イエスさまは、人々の間を通り抜けて立ち去られました。  イエスさまは、故郷ナザレでは、奇跡を起こしたり、それ以上、説教をなさらず「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と言って、立ち去られました。  イエスさまは、なぜ、このナザレでは、福音宣教をそれ以上せず、奇跡の一つも起こさないで、そこを立ち去られたのでしょうか。  第1に、ナザレの人々は、イエスさまを迎えるのに相応しい歓迎ができませんでした。  会堂では、皆はイエスさまの話を聞いて、イエスさまをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言きました。しかし、そのすぐ後で、「この人はヨセフの子ではないか」と言いました。イエスさまの話を聞い驚いたというのは、この方の後ろに神を見、霊が働いておられることを知って驚いたのではなく、家族や、親戚の人々や近所の人々が、「あの子がねーっ」「あの人がねーーっ」という驚きでした。内輪の者として、馴れ親しむあまり、正しく、真っ直ぐに受け取らねばならないイエスさまの「心」を見ようとはしなかったのです。  第2に、神さまの主導権を否定しました。「この人はヨセフの子ではないか」とつぶやいた瞬間に、イエスさまを神の子、救い主とする神さまの意志を否定し、自分たちと同じ人間のレベルに引き下ろしてしまいました。神さまがなさろうとすること、その意志を汲むことができません。神さまは、イエスさまを通して招き、イエスさまを通して神の力を発揮し、神さまは、イエスさまを通して父である神の愛を示して下さいます。ところが、ナザレの人々は「医者よ、自分自身を治せ」ということわざを引いて「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と言いそうな気配を感じて、イエスさまは、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と言って、その場を立ち去られました。  イエスさまが十字架につけられ、苦しみもだえている時、ローマの兵士たちは、イエスさまに、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言いました。さらに同じように十字架につけられている犯罪人の一人も、イエスさまをののしって、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言った言葉を思い出します。(ルカ23:35-37)  それは、ナザレの人々も、ローマの兵隊も、犯罪人にも共通する悪魔のささやきで、神さまのみ心からイエスさまを引き離そうと試みるものでした。  第3に、ナザレの人々は、救いに至る神さまの招きに相応しくなかったことを表しています。  マタイ22章に「婚宴のたとえ」というたとえがあります。  「王は、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタイ22:8-14)  ナザレの人々は、身内意識が強いため、招かれた婚宴の席に礼服の着ないで出席した人になってしまいました。神さまの招きに、相応しい心の準備をせず、身内意識が、イエスさまを見えなくしてしまいました。  さて、私たちはどうでしょうか。イエスさまに馴れ親しみすぎて、「わかった、わかった」と言って、イエスさまを私たちと同じレベルまで引き下ろしてしまっていないでしょうか。  神さまに馴れ親しみ過ぎて、自分たちが神さまのようになり、神のみ心、神さまがお決めになることまで、踏み込んで、自分優先の考え方になっていないでしょうか。  イエスさまをお迎えする心の準備はいつもできているでしょうか。私たちの心の状態がナザレの人々のようになっていないでしょうか。 〔2010年1月31日 顕現後第4主日(C) 於・聖ルシヤ教会〕