「神さまの愛の深さと、人間の心の狭さ」

2010年03月14日
放蕩息子のたとえ ルカ福音書15:11〜32  今日の福音書は、聖書の中でもよく読まれる「放蕩息子のたとえ」です。ある注解書に、このルカ15章11以下の個所を見ますと、冒頭に次のように書いてありました。  「このたとえの読者は、解説なしに読むほうが、たとえの意図する天の父の心を感じとれる。これでは注解者は仕事がなくなるので、一応無駄な解説を試みる。」(「新約聖書注解�機廛襯�書 三好迪)  たしかに、このたとえは、解説の必要がなく、それぞれ自分で読んで、神さまとはどういう方なのか、私たち人間は、神さまに対して、いつもどのような振る舞いをしているのか、このイエスさまがなさった「たとえ」で、イエスさまは、神さまの愛とはどういうものだと言っておられるか、私たちは自分でそのことに気づかなければならないのだと思います。  しかし、私も、説教者として、その務めを果たさねばなりませんので、今日のこの聖書の個所から一緒に学びたいと思います。  今日は、このたとえを、「神さまの愛の深さと、人間の心の狭さ」ということをテーマに考えてみたいと思います。  このたとえに登場するのは、お金持ちの父親と、兄と弟の二人の息子です。  弟は、どうしようもない罪人を表しています。  弟は、父から受けるはずの遺産を父がまだ生きている間に、当然のように受け取って、父の家を飛び出しました。「遠い国へ」「豚の世話をしいていた」という言葉から、親の目が届かない、異教の国へ行って、でたらめな生活をし、放蕩に明け暮れて、任された財産を使い果たしてしまいました。  すべての金を使い果たし、ユダヤ人には屈辱的な豚の世話をするまでに身を落とし、誰も助けてくれない、食べるものをくれる人もいない、その時になって、この弟は、やっと我に返って言いました。  「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』」と。  この弟は、私たちの姿を示しています。私たちは、神さまから沢山の才能、能力、体力、その他数え切れないほどの賜物を受け取っています。  これはすべて、当然私のもの、受け取って当たり前と、神さまのことなど忘れてしまって、自分の勝手に自分の好きなように使って、そして、全部使い果たして、そこではじめて気がつきます。  「私はとんでもない罪を犯しました。もう神さまの愛をうけるような資格はありません。しかし、助けてください」と、行き詰まったときだけ、都合のいいお祈りをし、お願いをします。  この弟の願いも、ほんとうに悔い改めたのかどうかわかりません。  「飢え死にしそうです。家には有り余るほどパンがあるのに」と言っています。ただ「パンを食べたいから」だったのかも知れません。  弟は、父のもとに帰ってきました。  ところが、この父親は、まだ遠く離れていたのに、息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻しました。 息子は「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」  しかし、父親は、息子が「雇い人の一人にしてください」と、最後まで言い終わらないうちに、言いました。  「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやりなさい。足に履物を履かせなさい。」と僕たちに言い、それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と言って、祝宴を始めました。  この父親は、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と言って喜びました。  この喜びは、99匹の羊を置いて1匹の羊を見つけ出した羊飼いの喜び、銀貨10枚を持っている人が、その1枚を無くし、家中探し回ってその1枚の銀貨を見つけ出した時の喜びと、同じ喜びです。  この父親は、神さまを表しています。この息子に対する無限の愛、無条件の愛がここに示されています。  私たちが住むこの社会で、現実にこのような父親がいたとしたら何と言うでしょうか。  「なんてバカな父親だろう。溺愛もいいとこだ。あんなことをいうと、どら息子をつけあがらせるだけだ。愚かな愛だ」と言うでしょう。  しかし、神さまの愛とは、私たちが常識で考える愛とは違います。これが神さまの愛なのです。神さまの愛の動機は「憐れみ」です。神さまから離れていた者が、返ってきた時には、こんなに無条件に、無限の愛をもって迎えて下さる、喜んで下さるということです。  ところが、外から帰ってきた兄の方は、ぐうたらでどうしようもない弟が帰ってきて、その弟ために、父親がこんな盛大な宴会を開いているのを見て、父親に腹を立てました。父親に文句をいいました。  「わたしは何年もお父さんの下で仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹くれたことはなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの財産を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになりました。不公平ではありませんか。こんな理不尽なことはありません」と。  兄が怒るのは当たり前のことだと言えます。父の畑で働いて、疲れて帰ってくると、怠け者の弟が帰っていて、父親がその弟のために宴会を開いてご馳走を出しているとなると、誰でも怒ります。  しかし、神さまの愛というのは、私たち人間の常識を、はるかに越えています。私たちの頭の中の常識ではとうてい計り知ることができないものなのです。  単なる公平さで、その人の行いによって、愛せるか愛せないかを決めるような方ではないのです。  この兄には、父親が持つ「愚かな愛」とも言える神の愛を理解することができません。  でたらめな、ぐうたらな、どうしようもない、人に迷惑をかけっぱなしの、ふしだらな、不道徳な、そんな人間が戻ってきても、そう簡単には受け入れないのが普通です。それを当然の、前提にして、私たちは、愛だとか愛すべきだと言っています。  とくに、宗教家や教育者、熱心なクリスチャンほど、このような放蕩者、ならず者、犯罪者に対しては厳しい判断をします。厳しく追及します。  この兄は、父親に、自分の弟のことを「あなたのあの息子」と言っています(30節)。自分との関係では弟と認めたくないこの兄の冷たさ、いかにも愛のない言葉が吐かれています。  これに対して、父親は「お前のあの弟」と答えています(32節)。  そして、父親の言葉は、兄に向かっても「子よ」と呼びかけ、「お前はいつもわたしと一緒にいるではないか。わたしのものは全部お前のものだということがわからないのか。だが、お前の弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。さあ一緒に喜んでくれ」と、喜ぶ理由を繰り返します。  今、もう一度この放蕩息子のたとえを読み返してみますと、私たち自身が、弟であり、そして兄であることがわかります。  神さまの愛は、私たちが考える常識的な愛とは違います。それほど大きく、そして深いものです。それに比べて、私たちが持っている愛は、この兄のような、いたって常識的で、自分の正当性を主張し、自分のしてきたことを誇る、自己の業績を並び立てて見せる傲慢に裏付けられた愛だということに気づきます。  神さまの愛に比べると、私たちの愛は、いかに狭く、小さなものであるか、いや、愛がないと言われても仕方がない生き方をしていることに気づきます。  神さまの愛は、「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。さあ一緒に喜んでくれ」という無条件の愛です。少しでも、神さまの愛に近づき、少しでも神さまと共に喜ぶ者に なりたいと願います。  私たちも、神さまが喜び楽しむ祝宴の席につき、心から一緒に喜ぶことができる「愛」に少しでも近づきたいと思います。  最後に、このたとえには記されていませんが、この弟について、私の思いをつけ加えます。  この弟は、一番困っている時、飢えている時、助けてくれる人が誰もいなくなった時、彼は我に返ってつぶやきました。  「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました』と。」    弟は、この時、悔い改めたのですが、神さまが求めておられるような次元のほんとうの「悔い改め」だったのでしょうか。「飢えて死にそうだ。パンを食べたい」ということだけが、父の家に帰ろうという動機で、「罪を犯しました」と、罪の告白をしたのではなかったでしょうか。この弟が「我にかえった」という動機は、そのようなものであったように思えるのです。  しかし、恐る恐る、家に帰ってみると、父から小言一つ言われるのでもなく、責められるのでもなく、無条件で受け入れ、体中で抱擁して、喜んで迎えてくれたました。この時、ほんとうの父の愛に触れました。この父親のほんとうの愛に触れた時、この弟は、ほんとうの悔い改めが出来たのではないかと思うのです。  そして、私たちには、十字架に懸けられて、愛するひとり子を与えて下さった「ほんとうの愛」が示されています。 「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17:神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16-17)  「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(第一ヨハネ4:8-10)     〔2010年3月14日 大斎節第4主日(C) 京都聖ステパノ教会〕