「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」
2010年04月04日
ルカ福音書24:1〜10
イースターおめでとうございます。主のご復活を心から喜び、その恵みに与ることができますことを心から感謝いたします。
イースターは、クリスマスと並んで、キリスト教の教会の最も大きなお祭りですが、教会にとっては、クリスマス以上に大切な、神さまに感謝と賛美を献げるお祭りの日なのです。
そのことを覚えて、主の復活について学び、私たちの信仰を強めたいと思います。
今日の福音書は、ルカ24章1節以下が読まれましたが、その前の所から見ますと、十字架につけられたイエスさまは、ひときわ大きな声で叫ばれて、息を引き取られました。その出来事を、イエスさまと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、涙を流し、息を詰め、胸を掻きむしるような気持ちで、どうしようもなく、遠くに立って見ていたと記されています。
アリマタヤのヨセフという議員が、ピラトのところに行って、イエスさまの遺体を引き渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、墓に納めました。
その日の夕方から安息日が始まろうとしていましたから、十分な葬り世話もできないまま墓に収められました。
婦人たちは、ヨセフの後について行って、お墓と、イエスの遺体が納められている様子を見届けて家に帰りました。婦人たちは、安息日の掟に従って休みました。
そして、安息日が明けて、一週の初めの日、朝早く、婦人たちは、準備しておいた香料を持って墓に行きました。すると、石が墓のわきに転がしてあって、お墓の中に入りましたが、主イエスの遺体が見当たりません。婦人たちは、驚き、恐れ、途方に暮れていると、輝く衣を着た2人の人がそばに現れました。
婦人たちは、恐くて地に顔を伏せると、2人は言いました。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜しているのか。あの方は、もうここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』と言われたではないか。」
そこで、婦人たちはイエスさまが予告して語っておられた言葉を思い出しました。そして、墓から走って帰って、11人の弟子たちとほかの人たち皆に一部始終を知らせました。
この婦人たちというのは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちでした。婦人たちは、お墓であった出来事の一部始終を使徒たちに話しました。
今日の福音書は、ここまでですが、続きがあります。
しかし、使徒たちは、「この話が、たわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」とあります。しかし、ペトロは、立ち上がって墓へ走り、身をかがめて、墓の中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰っていきました。
これが、ルカ福音書が伝える「主イエス復活の朝の出来事」です。
古いユダヤ人の考えの中に、「死者のよみがえり」というような思想は、あまりなかったと言われます。
ところが、イエスさまの時代に近づくと、旧約聖書の時代と新約聖書の時代の間の中間時代に、他民族の思想から影響を受け、復活の思想が入ってきたと言われます。
新約聖書には、ファリサイ派、サドカイ派といったユダヤ教の派閥があったことが紹介されていますが、律法学者などが中心のファリサイ派の人々は、死者の復活はあると主張し、神殿の祭司たちを中心にしたサドカイ派の人々は、死者の復活などないと主張していて、しばしば論争を繰り返していました。(マタイ22:23、使徒言行録23:6,7 )
イエスさま自身は、死者のよみがえりについてどのように考えておられたのでしょうか。
新約聖書には、会堂長ヤイロの12歳の娘をよみがえらせた奇跡物語(マルコ5:21-24、35-43)、ナインの町で、やもめの息子をよみがえらせた奇跡物語(ルカ7:11-17)があります。
また、最もよく知られているのは、ベタニアのマルタ、マリアという姉妹の兄弟ラザロをよみがえらせるという奇跡を行われました。(ヨハネ11:1-44) その時に、イエスさまは、「あなたの兄弟は復活する」と言われ、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:23-27)と言われました。
イエスさまがよみがえられる、その瞬間を見た人は誰もいません。よみがえるというのは、どういう姿で、どのようになるのか、その場を見た人はいません。そして、第一発見者である婦人たちも弟子たちも、はじめは、イエスさまが復活されたのだということは信じられませんでした。
安息日が明けて、朝早く、いちばん先にお墓へ行った婦人たちが見たものは、「空っぽ」のお墓でした。
そこに、輝く衣を着た二人の人がそばに現れました。ヨハネ福音書には、「白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた」と記されています。
そして、この二人は言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と。婦人たちは、それを聞いても信じられませんでした。
マルコ福音書によりますと、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(16:8)と記されていてその驚きようがわかります。
婦人たちは、弟子たちの所へ知らせに走りました。
弟子たちも、婦人からこの話を聞いて、「婦人たちを」信じられませんでした。彼らはこの婦人たちの話を「たわごと」だと思いました。
「たわごと」とは、馬鹿げた言葉、愚かな話、冗談でしょ、という意味です。
ペトロは、すぐに立ち上がり、墓まで走っていって、お墓の中をのぞきました。イエスさまを包んでいた亜麻布しかなかったので、驚きながら家に帰って行きました。弟子たちが自分の目で見たのも「空っぽ」のお墓だけでした。そして、イエスさまは復活したのだと聞いても、すぐには誰も信じられませんでした。信じた者はいなかったということです。
それが、いつから、どのようにして、主イエスの復活を信じるようになったのでしょうか。信じられるようになったのでしょうか。
時間の経過については、正確なことはわかりませんが、その一週の初めの日から、時間が経ち、日が経つにつれて、「復活したイエスさまが現れた」、「よみがえられたイエスさまのお会いした」という出来事や噂が広まっていったのです。
ルカ福音書によると、エルサレムからエマオという村に歩いている2人に弟子に、復活した主イエスが現れ、弟子たちにはそれがイエスさまだとは気が付かなかったが、宿屋で一緒に食事をしている時、パンをさく姿を見て、イエスさまだと気がついたという出来事がありました。(24:13-35)
また、弟子たちが集まっている真ん中に復活された主イエスが立ち、手と足を見せ、焼いた魚を食べ、教えを説き、あなたがたは証人となる、エルサレムにとどまりなさいと命じられるという出来事がありました。(24:36-49)
さらに、ヨハネ福音書によりますと、復活した主イエスは、マグダラのマリアに現れ(20:11-18)、弟子たちの中に現れ(20:19-23)、トマスに現れました(20:24-29)。
パウロは、コリントの信徒への第一の手紙に、次のように記しています。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり3日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。次いで、5百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」(15:3-8)
復活した主イエスが、たびたび顕れ、これを見た人たちは、驚き、喜び、受け入れ、信じ、そして、語りました。
これらの出来事が、口伝えに、次々と伝わり、これを聞いた人が新たな証人となって、次の人々に宣べ伝えられました。
キリストの十字架が無ければ、復活はありません。
復活がなければ、キリストの教会は生まれていません。
もし、教会がなければ、世界中の人々は、ほんとうの神さまを知ることができませんでした。
そして、今、私たちは、神さまを信じ、神さまを礼拝し、生きる力が与えられ、感謝し、生きる喜びに満たされて人生を過ごしています。
私たちが、主イエスのご復活を、今、あらためて祝い、感謝し、心から喜ぶということは、このことを確認することです。
1 神さまは、死も生も支配しておられることを確認します。
2 主イエスは、死んで、よみがえり、死に打ち克たことを信じます。
3 主イエスの存在、そのものが復活であり命であることを信じます。
4 復活した主イエスは、今も、私たちと共にいてくださいます。そして、私たちに 顕れてくださいます。
5 主イエスを信じる者は、私たちもまた、主イエスと共によみがえることを信じま す。
パウロによる、コリントの信徒への手紙15章
「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。43:蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(第一コリント15:35〜38,43〜44)
ローマの信徒への手紙10章9節、10節。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」
多くの人々は、復活の出来事を、見て信じたのではなく、聞いて信じました。
共に、主のご復活の喜びを心に深く受けとめ、共に祝いましょう。
〔2010年4月4日 復活日(C) 富山聖マリア教会〕