「わたしは必ずあなたと共にいる。」

2010年03月07日
出エジプト記3:1〜15  私たちは、いつも祈祷書を使って礼拝をささげていますが、聖餐式の式文を改めて見てみますと、だいじなお祈りや朗読の前では必ず、司式者と会衆が呼び交わす言葉があります。  それは、その主日の特祷の前と、福音書が読まれる前、パンとぶどう酒を聖別する感謝聖別の祈りの前にあります。それは、どういう言葉かと言いますと、司式者が「主は皆さんとともに」と言います。すると、会衆は「また、あなたとともに」と言います。  これは、司式者が、「主が皆さんとともにおられますように」と祈り、これに対して会衆は「主が、また、あなたとともにおられますように」とお祈りをもって返します。これは、最も短いお祈りの言葉です。  この言葉は、原始教会と言われる、最初のクリスチャンの教会の時代から、用いられていた挨拶の言葉だったと言われます。  「お早う」「今日は」の変わりに「主が皆さんとともに」「またあなたとともに」と言い、分かれる時も、「さようなら」のかわりに、「主は皆さんとともに」「また、あなたとともに」というこの言葉を交わします。同時に、クリスチャン同志の合言葉にもなっていたといわれます。  神さまが、あなたとともにいてくださいますように。  主イエスさまが、あなたとともにいてくださいますように。  聖霊さまが、あなたとともにいてくださいますように。  このように、つねに祈り合っていたことがわかります。  厳しい迫害の中で、クリスチャンであることがわかれば、捕らえられて牢に入れられたり、殺されたりする時代に、人目を避けて、暗闇の中で、命がけの張りつめた緊張の中で、「主が、あなたとともに」「また、あなたとともに」と呼び交わしつつ集まっていました。  たとえ今すぐに、捕らえられたり、命を落とすようなことがあったとしても、「主がともにいてくださる」ことを確信し、確認し合っているのです。  今日は、この「主がともにいてくださる」ということについて学びたいと思います。  先ほど読んでいただいた旧約聖書、出エジプト記3章1節から15節では、モーセが初めて神と出会った時の出来事が記されています。  モーセは、妻ツィポラのしゅうとミディアンの祭司であるエトロの家にいて、羊の群れを飼っていました。  モーセは、あるとき、羊の群れを追って荒れ野を奥へ奥へと進んで行き、神の山ホレブに登って行きました。そのとき、枯れ木が立ち並ぶ中、柴の間に燃え上がっている炎を見つけました。  柴は燃えているのに、その柴は燃え尽きません。モーセは、「不思議なことだ。この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」と言ってその燃える柴に近づいていきました。  すると、柴の間から「モーセよ、モーセよ」という神さまの声が聞こえました。モーセが、「はい」と答えますと、神さまが言われました。  「それ以上ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。お前が立っている所は聖なる土地なのだから。」  モーセは、慌てて履き物を脱ぎました。神はさらに言われました。  「わたしは、お前の義父エテロが信じている神である。族長アブラハムが信じた神、イサクが信じた神、ヤコブが信じた神である。」  モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆いました。神は言われました。  「わたしは、エジプトにいるわたしの民、イスラエルの民が苦しんでいる姿を一部始終見た。エジプト人に奴隷のようにこき使われ、その苦しみのゆえにあげる叫び声を聞き、その痛みを知った。そこで、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、そこから、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人たちが住む所へ彼らを導くことにした。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。  さて、モーセよ、これからエジプトへ行きなさい。わたしはお前をエジプトの王ファラオのもとに遣わす。わたしが選んだ民、わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」  モーセは、神さまに言いました。  「あなたは、わたしを何者だと言われるのですか。なぜ、わたしがファラオのもとに行き、しかも、なぜ私がイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」  すると、神さまは言われました。  「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」  神が、突然「モーセよ、これからエジプトへ行きなさい。わたしはお前をエジプトの王ファラオのもとに遣わす。わたしが選んだ民、わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と命じられたのです。  モーセは、びっくりしました。私は今、羊飼いの一人に過ぎません。どうして、私にそのようなことができるのですか。私にそのような能力や力があるのですか。私がなぜそんなことをしなければならないのですか。」と言って、神さまの命令を受け入れようとはしませんでした。  モーセは、「そもそも、イスラエルの人々に、そのように言うその神の名は何というのかと問われたら、何といえばいいのですか」、また「イスラエルの人々は私を信用するでしょうか」、「私は口が重く、舌も重い、口べたですのに」と、一生懸命抵抗しました。  これに対して、神さまは、「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と言われました。  また、「『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだ」と言いなさい。」「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたたちのもとに遣わされた」と言いなさいと言われました。  そして、最後に、「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」と言われました。  このことにより、モーセは、エジプトに行き、エジプトの王に数々の奇跡を示し、イスラエルの民を説得し、彼らを連れ出して、エジプトを脱出させました。  その間、神は、つねにモーセと共にあり、モーセに率いられた人々の先となり後となって、彼らを守り、ある時には厳しい試練を与え、またある時には主の掟「十戒」を授け、40年間、荒れ野で放浪し、乳と密の流れる地、カナンの地に導かれました。  旧約聖書の中で、最も大事な、そして有名な、誰でも知っている「出エジプトの物語」、「エジプト脱出の物語」です。    聖書を読んで、神と私たちの関係を知るために、いくつかのキーワードがあります。その一つが、「神は、私たちと共にある」という言葉です。  「共にいる」という言葉は、人間関係の中でもよく使われます。具体的には、恐い時や不安がある時、一緒にいて下さい、共にいて下さいと言います。共にいてくれると安心する、心丈夫、心強いという気持ちだけではなく、助けてもらえるとか、助言を与えてもらえるという、共にいてもらうことのプラス面を考えることができます。  また、目に見える形で「共にいる」ということがなくても、遠くに住んでいても、心が通じ合っていることがあります。いつも心に思っている、心にかけているという関係を持つこともできます。それは、具体的な距離や間隔にかかわりなく、「共にいる」ことを確信し、同じように力づけられることができます。  聖書には、神は存在するかしないのかとか、神を信じることができるかできないかというような議論は全くありません。聖書の登場人物がつねに問題にするのは、「神が共にいてくださるのか、いてくださらないのか」ということにあります。神さまが共にいてくださるということは、神さまが祝福を与えて下さる、神さまが力を発揮してして下さることと共通の意味を持っています。  そのことは、言いかえれば、いちばんだいじなことは、「今、神が共にいて下さるのか、共にいて下さらないのか」ということであり、私たち自身が、「神さまと共にいるのか、いないのか」ということが問われています。  苦しい時も、悲しい時も、病気の時も、死に臨んでいるときでさえも、「神さまが共にいてくださる」ことが問われています。どんなに苦しい時でも神が共にいてくだされば、かならず、道は開かれ、乗り越えることができます。反対に、うれしい時、幸せだとつくづく感じる時、絶好調な状態にあるときでも、「神が共にいてくださる」のでがなければ、それは空しい、ほんとうの喜びではありません。私たちは、謙虚に喜ぶことは出来ないのです。  主イエスの誕生の物語を思い出してください。  ヨセフのところに、主の天使が夢に現れて言いました。 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」  このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。   その名はインマヌエルと呼ばれる。」   この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。                       (マタイ1:20〜23)  イエスさまがこの世にお生まれないなった時、預言者イザヤの書、7章14節に預言されている言葉が成就したのだと受け取られました。  この方は、インマヌエルと呼ばれる。それは、「神は我々と共におられる」という意味であると理解されました。  この方の存在、この方こそ、目に見える姿で現れた「神は我々と共におられる」そのものだと言います。  従って、私たちが、イエスさまと共にいることは、神さまが共にいて下さることであり、反対に、私たちが、イエスと共にいない時は、神さまは、私たちと共にいてくださらないということになります。  神は、いつも共にいて下さいます。しかし、私たちの方が、神を見失い、イエスさまを見失い、心が離れてしまって、どこかへ飛んで行ってしまっているのです。  「インマヌエル」と呼ばれるイエスさまを見失うことがないように、イエスさまが共にいてくださいますように、私たちの心が、つねにイエスさまと共にあることができますようにと祈ります。  私たち、キリスト者の朝も昼も晩も、出会った時も、別れる時も、いつどこにおいても、交わす言葉、私たちの合い言葉は、「主があなたと共におられますように」であり、「また、あなたと共におられますように」でなければならないと思います。  まず、今日から心を込めてこの言葉を口にしていただきたい思います。         「主は、皆さんとともに」     「また、あなたと共に」     〔2010年3月7日 大斎節第3主日(C年) 桑名エピファニー教会〕