栄光に輝くイエス
2010年02月14日
ルカによる福音書9:28-36
世界中の人々が、みんな幸せになりたいと願っているのですが、なかなかそのようになりません。それは、私たち一人一人の心の問題であるから難しいのだと思います。
私は、教誨師という仕事をしているのですが、10年以上も前のことでしたが、刑務所から出所する直前の人々と話をする機会がありました。
いろいろ話をしている中で、このように言ったことがあります。
「仏教に禅宗という宗派があって、聞くところによると、朝早くから夜まで、一日中、壁に向かって座禅をして、悟りを開くと言います。朝早く起こされて厳しい戒律の中に身を置き、節制し、作業をし、そして、ただ、無念無想、白い壁に向き合います。この刑務所の中の生活も、厳しい規則にしばられて、四方を壁に囲まれて、懲役という作業もあるが、規則正しい生活の中で、空いた時間は、壁に向かって座って居られる。外から見ると、同じような生活をしているように見えるのですが、禅宗の坊さんは、修行を積んで偉いお坊さんだと言われる。一方、刑務所生活をしている人は、何十年刑務所に居たからといって、悟りを開いて偉い人になったということをあまり聞いたことがない。刑務所生活も、そのつもりになれば、壁に向かってひたすら座禅をし、悟りを開くというようなことはできないものでしょうかね。」
そこにいた5、6人の人たちは、一斉に首を横に振り、「刑務所ではそんなことはあり得ない」と言いました。
一つの囲いの中に閉じ込められて、または閉じこもって、厳しい戒律や規則にしばられ、立つことも、座ることも、寝ることも制限されて、座禅を修業する人も、外から見た姿や状況は同じに見えるのですが、どうも中味が違うようです。単なる心の持ち方というものでもないようです。
幸せとは何かというと、これほど難しいことはないのですが、もう少し具体的な言葉で言いかえれば、人がほんとうに幸せであることが出来る心の条件は、自分が「安心できること」、「自分が自信が持てること」、「自分が自由であること」ということができるのではないでしょうか。
過去のこと、現在のこと、未来のことについて、この安心、自信、自由の、どれかが欠けたり、妨げられたり、奪われたりすると「幸せ」ではない、不安になったり、恐怖を覚えたり、淋しくなったりするのではないでしょうか。
先ほどの座禅の修業をする人の心の中と、刑務所で毎日を過ごす人の心の中を、この「安心、自信、自由」という言葉を物差しにして測ってみますと、違いがわかるような気がします。
この「安心、自信、自由」という言葉を借りて、私たちの「救い」ということについて考えてみたいと思います。
すべての人が、ほんとうに安心できること、自信を持って生きていけること、何からも自由であることを、いつも願っています。しかし、実際の生活では、社会的にも、経済的にも、環境的にも、人間関係においても、安心、自信、自由を保ち続けることは難しいのが現実です。
私たちは、何によって、この安心、自信、自由を得ることができるのでしょうか。
お金がたくさんあれば、財産がたくさんあれば、安心で、自信が持てて、自由でいられると考えます。たしかにある意味では、安心も、自信も、自由も、お金で買える部分があります。しかし、それは、ほんとうの安心、ほんとうの自信、ほんとうの自由でしょうか。
一生かかっても使い切れないほどの財産を持っていても、心が満たされない、いつも淋しい、いつも何かにおびえてびくびくしている人もいます。反対にお金に束縛されて、人間不信に陥ったり、人間関係が持てない人もいます。
「ほんとう」の安心、自信、自由とは、どのようにして得られるのでしょうか。
私は、神さまにすべてを委ねることによって、ほんとうの安心が得られる。神さまを信じることによって、ほんとうの自信が持てる。神さまに従おうとすることによって、ほんとうの自由が与えられると信じています。
ほんとうの安心、自信、自由に満ちた方、それは、イエスさまに見ることができます。その外見は、財産も地位も名誉も権力も何も持たない方でした。いつも群衆に取り囲まれていましたが、自分自身のために枕する所さえない方でした。そして、最後には弟子たちにも裏切られ、捕らえられ、侮辱を受け、苦しみもだえながら十字架につけられ息を引き取られた方です。
しかし、その内面はどうだったのでしょうか。
神の子として、父である神との関係では、神の愛を受け、つねに神のまなざしに見守られ、つねに神との交わりを保ち、すべてを委ねておられた方であったことがわかります。そこにほんとうの「安心」があります。
神の子として、神の栄光を受け、権威に満ち、神の霊に満たされておられる方でした。そこにほんとうの「自信」があります。
そして、徹底的に神さまのみ心に服従された方でした。死に至るまで十字架の死にいたるまで、神のみ前に謙遜であり、従順であられました。神への服従は、まったくご自分の自由意思によるものでした。そこには、生も死も越えた、誰にも束縛されない完全な自由があります。
ルカによる福音書では、今、読まれた聖書のこの出来事が起こったのは、「わたしは、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日目に復活することになっている。」と言われた、最初の予告(9:22)の直後でありました。
イエスさまは、弟子たちに、死と復活の予告をなさった時から、8日ほど経ったとき、12人の弟子たちの中から、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人を連れて、お祈りをするために山に登られました。
この山の上で祈っておられるうちに、イエスさまの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いたと記されています。そして、そこに、2人の人が現れて、イエスと語り合っているという光景を弟子たちは見ました。それは、モーセとエリヤであったと、弟子たちは、そのように思いました。
モーセは、神さまから律法を授けられた人で、律法を代表していると言います。そして、エリヤは、ずっと後の時代の預言者ですが、預言者たちを代表しています。この律法と預言を代表する2人が、神の栄光に包まれて、すなわちまばゆい光に包まれて現れ、イエスさまと話をしていました。その話の内容は、イエスさまが、これからエルサレムに上って行き、そこで成し遂げようとする最期のことについて話しておられたというのです。
ペトロとヨハネとヤコブの3人の弟子たちは、ひどく眠かったのですが、じっとこらえていました。そして、この栄光に輝くイエスさまと、そばに立っている2人の人の姿が見えたというのです。すると、その2人がイエスさまから離れようとしたので、ペトロがイエスさまに言いました。
「先生、わたしは、今、すばらしいものを見ているのです。このような場にいるということは、考えられないような出来事です。ここに仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と、叫びました。
それには理由がありました。当時は、イスラエルの民の最も大きな祭りは「過越の祭り」と「三大巡礼祭」でした。過越の祭りは、遊牧生活からくる祭りで、三大巡礼祭は、農耕の祭りでした。この三大巡礼祭は、「種入れぬパンの祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」からなっていました。七週の祭りと仮庵の祭りは、収穫感謝の祭りでした。とくに仮庵の祭りは、秋に行われ、7日間祝われました。かつて、ぶどう畑で収穫のときには、木の枝で簡単な小屋をつくり、番小屋としてそこに住み、または収穫物を入れたということから、この仮庵の祭りの期間、畑に木の枝を組んで簡単な小屋を作り、そこに寝泊りするのが祭りの習慣でした。(申命記16:13、レビ23:34、42〜43、申命記31:10、ゼカリア14:16、18〜19等)
ペトロは、動転して、自分でも何を言っているのか、分からなかったのでしょう。頭が真っ白になった中で、神さまの使いとも思えるこの方々に、少しでも長く止まっていただきたいという気持ちで、とっさにこの仮庵の祭りの仮小屋のことを思い出し、奇妙な提案を口走っていたというのでしょうか。
ペトロが、こんなことを言っていると、雲が現れて彼らを覆いました。彼らが雲の中に包まれていく様子を見て、弟子たちは恐れを感じました。
すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(35節)と言う声が雲の中から聞こえました。その声がしたとき、そこにはイエスさまだけがおらました。弟子たちは、このような不思議な光景を見たことを、当時はだれにも話さず、沈黙を守っていたと記されています。
これは、イエスさまの姿が真っ白に光り輝く姿に変わったということから「主イエスの変容貌」の出来事と言います。イエスさまと父である神さまが、直接交わっておられる瞬間であったと言われています。
十字架の死と復活が予告された後、このように山の上で、その姿が真っ白に光輝き、人間となられたイエスさまが、瞬間的に神の栄光をお受けになったという出来事です。
これこそ、神の側から、人間となられた御子に対して、安心、自信、自由を保証される信号を送っておられる瞬間だと思います。
神は、その独り子を、この世にお遣わしになりました。愛するひとり子、愛おしい、愛おしいひとり子を、その命を与えるために、人間の姿を取らせ、お遣わしになりました。神は、そのひとり子イエスと、最も大事な時に交信しておられます。今の時代で言えば、小さな子どもに一人旅をさせて、その時に、親は心配で、子どもに携帯電話を持たせて、時々無事を確かめる、親の気配り、目配せを思い起こさせるものを感じさせます。
父なる神と子なるキリストのこのときの関係は、単に無事を確かめるというような、生やさしいものではありません。我が子が、自分の死と復活の予告をした直後に、最も切迫した、心も身もかきむしられるような思いや関係の中での、目配せです。
この時、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえました。
しかし、このイエスの死と復活によって、私たちは神の愛を知り、イエスさまのまなざしを感じることができ、神のみ心を知ることが出来る者となったのです。
私たちは、今、どのような境遇にあっても、決してお金持ちでなくっても、完全な健康状態でなくっても、必ずしも多くの人に囲まれてちやほやされていなくっても、イエス・キリストの死と復活によって、神さまによる、ほんとうの安心、ほんとうの自信、ほんとうの自由が得られることが確信できるようになったのです。
今週の水曜日、2月17日(水)から、私たちは「大斎節」を迎えます。この日から、4月4日の復活日、その前日まで、日曜日を除く40日間、大斎節を過ごします。教会の習慣では、古くからこの期間を祈りと克己と断食のときとして、これを守ってきました。
ともするとマンネリ化、惰性化、形式化する、私たちの信仰生活や教会生活に、アクセントをつける、心も体も主イエスの死と復活に集中させる大事なときであり、自分の信仰を謙虚にふり返り、また吟味する時であります。
この時に、神さまにすべてを委ねるほんとうの安心と、神さまによって与えられるほんとうの自信と、神さまに従おうとするすることにおって与えられるほんとうの自由について、思いを深くしたいと思います。
イースターのほんとうの喜びを得るために、この大斎節を有意義に過ごしましょう。
〔2010年2月14日 大斎節前主日(C) 京都聖ステパノ教会〕