パンを取って弟子たちに与えられた。

2010年04月18日
ヨハネ21:1−14  去る4月9日、作家であり、劇作家であり、随筆家、そして平和運動にも積極的に取り組んでおられた井上ひさしさんが亡くなりました。  この方の、1985年10月に発表された戯曲に、「きらめく星座―昭和オデオン堂物語―」という作品があります。  この中に、竹田という登場人物が語る次のような言葉があります。  「この宇宙には4千億もの太陽が、星があると申します。それぞれの星が、平均10個の惑星を引き連れているとすると、惑星の数は約4兆。その4兆の惑星のなかに、この地球のように、ほどのよい気温と、豊かな水に恵まれた惑星はいくつあるでしょう。たぶん、いくつもないでしょう。だからこの宇宙に地球のような水惑星があること自体が奇跡なのです‥‥‥。  水惑星といって、かならず生命が発生するとは限りません。しかし地球にあるとき小さな生命が誕生しました。これも奇跡です。その小さな生命が、数かぎりない試練を経て人間にまで至ったのも、奇跡の連続です。そして、その人間の中に、あなたがいるというのも奇跡です。こうして何億何兆もの奇跡が積み重なった結果、あなたも、わたしも、今、ここにこうしているのです。わたしたちがいる、今生きているというだけで、もうそれは奇跡の中の奇跡なのです。こうして話をしたり、誰かと恋だの喧嘩だのをすること、それもそのひとつひとつが奇跡なのです。人間は奇跡そのもの。人間の一挙手一投足も奇跡そのもの。だから人間は生きなければなりません。」  このように、この劇の登場人物が叫びます。  私は、井上ひさしさんというと、この言葉を思い出します。神という言葉は出てきませんが、「奇跡」という言葉の向こうに神さまを感じます。「今、ここにこうしているのです。わたしたちがいる、今生きているというだけで、もうそれは奇跡の中の奇跡なのです。」宇宙の中に浮かんでいる地球という惑星の一つに、こうして生きている、そのことが奇跡ですと言われると、ほんとうにそうだと思います。しかし、私たち人間、奇跡そのものだというその人間自身は、自分がここにいること、生きていることを奇跡だとはあまり思っていません。  聖書の中に、奇跡の出来事、奇跡物語がたくさんあります。奇跡とは、私たちが、常識では理解できないような出来事を言います。私たちが知っている自然現象、自然界の法則を越えた出来事や予測しえない現象が起こると「奇跡だ!」「奇跡が起こった!」「信じられない」と言います。井上ひさしの言葉を借りれば、「私たちが、今、生きているというだけで、奇跡の中の奇跡なのです」から、奇跡そのものが奇跡を体験して、「奇跡だ」と言っていることになります。  聖書の奇跡物語の中でも、いちばんの奇跡は、イエスさまが十字架に懸けられて死に、そして、3日目によみがえられたという復活の出来事です。  一週の初めの日の朝早く、空っぽのお墓を見た婦人たち、その報せを聞いて駆けつけた弟子たち、空っぽになった墓を見て、「あの方はよみがえったのだ」と言われても、最初は、そのことをすぐには信じることがはできませんでした。  イエスさまが、生前「わたしは、かならず多くの苦しみを受け、殺される。そして3日目によみがえる」と、予告しておられたことを思い出し、復活したイエスさまがたびたび弟子たちのところに現れ、よみがえったイエスさまがさらに奇跡を行って見せ、聖霊による後押しを受けて、はじめて、「イエスさまがよみがえった!」「ほんとうにイエスさまは復活なさったのだ!」ということを、受け入れ、信じるようになったのです。  イエスさまが十字架で、苦しみもだえ、息を引き取られたあの出来事以来、弟子たちは、不安、恐怖、絶望のどん底にあって、死んだようになっていました。しかし、その弟子たちが、主イエスの復活を受け入れられた時、死んでいた者が生きる者に、新しく生まれ変わりました。  今日の福音書では、ティベリアス湖(ガリラヤ湖)のほとりで、ペトロたち7人の弟子たちが、魚を獲る漁をしていたとき、そこに復活したイエスさまが現れたという出来事が記されています。  この復活物語から、わかることがあります。  第1に、よみがえりのイエスさまにお会いした時、はじめは、その方がイエスさまであるということが、弟子たちにはわからなかったということです。  第2に、よみがえりのイエスさまは、不思議なこと、すなわち、奇跡を行って、この方は普通の人ではないという思いを起こさせておられます。 第3に、弟子たちに、かつてイエスさまがなさっておられたことを思い出させ、ご自分が、誰であるかを証明しておられます。  もう一度ふり返ってみますと、  まず、弟子たちには、最初、この方が、イエスさまであることがわかりませんでした。弟子たちは、約3年間毎日顔を合わせて話を聞き、イエスさまに従って町や村を巡り、寝食を共にしていました。ですから、誰よりもイエスさまのお顔をよく知っているはずです。命がけで慕っていたのですから、イエスさまの顔を忘れるはずはありません。 しかし、弟子たちには、この目の前にいる方が、イエスさまであるとは気づきませんでした。まったく別の人の姿形を取っておられたのか、弟子たちがはっきり意識して見なかったのかわかりませんが、その方がイエスさまだとは、気がつきませんでした。  次に、かつてペテロとアンデレ、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネは、ガリラヤ湖で魚を獲る漁師をしていました。魚を獲るプロでした。その弟子たちが、一晩中漁をして、一匹も魚が捕れず、朝方に帰ってきて、岸辺に近く90メートルほどの所で、イエスさまから、声をかけられ、「舟の右側に網を打ちなさい」と言われたのです。こんな不漁の夜は、どんなに努力しても魚は獲れるはずがない、ましてやこんなに岸に近い所ではと思いながら、しかし言われたように網を入れると、おびただしい数の魚が捕れたのです。漁をしていた弟子たちは、驚きました。ありえないことが起こりました。奇跡を目の前に見ました。 そして、この方は普通の方ではない、奇跡を起こす力を持っておられる方だ、「主だ」と、だんだんと輪郭が見えてきました。  そして最後に、イエスさまは、弟子たちと共にパンを取って与え、同じように焼いた魚を取って与え、これを食べさせました。弟子たちは、かつてイエスさまが、捕らえられる直前に、弟子たちとともに過越の食事をし、その席で、パンを取り、感謝の祈りを唱えて、そのパンを裂き、そして言われました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と。(ルカ22:19)  この最後の食事の出来事、イエスさまの言葉を思い出した時、ぼんやりしていたピントが、ここでピタッと合いました。  この方こそ、イエスさまだ、ほんとうによみがえったイエスさまが現れてくださったのだ、イエスさまが、今、私たちと共にいて下さると、主の復活を完全に受け入れる者となりました。  私たちは、自分が自分であることを証明しなければならない時があります。役所や郵便局や銀行などで、「何か本人であることを証明するものを持ってきて下さい」と言われます。身分証明書や運転免許証やパスポート、保険証でもいいなどと言われるのですが、たまたまそういうものを何も持っていないと困ってしまうことがあります。  どこかの窓口で、自分の鼻の頭を指さして、「私が、わたしです。わたしが本人です」と、どんなに叫んでみても、そういうものがなければ信じないという人に、私がわたしであることを信じてもらうことは難しいことです。    さて、復活されたイエスさまは、弟子たちの所にたびたび現れて、弟子たちに、ご自身であることを繰り返し証明しようとなさっておられます。ある時には、ご自分の手と脇腹にある傷跡を見せ、食事を共にしてパンを裂き、ある時には、焼いた魚を食べてみせておられます。  イエスさまは、弟子たちに「わたしだ、わたしだ」と、必死になって、弟子たちが理解できるように、ご自分がご自分であることを証明しようとなさっておられます。幽霊でもない、亡霊でもないということを、証明するために、みんなの前で、焼いた魚を食べて見せ、口のまわりに魚のこげをつけて、むしゃむしゃと食べて見せておられるその姿が想像できます。(ルカ24:36〜43)  主イエスは、パンを裂き、感謝の祈りをささげ、そして、これを弟子たちに与えて、「これを食べるたびにわたしを記念しなさい」と言われました。  私たちは、パンとぶどう酒を頂くとき、ここに、よみがえったイエスさまが、私たちと共にいて下さることを記念します。「記念する」とは、過去の出来事を深く心に刻み、そのことへの思いを新たにすることです。 さて、私たちは、これから聖餐式を続けます。今、新たな思いで、復活のイエスさまにお会いできる喜びと感謝をもって、パンとぶどう酒に近づきましょう。   〔2010年4月18日 復活節第3主日(C) 岸和田復活教会〕